早乙女さんの元に生きて帰りたい
「ばあちゃんの実家ってここ、なんだよな」
「あのずーっと向こうにうっすら見える普通の家じゃなくて? ほんとにここ?」
「あっちは若い方たちが寝泊まりする詰め所だったかしら。三十年以上前に見た時からあの建物だったけれど、建て替えてないのねぇ。ちゃんとクーラーついてるのか心配だわ」
でかい。
虹ノ松原と呼ばれる松の防風林から少し外れた場所に、その家はあった。
「地図で見た感じ八〇〇坪くらいあるらしい」
「ウチがいくつ入るのよ、それ……」
「四〇軒くらいだな……」
訂正する。
虹ノ松原と呼ばれる松の防風林から少し外れた場所に、その屋敷はあった。またはその豪邸はあった。
「おばあちゃん、あの門につけていいの?」
「ええ、駐車場には入れてくれるから貴重品だけ持っていってね」
「入れてくれる……?」
真っ白な長い塀に沿って走り、見つけた正門に車を横付けした。白の軽自動車がいつも以上に小さく見える。
ここからどうしたものか、考える間もなく門の通用口が開いた。
「いらっしゃいませ、イヨ様!!」
「お足元の悪い中お疲れ様です!!」
「我ら一同、お待ち申し上げておりました!!」
隣で千裕姉が「ぴっ」と声を上げて身を固くした。
「大きい家って言ってたけど、使用人みたいな人がいるレベルだったの……?」
「今って何時代だっけ……」
入れてくれる、で予想はしていたが。ガタイのいいお兄さん三人が、後部座席のばあちゃんに向かって頭を下げている。全員白シャツに坊主頭で、お辞儀は見事に九十度だ。
野良仕事も担当なんだろうか、揃って日焼けしているのがまた威圧感を増している。
「あらケンちゃん、出迎えご苦労さま。昨日の今日でごめんなさいね」
「とんでもございません! ともかく、傘を持ちましたのでまずは中へどうぞ!」
顔なじみ、なんだろうか。とりあえず悪い人ではなさそうで安心した。
「お義姉様は?」
「中におられます。外出のご予定だったのですが、この天候で取りやめになりまして」
「そう。不幸中の幸いね」
お兄さんに差し出された傘に入りながら、ばあちゃんは慣れた様子で車を下りた。
俺と千裕姉も同じように続く。お兄さんに運転された車を見送りつつ、立派な木の門をくぐった。
砂利が敷かれた庭を抜けて玄関を上がると、壁に飾られた水墨画や達筆の掛け軸がいちいちものものしい。
「千裕、裕二、びっくりした?」
廊下を進みながら、ばあちゃんは小さく笑って訊いてきた。
もともと姿勢のいい人だけど、今日は和服のせいかいっそうにぴんと背筋が伸びている。
「びっくりっていうか、ドッキリしたわ」
「俺もだよ……。この際だからはっきり確認するけど、ここはどういう稼業のお宅なんだ?」
「やあね、暴力団とでも思ったの? ただの地主よ?」
「地主って、この辺りの?」
「そう、ここからあっちのお山くらいまでだったかしら。江戸時代にはもっと広かったらしいけど、GHQにだいぶ持っていかれちゃって」
「……ああ、そういう」
なんとなく、背景は分かってきた。
「裕二、私にも分かるように説明して……?」
「姉ちゃんも歴史で習ったろ」
「過去を」
「『過去を振り返らない女だから』は、あまりにも手垢がつきすぎてるぞ姉ちゃん」
「…………」
「まあ要するに、農地改革の後遺症なんだろう」
戦後、GHQ主導で大地主の土地を小作人に分け与える『農地改革』が行われた。
それを境に、それまでの主従関係のような小作農システムは日本からなくなった……のだが。
「人間関係ってのはそこまで単純じゃない。姉ちゃんだって今のホテルを辞めたとして、いきなり社長にタメ口きいたりはできな……できそうだな。すまん」
「なんで謝られてるの、私」
「とにかく、農地改革を経ても元・地主と元・小作農の間に力関係は残ったんだと思う。日本はもともと恩義の文化だしな」
ここもそういった『地元の有力者』なのだろう。
もともと小作人だった人たちが今でもお世話を焼いてくれる例が実際にあるとネットで読んだ記憶があるが、本当に実在したとは。
「じゃあ、ケンちゃ……ケンさんも? 元はここから土地を借りてた人の子孫ってこと?」
先導するケンさんに聞こえないよう千裕姉が小声で尋ねると、ばあちゃんは背筋を伸ばして前を向いたまま小さく頷いた。
「ケンちゃん、うちの孫がケンちゃんのことを聞きたいって」
「おばあちゃん!?」
「はい! 武骨者ゆえ面白かことも言えんですが、なんなりと!」
「ぶぇ、え、好きな食べ物は……?」
「卵焼きの甘いのです!」
「お、おいしいですよね。おほほ」
「お嬢さんもお好きですか! 奇遇ですね!」
混乱した千裕姉が無難な質問を繰り出すうち、墨絵に箔押しのふすまの前でケンさんの足が止まった。
「こちらです」
「千裕、裕二。敷居と畳の縁は踏んだらダメ。話の間は男はどっしりと、女はしとやかに座っておくこと。それだけ覚えておきなさい」
「え、う、うん」
初めてだ。
ここにきて初めて、ばあちゃんが少し緊張した声を出した。
「奥様、お客様がお見えです」
「……入りなさい」
中から、しわがれた女性の声。
ケンさんが開いてくれたふすまをくぐると、台風のせいもあってか中は薄暗い。内装からして広めの茶室、なんだろうか。
茶釜の湧くいろりの向こうに目を向けると、人影。
朱色の和服に身を包んだ女性が、こちらに横顔を見せてしんと座っていた。歳はばあちゃんと同じくらい、だろうか。
「義姉様、ご無沙汰しております」
ばあちゃんが頭を下げて挨拶する。返事はない。
「……健一」
「は、はい!」
「なぜ、部外者がここに?」
健一、というのはケンさんのことだろう。
なら部外者、とは。
「はい、イヨ様が過去に家を出られたことは存じておりますが、とはいえこの家のご息女に違いはございません。門は開いて差し上げるのが筋かと思いお通ししました」
「そう。分かっていてやったのね」
「はい」
「なら代わりに、お前がこの家の門を出なさい」
「はっ?」
そこで、ようやく。
老女の目がこちらに向いた。
「江戸の昔から我が家に仕えた家系も落ちたものね」
そう、目はこちらを向いた。向いたが、向いただけだ。
ふう、と溜息をつきながらケンさんを見据える目は、人間を見るそれではない。
「お、お待ちを奥様! 私は悪気があったわけではなく……」
「悪気もなしにこのようなことができるから問題なのです。二度同じことを言わせないで頂戴」
「……はい。父祖の代より、長らくお世話になりました。これにて失礼致します」
「ええ、ご苦労さま」
家の力。血筋の力。
現代日本人の多くは、もう体感することのない力。それを、俺たちは目の当たりにしていた。
「ひどい……」
千裕姉が横で小さく呟いたことに、俺も同意する。だが、ここで俺たちが何を言ったところで事態を悪化させるだけなのは明白。
動けるとすれば、ただ一人。
「お待ちなさいな、義姉様。私が無理を強いたのに、健一さんばかりを責めるのは酷でしょう?」
ケンさんが部屋を出ようとする間際、黙って見守っていたばあちゃんが口を開いた。
GHQや元地主と元小作人の関係については、家が戦前まで千葉の大地主だったという友人の話を土台にしました。
なお大幅に削られた今も金持ち。そいつ自身はコンクリの城みたいなでかい家に一人暮らししてる。ふぁっきん。





