早乙女さんは味わいたい
「深呼吸ですミオさん。人間に再起動はできませんが深呼吸で落ち着くことができます。はい吸ってー」
「すーーげほっげほっ」
しまった、まだゴ◯ジェットが換気しきれてなかった。
薬剤の匂いに咳き込んだミオさんの目からポロポロと涙がこぼれている。
「踏んだり蹴ったりだなぁ……」
「うぇ、うえぇぇぇん」
「あああ泣かないでください。ほら、プリンありますよプリン」
「プリン……」
「好きですよね、プリン」
「すき……。でもごはんの前に甘いのたべちゃダメ。さきにごはん食べる」
「がまんできてえらい!」
仕事で疲れると精神年齢が下がることには早い段階で気づいたが、どうやら心理的なストレスに反応しているらしい。
裸で逃げ回り、しかし空飛ぶ黒い悪魔は目の前三センチをかすめてゆく。その絶望的なまでの恐怖感はミオさんをかつてないほどに幼女化させていた。
「おなかすいた……」
「そうですね。部屋はあとでゆっくり片付けるとして、まずはご飯にしましょう」
リビングは破壊の爪痕が残る星の古戦場と化しているが、皮肉なことにGの現れたキッチンと寝室はほぼ無事だ。明日までの生活には支障ないだろう。
チョコ色のスウェットを着せたミオさんにはダイニングテーブルに座ってもらい、味噌汁と白米を配膳してからフライパンを火にかける。
「やっぱり生姜焼きは焼きたてが一番ですからねー」
「わかるー」
生姜焼きに使うのは薄めの豚肉だ。タレの味をよく吸収し白米との相性もいいが、とにかく冷めるのが早い。じゅわじゅわプルプルの脂が魅力な生姜焼きにとって、致命的ともいえる難点を持ち合わせている。
焼いたその瞬間から加速度的に本来の美味さを喪失する生姜焼きに、俺はひとつの回答を得ている。
「食卓を全て整え、焼いたその瞬間にいただく!」
“ジュウウウウ!”
市販のタレに酒と追加の生姜、隠し味のマヨネーズ少々を加えた特製タレ。ほのかに濁った液体に漬け込んだ豚肉を大きめのフライパンへ投入する。その瞬間、隙間なく整列した肉たちがじゅうじゅうと肉汁を散らし舞い踊る。
薄切り肉に火が通るのは一瞬だ。即座に菜箸を振るって肉を裏返す。
そして。
「仕上げの一撃!」
肉を漬け込んでいた汁を投入。
熱された醤油と砂糖が発する香気は換気扇などでは抑えきれない。キッチンの周囲はたちまち食欲をそそる香りに包まれた。
「ふぁぁぁぁぁぁ」
背後からミオさんの蕩けるような声がする。
「よし、今!」
フライパンごと火から下ろし、食卓へ。
中央に鎮座する丸皿へ、脂はじける生姜焼きを投入した。
「は、はやく! はやく!」
「はいはいはいはい!」
ミオさんに急かされるまでもなく台所へと舞い戻り、空になったフライパンを鍋敷きの上へ置く。
アクセルターンで食卓へ。木製の椅子に腰かけ、俺はミオさんといっしょに手を合わせた。
「「いただきます!」」
最高の瞬間にある生姜焼き。その絶頂の味を知ったのは学生時代のことだ。
バイト先の先輩が、
「お前は本当の生姜焼きを知らない」
と漫画みたいなことを言い出して作ったのがこの生姜焼きなのだが、これが凄かった。
俺は一口食って「ウンまぁあああーーーい!!」と漫画みたいなリアクションをし、先輩に弟子入りして作り方を伝授してもらった。
特別な材料や道具を使うわけじゃない。丁寧な計量と、精密な時間管理。
それが、それだけが全てを超越する。これを超える生姜焼きを少なくとも俺は知らない。
「うん、久々に作ったがいい出来だ」
もちろん味覚は人それぞれだ。俺にとっても美味くてもミオさんの口に合うかは分からな「ウンまぁああ~~~い!!」気に入ったようだ。
「おいしい、おいしいよ松友さん!」
「よく噛んで食べるんですよ」
「おいしいおいしい。すごくおいしい」
「こらこら、一気に食べるとお行儀が悪い」
「おいしおいしい」
いかん、ミオさんの語彙力が死んどる。
「おいしいよぉ」
確かに今日の生姜焼きは会心の出来だと自分で思う。前の職場に勤めていた間のブランクを、ミオさんに食べさせる一念で突破したのだろうか。そんなことが現実にあり得るのかとも思うが実際そうなのだから仕方ない。
事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
「でも、やっぱりふたりで食べる夕飯はいいもんですねぇ。この一週間で痛感しましたよ」
「そだねぇ」
ミオさんはやや小柄だが一人前はきっちり食べてくれる。はふはふ言いながら生姜焼きを頬張る姿を見せてくれるのだから本当に作りがいがある相手だ。
「これで夕食作りも一週間めですけど、ミオさんはどれが一番好きでしたか?」
「これ!」
生姜焼きを指差す。
「そうですか。それはよかった」
ちなみに毎日同じことを聞いて同じ回答をもらっている。
なんだろうこのルーチン。
喜んでいいのか判断しかねる俺をよそに、自分のぶんをあらかた食べ終えたミオさんの興味はもう食後に移っている。
「ねーねー、ごはん食べてプリン食べたらウノしよー」
「ウノ。また懐かしいですね」
ひとりじゃ出来ないゲームを買ってるんだなぁ。
「松友さんしってるー? ドロツーにドロツーを重ねて次の人に回すのって、ほんとはやっちゃダメなんだってー」
「へぇ。そうなんですか」
そういえば前の職場にいた頃、激務から逃避したくて後輩としゃべってた時にそんなことを聞いた気もする。頭皮から毛が逃避した課長に邪魔されて全部聞けなかったけど、そういう内容だったのか。
元気かな、あいつ。頭はいいんだけど融通が効かないところあったからなー。
「そのルールでやろー」
「気にはなりますけど、明日は早起きだって昨日言ってたじゃないですか。ゴ……いや、黒……労働災害でごはんも遅くなっちゃったんですから、お風呂に入ったらすぐにお布団です」
「えー」
「えーじゃありません」
「おー」
「おーでもありません」
「かー」
「きー」
「くー」
「けー」
「こー」
「はい、笑ったからミオさんの負けです。おとなしくお風呂に入って下さい」
こんな脳の溶けそうな遊びが存在するわけないが、こういうのは言ったもん勝ちと相場が決まっている。不服そうでも言い返せないミオさんは、何か思いついたように手を叩いた。
「じゃあ一緒にはいろう!」
「ダメです」
理性が飛ぶわそんなん。
今のミオさんを相手に理性が飛んだら、一生消えない性癖を背負う気がする。
「ぶー」
「豚を食べて豚になるんじゃありません。ほら、終わったなら片付けますよ」
「はーい」
これは風呂から上がったら今度はいっしょに寝ようと言い出すやつだろう。そうなる前に自分の部屋に戻り、俺もさっさとベッドに入ったほうがいい。来週は廃墟化したリビングをせめて原状復帰しなくてはならないし体力を回復すべきだろう。
こうして長い夜もどうにか収拾がつき、俺の新しい職場での第一週は幕を閉じた。
明日は休日だが、さて、何をしようか。
「がまんできてえらい!」は西武鉄道のコ◯ペンちゃん広告からインスピレーションを受けました。
ネタをご提供くださった方に感謝。
また6/13付で総合ランキング14位に入りました。ありがとうございます!





