早乙女さんはがんばりたい
あのデッドヒート・ウノレースから一週間ほどが経った今日、俺は自宅とミオさん宅のカレンダーを一枚ずつめくった。
青い空をうつすリゾートビーチの写真の下には、明朝体で『7月』の文字。いよいよ夏の到来である。
夕食に今年最初の素麺をいただいた俺とミオさんは、食後の過ごし方を決めようとしていた。
「夏の夜と言えば、これだよねー」
「否定はしません。肯定もしません」
「これなんだよ。夏といえばこれ。だから観るの」
「そうとでも思わないと耐えられないんですね。分かりました」
夏を迎えて少し薄着になったミオさんの前には、テーブルに無造作に置かれた一枚のブルーレイ。
タイトルは『死霊のボンカレー』。低予算、小規模、少人数で作られたB級ホラー映画……なのだが。
「これね、すっごくこわいんだって」
「それにしてはパッケージがコミカルですけど。赤と黄色でほとんどカレーの箱じゃないですか」
「えっとね、これを貸してくれた取引先の部長さんが、家族でこれを観てた時の動画を見せてくれたの」
「映像を観ている人の映像とはまたややこしい……。それで、どうでした? すごい悲鳴を上げてたとか、ジュースをひっくり返したとかですかね」
それくらいなら、少し怖がりな人なら簡単にやるだろう。わざわざ動画に収めるほど面白いものでもあるまいに。
「ねえ松友さん、顔から出るものってぜんぶ言える?」
「なんですか急に。恥ずかしくて顔から火が出る、とかそういうやつですか?」
「ううん、顔から出る汁のこと。言える?」
汁て。
「えっと、上から汗、涙、鼻水、唾液……あ、吐瀉物とかも含みでですか?」
「全部出てた」
「含みで?」
「含みで」
何を含みでかは会話の流れから察して欲しい。
「なるほど、なるほどなるほど。怖いくらい怖いと。なるほどなるほど」
「だいじな取引先だからね、貸してもらったら観ておきたいの。でもね、つらいの。一回だけちょっと再生したけど、ひとりじゃつらいの」
「ひとりで耐えるより、俺といっしょに全部出す方がよいと? こういう言い方もなんですが、女性ってそういうのは人に見られたくないんじゃ……」
「だ、出さないようにがんばるよ!? それでも恥ずかしいけど……松友さんになら全部見られてもいいよ」
そのセリフ、もっと違う形で聞きたかった。
「そ、そうだ。土屋と村崎も呼びません?」
ひとりよりふたり、ふたりより四人だ。たびたび巻き込んで申し訳ないとも思うが、あいつらも早乙女さんに呼ばれれば喜ぶだろうし。
「今日はダメ」
「そ、そうですか?」
「これはわたしがやらないといけないことだから。松友さんがいなくても、あの二人には頼っちゃいけないことだから」
「いえ、俺はお付き合いしますけど……」
どこか夜のミオさんらしからぬ、明確な意思だった。珍しい反応に気圧された俺の様子に気づいたか、ミオさんは慌てて手をパタパタと振りだした。
「え、あ、その、ほら、迷惑だと思ってね? つちやさんも村崎さんもお仕事たいへんみたいだし」
「あいつらならミオさんと会いたがるとも思いますが……」
「そうかな……?」
「ええ、きっと。まあでも、平日から呼び出すのも悪いですよね。今日のところはやめておいて、また週末にでもみんなで」
「明日は貸してくれた人に会うから観なきゃ……」
「だから夏休みの宿題はギリギリまで残しちゃダメですよとあれほど……」
悲しきかなサラリーマンの宿命。打ち合わせのスケジュールからは逃げられない。大魔王よりも逃げられない。
逃げられないならば輝いて散るしかないと覚悟を決め、俺はブルーレイディスクを手に取った。
「再生しますよ?」
「う、うん」
「……いきます」
リビングのソファに移動し、灯りを消してプロジェクターとプレイス○ーション4――映画を観るならコレと電気屋で勧められるがまま買って二年放置してたらしい――を起動する。
“デデデデデデデ……”
『死霊のボンカレ~』
アイコンが舞い、タイトルがどんと現れた。
「や、やっぱりチープで怖くなさそうですけど? ミオさんはどこまで観たんですか?」
「十三秒がんばった」
「思ったよりだいぶ短い」
「松友さん、手つないでもいい?」
「え、ええ。どうぞ」
ミオさんの小さな左手が俺の右手に重なってくる。
受け入れるように握り返すと、指の細さに驚かされる。こんな小さな手で世界と戦っているのだと、強く強く実感させられる。
そんなことを考える俺の隣で、ミオさんが緊張した面持ちで口を開いた。
「七」
「六」
「あのミオさん、そのカウントダウンは?」
聞くまでもない。ミオさんが挫折したという十三秒目までの秒読みだ。
「五」
「四」
カウントが進むごとに俺の手を握る力も強くなっていくのが分かる。
「三」
「二」
「十三秒にいったい何が……」
「一」
「おおおおおおおおおおお!!??」
「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」
「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!」
「きゃあああああああああああ!!」
「待て待て待ってくれうわあああああああああああ!!」
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ」
「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」
「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」
「あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」
その後については、結論だけで許して欲しい。
ミオさんは乙女の意地で涙まででこらえた。
俺はもう一段階先へ進んだ。
どうにか九〇分の映画を観終わり、就寝時間を迎えた頃。
ミオさんの寝室のドアの前で、俺は十字架を持って門番をしていた。
「わ、わたしが寝るまでそこにいてね。ドアの前からうごいちゃダメだからね!」
「はいはい、分かってますよ」
「ととと、トイレとか行かないでね?」
「大丈夫ですよ。むしろ行きたくても行けるか分かりません」
『死霊のボンカレー』は、親友に裏切られた女が、死霊となって親友の寝室に乗り込んでカレーに調理してしまう、という映画だった。
いろんな意味で夜遅くに観る映画じゃなかったと思う。ミオさんも寝室に入るまでに五分は立ちすくんでいた。
「……松友さん」
「なんですか?」
「わたし、がんばるから。明日も明後日も、ぜったいがんばるから」
「ミオさんは毎日頑張ってますよ」
「……ありがと」
それからは沈黙が続いた。不思議と、恐怖や居心地の悪さはない。
一時間経ってミオさんの寝息が聞こえだしたのを確かめて、俺はそっと自分の部屋へ戻った。
トイレには行けた。
今回はウノはしません。たぶん。
鬱展開はありません。こっちは確実。





