早乙女さんにおかえりなさい
明けて、翌朝。
「ですよね!」
寝坊した。
充電し忘れたままアラームを鳴らし続け、バッテリー残量八%まで弱りきったスマホに表示される時刻はAM10:24。始業は九時だから完全に遅刻確定。
着信履歴には、俺の名字すら未だに覚えない早川課長の名前が並んでいる。
怒るのが自分の仕事だとでも思っているのか、始業から終業まで怒鳴り続けた末に本来の仕事は人に押し付けて定時で帰るという模範的ブラック上司だ。
その外見と托卵の習性から、部署内では『ハゲカッコウ』という学名がついている。
そんなハゲカッコウの名前がずらりと並ぶ画面をタップし、俺は受話音量をギリギリまで小さくして耳に当てた。
十回ほどのコールの後――ちなみに部下にはワンコールで出ない奴は社会のゴミだと口癖のように言う――通話開始を示す電子音が鳴った。
「申し訳ありません課長。今すぐ出社しますので一時間、いえ自腹でタクシーを使いますから三十分だけ猶予を」
「ああ、マツモトくん。君ね、もう来なくていいよ」
俺の言葉を遮って突きつけられた回答に、目の前が暗くなる。
もう来なくていいよ。
日本においてその言葉が示すところはひとつしかない。
「というか来ないで下さい。私にも家族がいるんです。絶対に、二度と、弊社の敷居をまたがないでください」
……うん?
なにかおかしい。クビには違いないようだが、課長の声がありえないほど切迫している。例えるなら、満員電車で腹痛に襲われた人のような。
「えっと課長、それはどういう」
「私から説明しよう」
電話口の声が変わった。この無駄に尊大な野太い声には聞き覚えがある。
「……社長?」
「うむ」
毎朝、労働への感謝について語るテープを聞かされているからすぐに分かった。俺の会社の代表取締役、朽木社長だ。CDよりテープの方が心が伝わるという持論の持ち主である。
「なんで社長が」
「早川くんに任せるつもりだったが、腹をおさえてトイレに駆け込んでしまってな」
本当に痛かったのかよ。
心のなかでは突っ込むが、課長の腹具合は今はどうでもいい。
「それで、私はどうなったんですか?」
「早川くんの言った通りだ。君はヘッドハンティングを受け、今日付けでそちらに転職となった」
なったって。
本人の意思はどこへ行った。
「あの、おっしゃる意味がよく分からないのですが」
「安心したまえ、私にもなにがなんだか分からない。ひとつだけ確かなことは、君の対価として我が社始まって以来の大口取引が決まったということだけだ。ありがとうマツモトくん」
人身売買。奴隷取引。人身御供。
そんな言葉が俺の頭をぐるぐるしている。
「それで、私の新しい勤め先というのは」
「それは先方から追って連絡があるはずだ。というわけで、君はもう我が社の社員ではない。未練があると思われても困るから我が社の半径五キロには近寄らないでくれたまえ。では、さらばだマツモトくん。君のことは忘れない」
「え、あの社長? 社長!? おい、何言ってんだ波平ヘッド!」
一方的に通話の切られたスマホに話しかけてみるが、帰ってくるのは充電残り五%を警告する電子音だけだ。
「つーか俺の名前はマツモトじゃなくて松友だって何回言ったよ……」
忘れない以前に覚えてなければ世話もない。正しく名前を呼んでくれてたの、後輩くらいだった気がする。
なんというか全身から力が抜け、俺は壁にずるずるともたれかかった。
「こうなった理由って、ひとつしかないよな」
昨日の隣人との会話が思い出される。深夜のテンションで繰り出されたジョークか、なんならあれ自体が夢だったのかと思っていた。
が、紛れもない現実だということを床に転がったバールと、鳴り響くインターホンの音が告げていた。
「おはようございます」
「ええ、おはようございます……って、やっぱり早乙女さんの仕業ですね!?」
「言ったでしょう、何も心配はいらないって」
昨日とは打って変わってビシッとスーツを着こなした早乙女さんが不敵に笑う。どうやらこれが仕事モードの早乙女さんらしい。
「本気で俺を雇う気ですか」
「昨日そう言いましたからね。もちろん、雇用契約はきちんと結びます。もろもろの事務処理は私の会社が負担しますのでお任せを」
自分への福利厚生の一環としてそういう要求を飲ませたと、早乙女さんはちょっとドヤ顔で言った。
「もう怒る気にもならない……」
「というわけで、とりあえず一発いっちゃいましょう。あ、私のことはミオって呼んで下さい。早乙女ミオです」
家から引きずり出され、隣の早乙女家へ。
わざわざ俺を入れてから一回ドアを閉め、音で察するにエレベーターで下まで降りてまた上がってきた早乙女さんの足音が近づいてくる。
「ただいま、マツモトさん!」
「……おかえりなさい、ミオさん」
こうして、俺はわずか七時間での転職を果たした。
転職先、早乙女ミオさん。
業務内容、帰ってくるミオさんに「おかえりなさい」と言うこと。
きちんと契約の介在する雇用で、月の報酬は三十万円。しかも職場は自宅の隣。
文面だけ見れば何も言うことのない、いたれりつくせりの仕事だ。ただひとつ言わなくてはならないことがあるとすれば。
「俺の名前は、松友です!」
これはそんな俺と、隣のお姉さんことミオさんとの物語だ。
以上、プロローグでした。お付き合いくださりありがとうございます。ハリウッド式脚本術によると冒頭1万字を導入に使うのが適当だそうで(調べました)、だいたいそれくらいに収まりました。
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