番外編:村崎さんは読み取りたい
村崎視点のお話です
『空気を読め』
そう言ってくれる人間すら現実にはいないと学んだ時、私はすでに高校生になっていた。それから五年が経った今も、私はその現実に馴染めずにいる。
「ふう」
読んでいた本を閉じ、時計に目をやる。いつのまにか真夜中を回っていたことに少し驚いた。
地元の大学を出て就職した会社は、どうやら世に言うブラック企業だったらしい。新人の私でも十時より前に上がれる日が珍しいのがブラック企業としてどの程度なのかは知らない。
ニュースに出るようなのが魔王級だとしたら、まあ、百獣級ブラックとかそんなところかな。
そんな等級、たぶん無いけど。
「続きは明日、か」
仕事で疲れて帰って、自由にできる時間はあまり多くない。一時間なら本を読み、二時間なら映画を観る。三時間以上あればぬいぐるみ作りもやりたいけど……そんな日はめったにない。
今日も今まで本を読んで過ごしていたところだ。
思えば、昔から物語を読むのが好きだった。
恋愛ものも、ファンタジーも、ミステリや歴史ものも、目につくものはなんでも読んだ。SFだけは、専門用語が頭に入らなくてちょっと苦手だったけど。
「でも、この時間に刑事ものはまずかったかな。目が冴えて眠れなくなりそう」
ちょうど警察内部に裏切り者がいると分かったところだった。
ここで読書慣れしていると誰がホシなのかなんとなく読めてしまう。が、それは気づかなかったことにするのが本を楽しむコツだ、というのが私の持論だ。
「……ん」
座椅子から立ち上がったところで、スマホに通知が来ていることに気づいた。
「早乙女さんから……」
『早乙女ミオ』と名前の表示された通知ポップをタップすると、えらく黒々とした画面が現れた。
早乙女ミオ:
夜分遅くにごめんなさい。通知音で起こしていたりしない? もしそうだったらごめんなさい。
今夜は松友さんが用事でいなくて、ふと考えたら村崎さんと話す時っていつも松友さんがいたなと気づいて。たまには女同士で積もる話でもどうかなと思ったのだけど、お時間だいじょうぶかしら?
「へんしん、おくれて、もうしわけ、ありません、と」
自分:
本に集中してしまっていました。
この時間はひとりで本を読むか映画を観ている日が多いです。
送信したと同時に既読マークが付く。たまたまスマホをいじっていたようだ。
早乙女ミオ:
sjだsじょjs
「はい!?」
早乙女ミオ:
ごめんはさい、打ち間違えたたけ、ごめんはさい
自分:
私もよくやります
早乙女ミオ:
ありがと■
「え、何この四角いの」
伏せ字、だろうか。穴埋めクイズ的な。
「『う』かな。『ありがとう』だし」
自分:
どういたしまして。
今日、松友先輩はどうされたんですか?
早乙女ミオ:
地元の人がお仕事で東京に来てるそうなの
久しぶりに会う約束をしたっていうから、有給を消化してもらったわ
自分:
なんとなく忘れてましたけど、有給もあるんですよね労使関係ですから
早乙女ミオ:
消化率一〇〇パーセントを目指してもらうつもりだけど、あと二十回以上こういう夜があるってことよね
自分:
そうなりますね
次の返信まで若干の間があった。
早乙女ミオ:
あ■ そういえば本を読んでいたのよね
どんなのを?
「二文字は難易度高いですよ早乙女さん……。『あら』で『ら』かな?」
自分:
今日は刑事ものを。
去年の秋くらいに映画になったアレです。
早乙女ミオ:
ああ、イタリアが舞台の?
自分:
そうですそうです!
武士の魂を持った刑事が、シチリアンマフィアに挑む話!
早乙女ミオ:
映画は観たわよ、この前話した部長さんに勧められて!
自分:
先に原作を読もうと思って観てないんですよ
どうでした?
早乙女ミオ:
主人公がよかったわね。どんな大物マフィアが相手でも、悪とみればズバッと■■
自分:
あっ、まだ最後まで読んでないのでネタバレはナシでお願いします!
とりあえずネタバレを防止して、伏せ字を考える。
「ズバッと、と来て二文字だから、普通に考えれば『切る』かな?」
ここまでをまとめると、こうだ。
「『う』『ら』『切る』」
うら切る。
「裏切る!?」
ウラヌスとか浦島太郎の可能性は……たぶん無い。
「誰が!? でも、裏切るからにはそれなりに近しい相手だろうし、私に言うってことは共通の知り合いだから……」
そんなの、ひとりしかいない。
信じがたいことだが理解した。裏切りにあった早乙女さんは、世間話のふりをして私に助けを求めている。
自分:
早乙女さん!
早乙女ミオ:
どうしたの?
自分:
松友先輩の弱点は、臭豆腐を食べられないことです!
早乙女ミオ:
え、え、なんで弱点? 臭豆腐?
大丈夫よね? 私、終わった話題に取り残されてないわよね?
考えてみて気づいたけど、私は松友先輩のことをほとんど知らない。
趣味のこと、家族のこと、学生時代のこと。二ヶ月以上もいっしょに仕事をしていれば、そのくらいのことも少しは聞いていそうなものなのに、だ。
そんな私に唯一伝えられる松友先輩の苦手なもの。それが台湾料理『臭豆腐』だ。
自分:
会社の飲み会で、ハゲップチ課長が頼んだ臭豆腐を代わりに食べてあげたことがあります!
あんなシワシワした顔の松友先輩を見たのは後にも先にもあれっきりです!
早乙女ミオ:
松友さんが大豆に負けるなんて
自分:
お役に立つか分からない情報ですが……
早乙女ミオ:
あの、役に立つって、何に?
変なこと聞いてたらごめんなさい
自分:
私は早乙女さんの味方ですよ
なんとなく会話が噛み合わない気がしつつ、チャットを続けて。
それから、十分後。
早乙女ミオ:
違うの!
私のほうだとこうなてるの!!
自分:
ああ、絵文字が文字化けを……
送られてきたスクリーンショットを見て、ようやく私も事情を知った。
最初の『ありがと■』は ありがと+キラキラマーク
次の『あ■』は あ+キラキラマーク
最後の『ズバッと■■』は ズバッと+日本刀+キラキラマーク
最後だけバリエーションを意識して絵文字を二個使ってくれたみたい。
この現象、メールの時代にはキャリア間や新旧機種間であったと聞くけど、今のチャットアプリでも起こるとは。
「でも、これって……」
そんなキラキラした絵文字たち以上に私の目を惹いたのは、しかし画面の一番上。チャット相手が、私で言えば『早乙女ミオ』が表示されている部分。
早乙女ミオ:
あの、ほんとにごめんなさい?
松友さんにはよくしてもらってるからね?
自分:
こちらこそ失礼しました
昔から、察するとか空気を読むっていうのが苦手で
よく土屋先輩にも叱られます
早乙女ミオ:
そういえば土屋さんや松友さんとは仲がいいわよね
最初からなの?
自分:
教育担当でしたので、まあ自然と
早乙女ミオ:
そういうものかしら
私は教育担当とプライベートの付き合いまではしなかったわね
自分:
そこは、あの方たちは「空気を読め」と言ってくださるので
早乙女ミオ:
それ、いいことなの……?
「さあ、どうでしょう」
言われて嬉しい言葉ではない。今でも言われる度に少し胸が苦しくなる。
でも、今までの人たちはそれすら言ってくれなかった。黙って私から離れていって、影で集まって言うのだ。
『あいつは空気が読めない』
『あいつは非常識だ』
『あいつには社会性がない』
それをその場で、面と向かって言ってもらえることがどんなにありがたいことか。うっかり言ってしまった時に、いっしょに頭を下げてもらえることがどんなに心強いことか。
それを理解できるくらいには、私も大人になったつもりだ。
しかし、それでも。今日はあえて、だ。
自分:
ところで早乙女さん
早乙女ミオ:
どうしたの?
自分:
私は空気を読めないので、相手が気づいてほしがってないことも、気づいたら言ってしまいます
早乙女ミオ:
そうなの?
自分:
だから、言ってしまうんですが
「これは、読まなくていい空気ですよね、先輩」
さっきのスクリーンショットを見返して、小さく口元が緩むのを感じながら、私はフリック入力を打ち込んだ。
自分:
次からは、『きらんちゃん』と呼んでくださっていいんですよ?
早乙女さんは特別です
送信と同時に既読マークがついて、思った通りしばらく間があった。不思議と、不安はない。
早乙女ミオ:
さっきの、スクリーンショット、よね?
自分:
ええ、相手の名前を変更する機能、便利ですよね
早乙女ミオ:
あの、ごめんなさい
悪意があったわけじゃないの。ほんとに
自分:
分かってますよ
それに口にするのが恥ずかしい名前ってだけで、気に入ってないわけじゃないですから
私の名前の由来になった金襴草は、またの名を『医者殺し』とも呼ばれる薬草だ。
そこから転じて、花言葉は『健康をあなたに』。親がどんな願いを込めたかは十分に伝わってくる。
今はまだ、他人に迷惑をかけてばかりだけれど。いつかきっと、松友先輩みたいに誰かを癒し、土屋先輩みたいに誰かの助けになれる人間に私もなれますように。
早乙女ミオ:
じゃあ、お言葉に甘えるわ
ありがとう、きらんちゃん
自分:
はい、早乙女さん
「……しまった、ここはこっちも『ミオさん』だった」
でも、やっぱり空気を読むのは苦手だ。
ひとつくらいはちょっと真面目な番外編
友達いなかった人と空気読めない人の会話、とてもむずい
私は基本的に好き嫌いはないんですが、「一皿を食べきる」ことが唯一できなかったのが台湾夜市の臭豆腐。好きな人には申し訳ないけどあれは2切れで限界でした……





