早乙女さんは妥協しない
「休日出勤してくれて助かったわ。周りが女の子連れとかカップルだとどうしても浮いてしまう気がして」
「いえいえ」
きっちり休日出勤である旨を言ってくれる。雇い主としてサビ残をさせない意思を示してるらしく、おかげで『デート感』的なものが風雨にさらされてポロポロと崩れ落ちている気がする。できれば生きてくれデート感。
「ぬいぐるみって家にある分にはいいけど、買うのはけっこう大変なのよね。かさばるし」
「通販とかでは買ってないんですか? 家にもいっぱい、それはもういっぱいダンボールがありましたけど」
ぬいぐるみにも専門店がある。それを俺は今日、都内某所のファンシーな店舗まで来てはじめて知った。
考えてみればあって当然ではある。でも想像もしたことのなかった場所にやってきて、想像もしていなかった世界観に圧殺されかけている心情は察して欲しい。
いうなれば俺は今、かわいいの軍勢にタコ殴りにされている。
「買えなくはないけど、質感が思ったのとちがったりしてむずかしいのよね」
かわいいにタコ殴りにされている俺をよそに、なぜかこれまた赤いタコのぬいぐるみをモミモミするミオさんの顔は真剣だ。傍目には買い物客というより市場調査にやってきたその道のプロに見える。
しかしタコのぬいぐるみってなんだろう。需要あるんだろうか。
ちょっと触らせてもらった感じ、たしかに触感はいい。わざわざ買うかと言われると疑問だが。
「では何をあんなに通販で……ああ、思い出しました」
大量のダンボール。そしてペットボトル。
思えばだいたい同じものだった。
水だ。
「ええ、水よ。今のトレンドは東京水ね」
「東京水。あの……水◯の音がする◯素水みたいな」
「ただのおいしい水よ。東京の水道水のペットボトル詰め。売ってるのも水道局だし」
俺の地元の福岡には『飲む海水』っていうアレなネーミングの淡水化した海水が売っていたけど、こっちのはただの水道水らしい。それって都民が買うものなんだろうか。
東京に住んでるのに。蛇口をひねれば出るのに。
「今、東京に住んでるのにって思ったわね。甘いわ」
思考を読まれた。
むしろ思考より早かったまである。毎回聞かれていることなのだろう。
「よほどよく言われるってことですね」
「あるあるネタの域ね。せっかくだから初見の顧客と話す時のつかみに使ってるわ。地方の方なら気軽な手土産として渡すこともあるし」
こんなにコミュニケーションを心得てる人が、なぜ夜はああなってしまうのだろう。なぜ土曜の朝イチで一万円持って隣人を誘いに来るのだろう。
人間という生き物は不思議だ。
そこの興味は尽きないが、今は東京水の話をしたくてチラチラとこっちを見ながら質問待ちをしているこのお姉さんに譲ろうと思う。
「それでミオさん、東京水って何が違うんですか」
「東京の浄水施設は世界トップクラスらしいけど、水道水として街に流す時にはどうしても塩素を入れないといけないのよ。蛇口から出てきた水にこれこれくらい入ってなきゃいけません、って法律で決まっているから」
けっこうな早口で来た。
タケノコのぬいぐるみをモミモミしながら語るミオさんはさっきまで以上に真剣な眼差しをこちらへ向けてくる。そんなに東京水が好きだとは知らなかった。
しかしタケノコのぬいぐるみ、需要あるんだろうか。
ちょっと触らせてもらった感じ、たしかに独特の雰囲気があって面白い。ただ触感はタコの方が上に感じる。
「東京水は塩素が入ってないってことですか。でも、塩素って消毒のために入れてるんですよね」
「そうね」
「消毒をしないわけにはいかないんじゃないですか? 代わりに煮沸消毒してるとか?」
「オゾンよ」
「オゾン」
「酸素原子の三連星が、においや雑味の元になるカビもトリハロメタンも滅殺するのよ。オゾン処理池をくぐった水の清涼感は蛇口の水の比じゃないわ」
「へぇ、おいしそうですね。今度一本いただい「――見つけた」
気を利かせたセリフを遮られた。
「これ。これがいい。これにする」
「近い、近いですミオさん。これなんですか? 犬ですか?」
ミオさんが俺に突きつけたのは、黄色いジャケットを着たチョコレート色の犬のぬいぐるみだった。それにしても近い。近すぎて視覚より嗅覚が仕事してる。どうやって付けてるのかパンみたいないい香りがする。
でもなるほど、ちょっと触らせてもらった感じ、タコとは違って長めの毛がふわふわと心地いい。まるで本物の子犬みたいだ。
「手触り、デザイン、材質、縫製。どれをとっても申し分ないわ」
「説明札には……キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルをイメージしたぬいぐるみです、って書いてありますね」
垂れた耳と茶色と白の毛並みが特徴の小型犬だったはずだ。それをティディベアのように座らせたふーちゃんに近いタイプになる。
「ふぶきの隣に置くのにもちょうどいいサイズよね?」
「ですね。買うのはこれ一個だけですか? 他にもいろいろ見てましたけど。タコとか」
ふぶき、とは白いキツネのぬいぐるみ『ふーちゃん』の正式名らしい。ふーちゃんをどっちの名前で呼ぶかで朝モードと夜モードの区別ができたりする。
「そうね。もう一軒行くしここはこれだけにしましょう」
もう一軒行くのかー。
「……もしかして帰りたい?」
それを直接聴くのは卑怯ですよミオさん。
普通はここで「そんなことないよ」「俺も楽しいよ」辺りが最適解なのだろうが、この人の場合はそれだと信じられずにメンタルが毒の沼地にはまって二歩あたり一ダメージの継続ダメージを受ける。
ミオさんはスーパーファミコン世代だろうからたぶんそのくらい受ける。
「いいえ、最後までお付き合いしますよ。仕事ですから」
「そうよね、仕事だものね。仕事最高」
ミオさんの心底ほっとした表情が、この奇妙な回答が正解らしいと教えてくれた。
「じゃあ早速行きましょう。業務は効率化すべきよ」
「働き方改革の波がこんなところまで……」
会計を済ませて外に出ると、六月の晴れた日特有のしっとりと暖かい空気が辺りを包む。五月がやたらと暑かったり寒かったりしたぶん、この季節相応の気温が心地いい。
俺の後ろからテコテコと小走りで出てきたミオさんの手には、犬のぬいぐるみでふくらんだクリーム色の紙袋が提げられている。
「割と大きいですけど、俺が持ちましょうか?」
「ううん、これくらいなら平気。松友さんだって荷物があるし」
そう言って袋を大事そうに胸に抱えられると、聞いたほうが野暮だったようだ。
たとえ重くても、きっと帰るまで手放しはしないのだろう。
「そうですか」
「あなたも楽しめたようで良かったわ。男性には退屈かと思ったけど、何がそんなに気に入ったの?」
「……触感が」
「重要よね」
一方、俺の手にはタコのぬいぐるみが収まった同じ紙袋がぶら下がっていた。ミオさんに「分かる分かる」といいたげな顔で見られているのがなぜか悔しい。
謎の敗北感を抱きながら、ミオさんがマップを開いたスマホを手に指し示す方角へ歩を進める。
そうするうち、ふと、どこか既視感のある通りに出た。
6/15付で、日間総合1位になりました。
無名の私がここまで来られたのはブクマ、評価、感想をくださった皆さんのおかげです。本当にありがとうございます。
ちなみに。
『東京水』推しの大切な友人から、
「みんな東京水のすごさを分かってない。よければたくさんの人に伝えてほしい」
と頼まれていました。こんなにたくさんの人に見てもらえるタイミングもそうないと思うので、約束を果たした次第です。
おいしいですよ東京水。別に健康にいいとかは無いと思いますが、すごい清涼感があります。
退屈された方がいましたら申し訳ありません。