番外編:松友さんはおなかがいたい
六月下旬、松友さん初任給の日のお話。早乙女ミオ視点です。
『男はね、仕事と能力に見合った賃金がもらえれば多少の痛みには耐えられるものさ』
取引先の部長さんがそんなことを言っていたなーと、エレベーターの中でふと思い出す。ちょっと古い考えかもしれないけれど、やりがいがあるから辛いことも頑張れるというのは私も同じ意見だ。
チン、と音を立ててエレベーターが止まる。
私の部屋がある六階へ向かう鉄の箱は、狭くてひとりぼっちで不安になるけど、考え事ができるのはちょっと好きだった。それに今はこの階で私を待ってくれる人がいる。
彼と出会って以来、この箱に乗っている時間がもっと好きになった。
「松友さんが来てもう三週間かー」
今は六月の末。その彼、松友さんの初任給の日だ。
初任給の支給タイミングも会社によってまちまちだろうけれど、私はなるべく早く渡したかった。『賃金』は雇用契約で一番大事な、私と松友さんのつながりの根幹だから。
今どき珍しく封筒で持ってきたけど、喜んでくれるかな。
口座に入れる手間が増えちゃって怒られないかな。
それが元で辞めちゃったりしないかな。
……むしろ、今日もう仕事が嫌になって待ってなかったり。
「うん、やめよう。これはダメなやつだ」
ドアの前にいると一秒たつごとに不安が募る。さっさと帰宅しようと、インターホンに手を伸ばした。
ピンポーンという音に応えて、中から鍵の開いた音がする。どうやらちゃんと待ってくれていたみたいだ。
「ただ、いまー……?」
それでも不安は拭いきれず、覗き込むようにドアを開く。松友さんがいることはもう分かっているのに。
安心するために不安を抱く、この感じがくせになりそうで自分がちょっと怖い。
「おかえりなさい、ミオさん」
「た、ただいま!」
「はい、おかえりなさい。今日もがんばりましたね」
家の中が、明るい。
自分が電気をつけなくても光に満ちた玄関で、靴を脱いで「ただいま」と言える。
晩ごはんの匂いがして、お風呂がわいていて、きちんと整ったベッドがある。
何よりいっしょにご飯を食べて、映画を見て、今日のできごとを話しながらウノをできる人がいる。
この暖かさに、私は月収の半分以上をかけている。かけていいと思っている。
その対価を渡す日が、今日なんだ。
「ま、松友さん、今日はなん、と……?」
『給料』と大きく書かれた茶封筒を取り出そうとして、違和感を覚えた。
なんかおかしい。
「どうしました、ミオさん?」
「松友さん、ちょっと傾いてないかな……?」
なんと言えばいいんだろう。松友さんがナナメだ。
道で「顔見知りだけど話し込むほどじゃないなー」っていう人とすれ違った時くらいの、あさーい角度でお辞儀をしているような、なぜかそのくらいの前傾姿勢でいる。
「ちょっと寝違えたかもしれません」
「全身を寝違えるなんてことあるかな?」
「人生一〇〇年時代ですからね。いろんなことがありますよ」
「そっかー?」
いや、それだけじゃない。
「ね、ねえ松友さん」
「なんですかミオさん?」
「さっきから、どっちを見てるの……?」
「ミオさんを見てますけど」
「虚空を見てるよ……?」
たしかにざっくり言えば私を見ている。
でもいつもの松友さんはこんなじゃない。お話しするときはじっと私の目を見てくれる。じっと私の話を聞いて、考えて返事をしてくれる。
今日はなんというか、どこかこの世じゃない場所を見ているみたいだ。むしろ右目と左目で違う世界を見てるまである。
「ははは、虚空なんてミオさんはむつかしい言葉を知ってますねー」
「おかしいよ、今日はなんかおかしいよ松友さん! どうしたの!?」
玄関を上がり、松友さんの両腕を横から掴んだ。
特に強くしたつもりはなかったけれど。
「くぉうわっ!」
「松友さん!?」
松友さんが、変な鳴き声(?)を出して床に崩れ落ちた。
「く、くおおおお……」
「松友さん、松友さんしっかりして! どこか痛いの!? 苦しいの!? 辛いの!? 死んじゃやだ!!」
「はは、はー。死にやしませんってこのくらい……!」
立ち上がろうとする松友さん。でも手伝ってあげようと差し出した私の手を握ったとたん、また床にうずくまった。
「コー、ホー」
「黒いマスクつけた人みたいな声が……。ねえ松友さん、どうしたの? ちゃんと言って!」
しばらく苦しそうに呼吸したあと、床にうずくまったままの松友さんから絞り出すような声がした。
「腹、が。あの角度以外だと、腹が……!」
「おなかがいたいの?」
「腹が、中から刺されてる、みたいな痛みが……」
「ど、どうしよう。なんでかわかる?」
「俺も、こんなのは、初めてで……!」
「あばばばばば」
食中毒?
胃ガン?
赤痢?
おなかのいたくなりそうな病気が頭のなかをぐるぐるする。でもどれなのかなんて分からないし、分かったとしても治し方なんて知らない。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
「ひゃ、ひゃく」
「な、なに? 何か欲しいの松友さん!?」
「ひゃくじゅう、きゅう……!」
「ひゃくじゅうきゅう!」
百獣級!?
百獣級ってなんだっけ!? ライオン!?
「ひゃくじゅうきゅう……んを……!」
百十九万。
松友さんはそう言ったように聞こえた。
「あ……!」
わたしの頭に、部長さんから聞いた言葉が蘇った。
『男はね、仕事と能力に見合った賃金がもらえれば多少の痛みには耐えられるものさ』
これだ。
今のわたしにできることは少ない。なら、せめて松友さんの望み通りに。
「松友さん!」
「ミオ、さん……」
「百十九万円あげるから、がんばって!!!」
「一一九番で救急車を呼んでくださった方がうれしいんですけども!」
「あ」
救急搬送された松友さんは、病院でお薬を飲んだらすぐに良くなった。十二指腸潰瘍という病気だったそうだ。
幸い手術まではせずにすみ、まだちょっと痛そうにしながら家に帰ってきた松友さんを、私は正座で出迎えた。
「えっと、ミオさん? なぜ正座?」
「このたびは、私が焦ったばかりに無用に痛い思いをさせてしまい本当に、本当に……」
「ああいや、元はといえば俺の不摂生ですから。むしろミオさんがいなかったらと思うとゾッとしますよ。助けてくださって、本当にありがとうございました」
「松友さん……。で、でも遅くなったのはほんとにごめんね? それでその、これを」
新しく用意した封筒を松友さんに差し出す。前回の長形封筒から角形封筒に代わり、厚みはだいたい一センチ半ほどになっている。
「……ミオさん、この分厚い茶封筒は?」
「初任給」
「初任給!?」
「……と、お見舞い金とかいろいろで百十九万円」
「合わせて百四十九万円……だと……!?」
すったもんだあーだこーだして、結局、お給料の三十万円しか受け取ってもらえなかった。つらい。
せめて、これからはもっと松友さんのことを大事にしようと思いました。
十二指腸潰瘍になったので書きました。痛くないポイントを探して傾いて生活するのは実体験。なんか虚ろな目になったり「くぉうわっ」って言うのも実体験。
第1章が終わって気が緩んだのがまずかったんですかねハハハ。
時系列的には6月の話になります。7月に入ると同時に例の社長のやらかしが発覚して修羅場突入という流れ。
皆さんも十二指腸潰瘍には気をつけて、まずは早く寝てくださいませ。マジで痛いですよアレ。





