因縁 42 姉弟
夕食後から湯浴みまでの時間を、エルバルトはミシェールと二人だけの時間として過ごした。
長く二人で支え合っていたので、ずっと一緒では気疲れするだろうというデューの配慮だった。
その時間、デューは恐らくヴィヴィアンナと会っているのだろうが、一日の内のほとんどを使ってくれていたので、エルバルトには不満や不平を感じる事はなかった。
何より、兄とはいえ空白の8年間があり、エルバルトにとっては生まれてからのほとんどの時間で、当然兄と過ごした記憶がない。修道院で年上の仲間も居たが、いずれ別れる事が分かっていたので、どうしても兄という存在は未知のものだった。
修道院に足繫く通ってくれて、大公城に来てからはこうして気遣ってくれているので、エルバルトは受け入れ始めてはいるが、まだミシェールに向ける全幅の信頼と同じようには、安心出来る相手と思えなかった。
エルバルトの一番側に居て、励まし、守ってくれていたのは、姉のミシェールなのだ。
幼い頃の自身の記憶は、弱い自分を強くするために、監視する母親の期待に応えられず、側に近づくと身体が竦むようになっていて、申し訳ないと思いながらも、逃げるしか出来ない情けない姿だった。
父親は優しくて、抱き締められた時の頼もしい大きさと、かけてくれる言葉に何度も安堵していた。
言葉でしか知らない兄の存在は、引き合いにだされる度に、姉の肩が揺れ、姉の表情を硬くしていく要因だった。
だから姉の負担にならないように、姉と母が笑えるようにと、兄の話題が出ないように、母親に怯えながらも頑張っていたが、思うように身体が動かず、自分が情けなくなってきた頃、夕食を嘔吐するようになっていた。
すぐに姉に気付かれ、それからは余計に姉が自分に気遣ってくれるようになっていた。
嘔吐を繰り返す内に、自分が消えれば、姉の負担は減るのでは?と思ったその日、エルバルトは呼吸が上手に吸えなくなり、手足が痙攣を起こして倒れてしまった。
その翌朝、初めて姉を抱き締めた時、こんなに小さいのかと姉の小ささに愕然とした。
父親の提案により、母親から離れた事で、身体が竦む事がなくなり、食事を嘔吐する事もなくなって、姉への負担が減った事で、エルバルトは勉強に集中出来るようになっていった。
家に戻ったら、母親にガッカリされないかも知れないと思えるようになった頃、兄の命日だからと一日だけ家に戻る事になった。
当時は命日という物がよく分かっておらず、久しぶりに母親と会う事に緊張していたのを覚えている。
初めて母親に頬を撫でられた時は衝撃だった。
父親に優しく迎えられて、周りに合わせて兄への祈りを捧げて、昼食中も以前のような母の監視するような視線がなかった為に、初めて母との食事で味わう事が出来た。
母に悪く言われている印象しかない兄の話を、父親が中心となり、姉と父が話した事で、やっと兄は家族だったのだと認識出来、兄に会えない事が不思議であった。
叔父夫妻の屋敷での生活ぶりを母から聞かれた時、つい肩が揺れてしまったが、話す内容に母親は微笑んでいるだけで、以前との違いに戸惑うばかりだった。
短いようで長い再会を終え、再び叔父夫妻の所で暮らしている内に、穏やかになった母親の所なら、以前のように兄と比べられる事もなく、姉への負担はないかも知れないと、希望が見えてきた。
兄の誕生日を祝う為に、再び両親に再会した日、初めて母親に抱擁され、
『離れて暮らす事で、エルバルトさんと、ミシェールさんを産んだ事が、わたくしにとって最高の出来事だったと、思い出したわ。辛く接してしまってごめんなさい』
と優しく言われた時、涙が溢れるのを必死にこらえて頷いた。
言葉や抱擁が嬉しかったのもあるが、やっと兄を家族として思えるようになったのに、兄の存在を否定するような言葉が、悲しかったのだ。
そして母が口にする『兄』はおかしいと気付いた。
『忘れろ』『最初から居なかった』と言いながらも、何度も引き合いに出し、姉をその度に傷つけていた。
兄の存在を否定するのなら、傷ついてきた姉は何だったのかと、母親への不信感が芽生えたのであった。
暫く叔父の屋敷で生活し、いよいよ実家に帰るとなった時、エルバルトは母親とどう接して良いのか分からなかった。
母親はすっかり人が変わったように穏やかになっていたが、芽生えた不信感から母親に近付く事が出来なかった。
距離を置いても、寂し気に微笑む母親は、以前とは全く違うのだとは理解出来たが、姉を傷つけてきた事実が許せなかったのだ。
その冬、高熱で倒れ熱で朦朧とする中、母親は側で必死に祈っていて、自分の身体はなぜこんなにも弱いのだろうと、エルバルトは悲しくなった。
苦しい息と朦朧とする意識に、死というものを朧気ながらに理解し、自分が居なくなったら、どう思うだろうか?兄を思い出して傷付くように、傷付いてしまうだろうか?と姉の事を思いながら、意識が遠のいていった。
次に意識を取り戻した時、母親がすがりつく様に泣いていた。
エルバルトの意識がある事に気付いた母親は、エルバルトの頬を撫で、涙の滲む甘えるような声で、悍ましい事を告げたのだ。
『私のエル。貴方を必ず王様にしてさしあげる。だから、死なないで、エル』
『そんなの、僕はなりたくない。お姉さまと、一緒が良い』
慌てて首を横に振ったが、母親の言葉は続いた。
『いいえ。貴方は王様になる資格がある。私の希望だもの。ミシェールさんも助けて下さるわ。だから安心なさって』
その冬が明けた春、両親が王宮へと呼び出され、母親が悍ましい言葉を実行したのだと悟った。
声を失って2年が過ぎ、兄に再会した姉は、喜びを隠す様に拒否反応を示していたのを、エルバルトは感じ取っていた。
他人行儀な時間を過ごしていると、兄の人柄に触れるにつれ、もっと知りたいと思うようになったが、姉が他人を装っているので、近付きすぎるのを遠慮していた。
父親にもして貰った事のない肩車をして貰ったのは、場の雰囲気に飲まれたからだ。
姉と兄が他人行儀になっていた理由を知り、やっと兄を兄として接する事が出来るようになった。
少しずつ知るにつれ、父親の優しさを思い出せる兄の優しさに、懐かしくなってきた。
兄の彼女ヴィヴィアンナから『二人を幸せにしたい』と言われ、姉が初めて人前で泣き、ずっと姉を我慢させていたのだと気づき、泣きたくなったのを、兄は我慢しなくて良いと言ってくれた。
大公城に向かう道中、兄を引き留めて、くっついて寝た。それは姉を苦しませていたのは母親で、兄は悪くないのだと、納得をしたかったからだ。
そして、昨日と今日とで兄への信頼が芽生えてきた。
朝食の時、眠さも手伝い、兄を試すような行為をしてみた。手掴みや、パンをちぎって並べたのはわざとだったのだ。
母親が兄を悪く言ったように『不出来』だというだろうか?と、内心不安だったが、優しく抱き上げられ、背中を撫でられた事で、やっと身体から力が抜けていくのを、エルバルトは感じた。
とは言え、ミシェールとの時間がエルバルトにとって一番安心出来るのは変わらない。
だから、二人でゆっくり過ごせる時間を、兄が尊重してくれた事に、エルバルトは安堵している。




