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早乙女さんは諦めない

「ほんとです。でも今日はもう遅いですし。また今度にしましょう」


「えっ……」


 主人の背中を見送る捨て犬みたいな目をしないでほしい。


 上目遣いで、しかも胸の谷間が濡れて透けているから心臓に悪い。早乙女さんの百五十センチ台半ばの体には不釣合いな大型兵器が俺の目を集中砲火している。


 そんな誘惑に意識を奪われつつも、時計を見ればもう午前三時を回るところだ。明日も普通に仕事だというのにこれは非常にまずい。今の時点で眠気と疲労にはかなり限界がきている。


「じゃ、じゃあ明日。明日も言ってくれますか」


 食い下がってくる早乙女さんにハイと答えかけ、自分の労働環境を思い出して首を振る。


「あー、帰りの時間が合わないんじゃないですかね。俺、だいたい毎日この時間なんで」


 東京は深夜一時半まで電車が走っていると知った時は驚いたものだ。


 就職のために福岡から上京してきて感激したのが入社一週間目のことで、それが一時半まで働かされるという意味だと知ってJRの爆破を考えたのが入社一ヶ月目だったと記憶している。


 早乙女さんが何時に帰っているか知らないが、俺より遅いことは物理的にありえないわけで。


 言われるならともかく、言うのは限りなく難しい。


「そうですか……」


「休みの日なら付き合えるかもしれないんで、その時にでも」


 次の休みなんていつ来るか分かんないけど。


「分かりました」


「分かってもらえて何よりです。はい、じゃあさっさと割れた窓を塞いで寝ましょう」


「私があなたを雇います。おかえり担当部長になってください」


 会話が噛み合ってない。


 何言ってるのこの人。幼児退行から急に戻ってきたように見せかけて、発言のレベルは何も変わってない。


「あの、ご自分が何言ってるかアンダースタンですか?」


「アンダースタンです」


「アンダースタンなんですか。でも雇うって言ったってそんな簡単には」


「私の月収は五十三万です」


 早乙女さんがさらりと言ったそれは、終電まで働く俺の三倍の収入だった。


 遠くなりかけた意識を無理やり引き戻す。


「五十三万?」


「五十三万です」


「額面で? 手取りで?」


「もちろん手取りです」


 これも社会人になって学んだことで、収入には『額面』と『手取り』の二種類がある。


 前者は給料の全額を足したもので、いわゆる『年収三〇〇万』とかいうときはこっちを指す。そこから厚生年金だとか社会保険料だとか税金だとかを引かれに引かれ、哀れにもやせ細って自分の手元に届くのが後者の手取り収入だ。


 たいていの場合、サラリーマンの手取り収入は額面の八割くらいになる。


 つまり二割は消える。週五日労働なら一日はタダ働き。


 このシステムについては言いたいことが山程あるが、話が逸れるのでまたの機会にしておく。今重要なのは、早乙女さんがボーナスも含めれば年収が“一本”、つまり一千万円を超える高収入というところにほかならない。


「自慢ではありませんが、私は生まれてこのかた趣味もなく、恋人もなく、これといって友達もいません」


「本当に自慢じゃなかった」


「ご飯やお酒だってひとりで高級店に入っても虚しいだけなので、安くて栄養のあるものばかり食べてます。具体的にはお豆腐とかです」


「おいしいですよね、お豆腐」


「お味噌汁が好きです」


「豆腐と味噌で大豆ハロー大豆ですね」


「おかげでとても健康になり貯金も増えました。なのに」


「……なのに?」


 露骨に間をとられたので素直に聞き返す。


「それをいっしょに喜ぶ相手だけが売ってなかったんです!」


「まあ、どんなゲームも友達は別売りですから」


 四人で遊ぶボードゲームを憎む人が、だから世の中にはいるらしい。


「でも、もう無理です。おかえりと言ってもらえる快感を体に刻み込まれたら、元の生活には戻れません。ですので、そうですね。月に三十万。その対価を払ってあなたを雇います」


 言い回しがひどい。突っ込んだらセクハラだから言わないけど。


 しかし月に三十万というと、今の収入から七割増しだ。しかも業務内容が早乙女さんに「おかえり」と言うこととくればこんなに美味しい話はない。


 むしろ美味すぎて乗れない。というか普通に怖い。


「でも、俺にも今の仕事がありますし」


「失礼ですが、お勤め先は?」


「あ、申し遅れましたが私こういうもので……」


 求められるまま名刺を渡す。手渡す時に定型文が口をつく癖はもう一生抜けない気がする。


「分かりました」


「分かりましたって、何が?」


「今日は遅くまでありがとうございました。割れた窓は自分で塞ぎますから、何も心配はいりません」


「えぇ?」


「では、おやすみなさい」


 押し流されるように玄関から追い出され、マンションの廊下にぽつんと取り残された。ドアを閉める瞬間、にこりと笑った早乙女さんに見とれたのが失敗だった。


 しかし、何が心配ないのか。それ自体が心配で仕方ないが、とにかく今日はもう夜が遅すぎる。とにかく明日また考えることにして、俺は殺風景な自宅の布団へと重い体でもぐり込んだ。

いつの間にかポイントをいただいていました。ありがとうございます。

別のものを書くつもりだったのに、勢いで5千字書いてしまいました。


なので昼にも更新します


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