早乙女さんは逃げられない
その電話は、自分の部屋にも溜まっていたダイレクトメール類を処理していた昼下がりにかかってきた。
『マツモト君、ちょっとお小遣い稼ぎさせてあげようか。退職時の給与を三〇分の一して日当にしてあげるからヘルプに……』
「おおーい、分かってなかったぞー!」
土屋ァ!
さすがに名前を出すと角が立つので、「マッツーが来てもどうにもならんことくらい、課長でも分かっとる」とクールに言った元同期には心の中で苦情を言った。
突然叫ぶという俺の対応に、電話越しに久々に聞いた早川課長の声に困惑が滲む。
『分かってなかった? 何の話?』
「いえ、こっちの話ですのでお構いなく」
『そ、そう。それでいつ来れるかな? なんなら今日これからでも……』
「いえ、お断りしますけど」
なんで行く前提で話を進めてるんだこの鳥類。
『え、なんで?』
「というか何しれっと三〇で割ってるんですか。せめて出勤日数の二十五くらいで割ってくださいよ」
『わ、分かった。二十五分の一で出そう。だから代わりに今日すぐに来てくれ。これなら対等だろう?』
それで対等な計算になるって、あのハゲ頭の中にどんなそろばんが設置されてるんだろう。そろばんに見える納豆でも詰まってるんじゃないだろうか。
まったく行く気にはならないが、課長から電話してくれたのは助かった部分もある。土屋が言っていた会社の危機について情報が手に入るかもしれない。
「うーん悩ましい条件ですね。行くべきか、行かざるべきか……」
『なんて強欲な! いきなりやめた身でこれ以上欲しがるなんて、君に義理の精神はないのか!?』
怒鳴られた。
しかしすごいな、課長の中ではいつの間にか俺が勝手にやめたことになってる。髪は無いのに脳内には納豆が糸ひいてるのかな。
「そもそもなんで私をヘルプに? 土屋は体力がありますし、村崎もそろそろ仕事を覚えた頃です。人手なら足りているでしょう」
『いや、それは……』
言い淀んだ。これは押せばいける流れだ。
「会社の状況も自分のやることも分からないのに軽々しく『やります!』なんて、それこそ不義理な人間の言うことですよね?」
『うーーむ、そ、そのだね。マツモト君がやめたタイミングで、大きな取引が持ち上がったのは知っているね?』
俺を人身売買した対価としてな。
「ええ、社長に伺いました」
『それなんだけどねぇ。話を持ってきたマーケティング会社を挟んで進めてたんだが、顧客があらぬ勘違いをしたために混乱を生じてしまってね。ありえないほどの仕事量に我が社はパンクしそうなんだよね』
「なるほど、それは大変だ」
先方の勘違いとは言っているが、社長の大言壮語をそのまま受け取られてしまっただけだろう。
おおよそ土屋から聞いた通りらしい。
『間に入っていたマーケターが調整に駆け回ってるみたいだけどね、あの若いお姉ちゃんがどこまで頼りになるやら……。しかしここを乗り切れば我が課の評価はうなぎ登り間違いなし! 君も一年間世話になった恩返しができるというものだろう?』
「あーはい、そうで……若い女性のマーケター?」
聞き流そうとした課長の言葉尻に、絶対に無視できない単語があって思わず聞き返した。
マーケター。専門知識にもとづいて販売戦略を立案したり、売り手と買い手を橋渡ししたりするマーケティングの専門家のことだ。
俺の転職と引き換えに決まった取引を担当する、若い女性のマーケター。
それはまさか。
『おお、興味があるかね。ちとキツいがなかなか美人でね。しかも巨……』
「その方のお名前は?」
違うはずがない。九割九分“アタリ”だろう。
そう分かっていても違っていてくれと願わずにはいられなかった。だが、課長は俺のよく知る名前を口にした。
『サオトメさんだったかな。そうだ、早乙女ミオさんだ』
「早乙女ミオ……」
『ウチにいれば会う機会もあるかもしれないよ? だから早く、できれば一時間以内に出社を』
「お断りします。理由は俺の名前がマツモトじゃなくて松友だから。では」
『え、ちょっ』
“ツー、ツー、ツー”
「ふー……」
通話を切り、大きく息をつく。
「そりゃ、そうだよなー」
土屋の話を聞いたときから予想はできたことだ。
俺のいなくなった直後に持ち上がった大口取引でトラブル。そこにミオさんが関わっているのはちょっと考えれば分かる。
「俺を引き抜くために通した案件で、斡旋した会社の社長が大ボラ吹いて、そのせいで土屋と村崎が失業の危機、か」
ミオさん個人が悪いかといえば微妙なところだ。もちろん契約上、職務上の責任はあるだろうが、誰が悪いという話をするなら朽木社長が九割九分九厘悪い。
「けど、ミオさんは絶対気にしてる」
いっしょに食事に行った人にパスタの汁を飛ばした。
いっしょに買い物に行った人と会話が盛り上がらなかった。
それだけのことを悔やんで、ぬいぐるみを抱きしめて泣くのがミオさんだ。
今のミオさんが土屋や村崎のことをどう見ているのか、友達なのか知り合いなのかは分からない。でも少なくとも好意は持ってくれているはずだ。
そうだとしても、いや、そうだからこそ、俺には想像できないほどの責任を感じているに違いない。この件が丸く収まったとしても、ミオさんは二度と二人と関わろうとしないだろう。
せっかく繋がった縁、できればそれは避けたい。だがどうすればいい。
「俺に何ができる。今の俺に、何が」
その夜。
どうにか九時ちょうどに帰宅したミオさんは、麻婆豆腐をハフハフしながら仕事で起きたことを話してくれていた。
「でねー、『死霊のボンカレー』の部長さん、プロジェクターの大画面で観たって言ったらすごく喜んでくれたんだよー」
「ふたりでいろいろ出した甲斐がありましたね」
「そしたら、今度はこの映画を貸してくれちゃって……」
「『君の膵臓、下から食うか横から食うか』?」
「たぶん、スプラッター……」
「この話は食事の後にしましょう。はいはいやめやめ」
「そうする。うん、そうする」
土屋たちの会社のことにミオさんは一切触れない。ミオさんにも守秘義務というものがあるわけで、取引先の情報を出さないのは大切な責任だ。
今しがた話していたホラー映画好きの部長さんにしたって、俺は実名も社名も知らないし、訊かない。それが当然のこととして今までやってきている。
「話題を変えましょう。そういえばミオさん、アレどうしました?」
「アレ?」
「ほら、同窓会の案内ですよ」
「あ……。うん、やめとこうかな、って」
「せっかくだからお友達に会ってくればいいのに」
「そんなに仲のいいお友達もいなかったから……」
「そう、ですか。では、欠席にして投函しておきます」
「うん、ありがと」
「それで、えっと……あー……」
「…………」
会話が途切れた。
「えーっと……」
「うん……」
微妙な空気が食卓に流れる。もともと、俺だって隠し事が得意ってほどじゃないのだ。
ミオさんだってそうだ。仕事としての秘密は守れるけど、この件は俺へのプライベートな隠し事でもある。隠し事もまたコミュニケーションの一部であり、ミオさんにとって苦手なものには違いない。
しかしミオさんから触れることは立場上許されない。
ならば。
なし崩しの未来を避けたいならば。
「ミオさん、最近ずいぶん忙しいみたいですね」
「あ、うん。ごめんね? 毎日待たせて」
「いえいえ、これが俺のお仕事ですから。でも、なんで急に忙しくなったんです?」
「それは、えと、会社のことだから言えないかも……」
予想通りの返答。
俺は、小さく深呼吸をした。
「俺を、引き抜いたからですか」





