早乙女さんに再起動プログラムはない
「 いや、ないない」
台所に立つ俺の視界の隅を、ナニかが横切った気がする。
具体的には黒くて素早くて原始的な恐怖を呼び起こすような。熱帯原産で節足動物門昆虫綱網翅類に分類されていそうな。
「いや、ないないないない」
気のせいと笑い飛ばしてみようとするが、確実にそこに『いる』という強烈な気配を感じる。人間が石槍を握り野山を駆け巡っていた頃の遠い記憶が警報を鳴らしている。
「よし、落ち着け。こういう時はまず状況整理だ」
俺の手にはお椀とおたま。コンロでは豆腐と油揚げの味噌汁から湯気が立ち上っており、出汁の香りが食欲をそそる。
炊飯器には一〇分前に炊き上がった白米が蒸らしてあり、シンクの横には生姜タレに漬け込んだ豚のバラ肉がバットに収まっている。スーパーで買った既成品のタレに、酒と追加の生姜、隠し味のマヨネーズをほんの少し加えた特製品だ。あとはフライパンでじゅわっと焼くだけでアツアツの豚の生姜焼きが出来上がる。
そこからさらに視線を先に進めた先には冷蔵庫。誰かと暮らす日を夢見て買ったか否か、大きめ三〇〇リットルの冷蔵庫には、付け合せのシバ漬けとデザートのプリンが入れてある。
そしてその向こうの壁にさっきまでは無かったはずの黒影が……。
「デッフウウウウ」
自分でもよく分からない声が出た。ミオさんのことを言えないかもしれない。
「くっ、部屋の状態を見た時からもしやとは思っていたが!」
あの黒い悪魔はダンボールに潜んで日本全土へと生息域を広げたと本で読んだことがある。通販を利用し、引っ越しのダンボールも放置しがちなミオさんの部屋に居座っていても不思議はない。
「クールになれ松友裕二。ゴ◯ジェットは昼間に見つけた。アー◯製薬さんの看板商品だから効果はてきめんだろう。だが場所は台所、時間はメシ時。スプレーの類は使えない」
ここから導かれる結論はひとつ。
「詰んだな」
詰んだな。脳と口が連動するぐらい詰んだ。
いや待て、まだだ。俺ひとりならたしかに詰みだが、この家にはもう一人いる。普通とはちょっと違った衛生観念を持つ彼女なら、あるいはGも平気だったりするかもしれない。女性に頼るのもどうかと思うが彼女を呼ぶしか手は残されていない。
「ミオさ「ふぉーう!!」
バァン!!
頼みの綱を呼びつつ振り返ったと同時、ミオさんの寝室のドアが轟音とともに開いた。
あの、なんだろ、正式名称が分からないけどキアヌ・リーブスとかスティーブン・セガールが窓を破って乗り込む時にしそうな例のポーズで飛び出してきたのは紛れもなくミオさんだ。
付け加えるなら、着替え途中のミオさんだ。
「上下揃ってる!」
揃いの水色だった。自然体な感じがちょっと嬉しかった。
それにしても登場が早すぎやしないか。むしろ呼ぶ前に出てきた気すらする。それにいくらお疲れモードのミオさんでも、下着姿でホイホイ出てくるなど今までなかったことだ。
それらの疑問は、ミオさんに続いて寝室から這い出した、一迅の黒き疾風が一挙に吹き飛ばしてくれた。
「挟撃……だと……」
ミオさんは奴との戦いでこちらに追いやられたということか。一匹いたら三十匹いると言われる敵でも、同時多発攻撃は予想の外だった。
迫る黒き龍から逃れるように俺の方へと、ほら、正式名称は分からないけどブルース・ウィリスとかが拳銃で戦う時みたいなアクションで床を転がってきたミオさんは、俺の足元でそのまま動きを止めた。
「ミオさん! 一応お聞きしますが『G』は平気なほうですか!?」
「あばきごきばばばあばばきば」
「ダメだ、バグってる! 再起動です、再起動をしてくださいミオさん! たいていの不具合はそれで治ります!」
「ごごごききあばばばば」
残念ながらミオさんにそんな機能はないらしく、俺の腰にすがりついて揺さぶりながら言葉にならない言葉を発している。黒目がちな瞳に浮かんだ涙が、俺の最後の希望が即座に消えたことを如実に物語っていた。
レースな下着姿のミオさんが腰にまとわりつく。普段なら理性を破壊させうる事態だろうが、今はお互いにそんな余裕はない。
そうこうしている間に、冷蔵庫横の壁で静観していた敵もこちらに向けて進軍を開始したようだ。
「万事休すか……。なんて、言っちゃいられないよな」
俺ひとりなら諦めていた。温かい夕食も、せっかく出した夏服も本も、使った形跡のない二人がけソファも、全てを投げ出して外に避難していただろう。そしてドラッグストアへ走り、玄関からそっとバ◯サンを差し込んでいたに違いない。
だが今の俺は早乙女ミオの隣人で、従業員だ。
Eカップが揺れる下着姿のミオさんを連れては外に逃げられず、置いていくなど言語道断というこの状況。男として腹を括るしかない。
「ふーーー……!!」
覚悟が決まった途端、熱かった頭が一気に冷えた。
そうだ。奴はしょせん、毒もなければ牙も持たないただの虫。冷静に考えれば何も恐れることはない。
火星まで行かないと進化できないロートル昆虫に最新鋭のホモ・サピエンスが遅れをとるはずが飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる飛んでる!!!
気づけば、俺はミオさんを抱きかかえて部屋の中を駆け回っていた。ミオさんの「あばばばばば」という悲鳴? だけが頭に響き渡る。
荷物置きと化した二人がけテーブルを蹴飛ばし、存在しない同居人の代わりに白いキツネのぬいぐるみが座らされた椅子を倒し、テレビはさすがに高価だからと避ける冷静さを見せ、2LDKの部屋を縦横無尽に駆け回る。
これが後に、『ミオさんに「おかえりなさい」を言う仕事』で発生した初の労働災害として記録されることになるが、それはまた別の話。再発防止策は追って決定する。
Gは台所から離れたのでゴキ◯ェットを吹きかけたら死んだ。
G級黒龍から逃げるミオシャンロン
……を、なんと描いてくださった方がいました! 漫画家さん!!
https://twitter.com/39wdc/status/1139846647930707970
6/12日間で総合50位、ジャンル別8位。ありがとうございます。
ジャンル表紙もいけるかも、と思ったら5位と8位で倍近く点差があって真顔になりました。こんなに小説上手い人がいっぱいいるとは……。