早乙女さんは変わらなくもない
福岡から帰って一週間。
波乱のお盆は終わり、世間は日常へと戻ってきた。いくらか変わった仕事に就いている俺も、この時ばかりは世間様といっしょに通常業務の再開である。
コーヒーを淹れて雇い主を送り出し、連休中に溜まっていた郵便物やダイレクトメールを整理し。部屋を掃除し、洗濯物を処理しているうちに夜が来る。
去年の今頃は深夜一時まで仕事していたことを考えると、嘘のような変化だと思う。その変化の功労者で、この家の本来の主が帰ってくるのは、だいたい夕方六時すぎ。
“ピンポーン”
インターホンが鳴ったら、すぐに玄関へ。
間が空くと不安に駆られてよからぬことを想像するそうで、基本的にスローペースなこの仕事で唯一にして最も早い行動が求められるのがここだ。
ドアの鍵を開け、一歩下がってドアノブが回るのを待つ。
それから数秒の間をおいて、ドアがそっと開いた。
「ただ、いまー?」
どこか不安げな表情で、のぞき込むように。ドアの隙間から顔を出したのが、早乙女さん。
俺の隣人で、雇い主だ。
「おかえりなさい」
「た、ただいま!」
「はい、おかえりなさい。連休明けから一週間、本当に頑張りましたね」
「……ありがと」
家に誰もいないのではないかと不安になる、と最初は言っていた。当時はまだ俺の信用が足りないのかなと思っていたが……。
今となっては、この流れ自体が面白くなってきているのではないだろうか。それが、褒められてちょっと照れた様子のミオさんを前にした俺の所見である。
「今日もすぐに夕食でいいですか?」
「うん、今日の大豆はなーに?」
「今日の大豆」
大豆を基準に夕食が語られる、たぶん全国的にも珍しい早乙女家である。
「あれ、ないの? 今日はないの?」
「あります」
「だよね」
「今日は連休明け最初の金曜日ですからね。連休明けでお疲れなミオさんに、おぼろ豆腐を用意しました」
「おぼろ豆腐?」
「豆乳から作る、手作りのお豆腐ですよ」
「お豆腐って家でも作れるんだ……!」
「これから作るところです。いっしょにやりますか?」
ぜひ作りたてを食べてもらおうと思って、ミオさんの帰りを待っていたのだ。俺が料理するところを楽しそうに見てくれる人だからこそ、こういうこともしがいがある。
「やる! きがえてくる! すぐ!」
「焦らなくていいですよ。焦るとほら、足の小指をドアの枠にぶつけたり」
「ぁぁぁあああぁぁぁ……あっあっばっばっ!」
ぶつけた。すごい悶えてる。
昼の仕事でミスが少ないぶん、家でバランスをとっているのだろうか。スーツ姿でうずくまる姿が痛々しい。
「氷、とってきますねー」
「うぇぇぇ……」
ああ、なんだか日常が帰ってきた。そんな気がする。
「冷房をちょっとだけ強くして、さあ、始めましょう」
「おー」
普通、豆腐といえば白くて四角いものを思い浮かべる。あれは豆乳ににがりを加えたあと、固まった部分をすくって型にはめたものだ。
その固まった部分をそのまま食べるのが『おぼろ豆腐』である。
うっすらと雲に溶けた月を『おぼろ月』と言うように、ふわりとどこまでも柔らかく、疲れた身体に嬉しい精進料理。ミオさんの口に合うといいのだが。
「ミオさんなら聞いたことがありますよね。この透明な水が『にがり』です」
「海水からとった塩化マグネシウムだねー」
「思ったより詳しかった」
そういえばだいぶ前にも、「ペットボトルはポリエチレンテレフタレートだから汚くない」とか言っていたような。一流のマーケターには化学の知識も必要ということだろう。
「作り方にもいくつかありますが、土鍋を使うのが一番おいしいので今日はこれで」
「本格的ー!」
「土鍋に豆乳とにがりを入れ、弱火で温めます」
そのまま一〇分ほど待つと、表面から湯気が上がってくる。
「あ、すごい。もうお豆腐の香りがする」
「豆乳のほんのり甘い香りがいいですよね」
「ねー」
「ほら、表面をよく見てください。うっすらと白い膜が見えますか?」
「あ、ほんとだ。牛乳をあっためた時みたいな……」
「あれが湯葉です。お味噌汁に入れたりするアレですよ」
「あれってこうやって作るんだ……」
「すくって乾かせばまんまアレになりますけど、今日はこのままいっしょに食べましょう」
そう話しているうちに、ふつふつと小さい泡が上ってくるようになったら頃合いだ。
「ここで火を止めて、フタをして十五分待ったら完成です」
「これだけ?」
「はい、これだけ。簡単おいしいのが魅力です」
これで主役は完成。あとは十五分の待ち時間で他のものを作る。
「別のお鍋に出汁を温めて、みりんを入れて……。鶏むね肉のひき肉をほぐしながら加えます」
「お肉……!」
「お肉に火が通ったら、塩と醤油を入れます。もうひと煮立ちしたところで柚子と水溶き片栗粉を加えれば……。肉あんかけの完成です」
冬には柚子の代わりに生姜を入れてもいい。身体があったまり、風邪の予防にもなる。
「あとは氷水を用意して……。ん、そろそろ十五分ですね」
「フタ、わたしが開けてもいい?」
「いいですよ。熱いので気をつけてくださいね」
土鍋のフタ部分に厚手の濡れ布巾を乗せる。土鍋の場合、ミトンよりもこちらの方が滑りにくくて安全だ。
「いくねー」
台所へてけてけと、若干足を引きずりつつやってきたミオさんはフタに手をかけた。
薄茶色の陶器のフタを持ち上げると、柚子の香りを残していた台所の空気が豆腐の香りへと塗り替えられた。
「わあ……!」
「うん、うまくできましたね」
「お豆腐ってこんなに濃い香りがするんだー」
「匂いだけじゃありませんよ。できたて三秒、ひと口食べてみますか?」
土鍋にスプーンを入れると、白い塊はまったく抵抗なくそれを受け入れた。
ひと口ぶんをすくって持ち上げる。上澄みの中から、とろりふわりとした白い豆腐が現れていっそうに濃い香りを放った。
「煮てるから、湯豆腐みたいなのかと思ったら全然ちがうんだね……?」
「違うのは見た目だけじゃありませんよ。はい、あーん」
「あー」
ミオさんの口に豆腐を入れてあげていると、いつぞやの風邪の日を思い出す。
季節も移り変わってツバメのヒナ鳥みたいだと思ったけど、当日の記憶がないミオさんに言うとややこしくなりそうだから黙っておく。
「どうですか?」
「豆腐の味が濃い……。こんなに濃くて甘いの初めて……!」
「大豆を絞った豆乳を、ありのまま固めたものですからね。見方によっては、大豆をそのまま食べるよりも大豆を感じられる食べ方ですよ」
「うん、おいしい。おいしいよ松友さん!」
気に入ってもらえたようで何よりだ。
ちなみにだが、東京に帰ってきてからはまた元の『松友さん』呼びに戻った。
「さあ、夕食にしましょうか」
「うん!」
テーブルに食器を並べ、おぼろ豆腐を使った料理を盛り付けてゆく。
「まずはそのまま、おぼろ豆腐にみょうがを載せたものです。ポン酢をかけて食べてください」
「ぜったいおいしいやつ」
「次がさっき作った肉あんかけをかけた、おぼろ肉豆腐。そして氷水で冷やした手作り冷奴。これにナスとオクラでボリューミーな夏野菜の味噌汁と、きゅうりの浅漬を添えて、完成です」
コップに麦茶を入れて、テーブルについて。
「いただきます!」
「いただきまーす!」
こうしてミオさんと二人で食卓を囲むのも、月曜から数えて五日目。
たった五日、されど五日。契約で義務付けられたわけでもないのに続いているこの時間は、決して当たり前じゃない、ふたりで手に入れたものだ。少なくとも俺はそう思っている。
肉豆腐に夢中な雇い主を眺めながら、ミオさんもそうだといいなと、ふとそんなことを思った。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまー」
「じゃ、なおし……片しますね」
この料理の利点のひとつは、油をほとんど使わないことだ。
鶏むね肉から出る油もごくわずか。水洗いでほぼ落とすことができ、洗剤も大して必要ないから地球にも優しい。非の打ち所のない料理である。
「あの、松友さん?」
「ん、どうしました?」
食器を重ねていたら、ミオさんがおずおずと右手を挙げた。学級会でみんなが言いづらいことを言わないといけなくなった子みたいな表情をしている。
「あのね、今日のお豆腐、とってもおいしかったよ」
「そうですか。それはよかった。ミオさん、お豆腐好きですもんね」
「うん、そう。そうなんだけどね?」
「なんでしょう」
実のところ、ミオさんが言わんとしていることは察しがついている。
そしてミオさんも察されていることを察している。それでも言おうとしている辺り、それなりの決意があるのだろう。
だからこそ、俺は心を鬼にしなくてはならない。
「あのね、お豆腐も好きなんだけどね、」
「ええ」
「普通のお肉とかって、いつから食べれるのかなー、なんて」
普通のお肉。
今日の肉あんかけのようにさっぱりした添え物でなく、生姜焼きやハンバーグのような脂滴る肉料理のことだろう。
なるほど、ミオさんが恋しくなるのも分かる。
なにせこの五日間、ミオさんは脂っけのある夕食を一度も食べていないからだ。
「ラーメン」
「……っ」
耐えた。
「鉄鍋餃子」
「……うっ」
お、効いてる。
「イカの唐揚げからのまたラーメン」
「あばばばば」
勝った。
摂取したカロリーを列挙され、心折れない人間などいないのだ。
「そんなに落ち込まないでください。何もミオさんだけが悪いんじゃありません。福岡のおいしいものを食べて欲しいって言ったのは、他でもない俺ですから」
「じ、じゃあ!」
「でもそれはそれ、これはこれ。お盆休みの間、連日連夜のカロリー祭。福岡から持ち帰ったのは、めんたい味のおせんべいだけではないんですよミオさん」
「はい……」
しゅんとしたミオさんに情が湧きそうになるが、ここで気を緩めれば後々もっと辛くなる。ここは俺も耐える時だ。
海に行くため、お豆腐生活に耐えた日々から一ヶ月。引き絞った身体の貯金はとうに尽きた。
失ったものを取り戻す、もとい取り戻しすぎたものを失うためのミオさんの戦いは、第二ラウンドを迎えたばかりである。
https://twitter.com/WalkingDreamer/status/1161926986928836608
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松友さんが通常業務へ戻る=ミオさんがお仕事へ行く=お盆明けてないのにお盆明けの話を書かないといけない
これに気づいたときの心痛はかなりのものでした。
そこから「そもそもにーちゃん、かわいいお隣さんも後輩ちゃんもおらんのにこれ書かんといけん人やん」と内なる裕夏がささやいた時は富士の樹海までの電車を調べました。
電車では行けなかったのであきらめました。





