早乙女さんをもう一日休ませたい
「たまご酒っておうちでつくれるんだー」
「ええ、電子レンジでも簡単にできるんですよ」
「どうやるの?」
「まずは卵を溶いて、砂糖とハチミツを入れて……」
俺が語るレシピを興味深そうに聞きながら、ミオさんは黄色いたまご酒をコクコクと飲み干していく。
「ごちそうさまー。たまご酒ってこんな味だったんだねぇ」
「治ったら教えてあげますよ。いっしょに作りましょう」
「つくるー」
「じゃあ、あとはお薬ですねー」
ミオさんの顔がこわばった。
が、すでにこの家には文明の利器がある。土屋が持ち込んだこのブツがあれば飲めない薬などない。
「取り出す時のこのムリュムリュした感触が地味にいい……」
「ぶどう味?」
「ぶどう味です」
テレビでは皿にゼリーを出して薬を載せ、さらにゼリーをかぶせてスプーンですくっていたけど、あれをやると一本くらい即なくなってしまうので今回はスプーンに直接出して使う。
「はい、あーん」
「あーーー」
……小鳥を飼ってる生活ってこんな感じなんだろうか。
「はい、よく飲めましたね。あとはゆっくり寝れば治りますよ」
「うん、じゃあ……」
「帰りませんよ。ミオさんが寝るまではリビングにいます」
おおかた、深夜残業を気にしてるんだろう。そういうところは気にするし、この人。
「……ありがと」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ……」
寝室の電気を消し、俺はリビングのソファに腰を下ろした。
「……ですので、ええ、……。はい、……」
「……拝承しました。そこで……」
ミオさんの声が聞こえる。
電話中、だろうか。うっすらと目を開けると、すっかり夜が明けてカーテンの隙間から朝日が差し込んでいることが分かった。
「ん……。あのまま寝ちまったか……?」
ミオさんを寝かしつけた後、俺もいつの間にかソファの上で寝てしまっていたらしい。高そうな見た目通りしっかりしたメーカーのソファらしく、体の節々が悲鳴を上げていないのが幸いだった。
体を起こそうとして、自分にピンク色の毛布がかけられてるのに気づいた。
「ミオさんがかけてくれたのかな」
「……ええ、左様で……、なので予算は……」
ソファの死角になって見えないが、リビングからはミオさんが電話をする声が聞こえている。すっかり体調は快復したらしい。
あれだけ熱を出した翌朝にもう仕事の電話をしているのだから、相当な仕事人間だ。でも、それもミオさんらしいといえばミオさんらしい。
ならば。俺も、俺の仕事をするとしよう。
「さてと、今からコーヒー淹れても間に合うかな。俺も眠気覚ましに一杯……」
「分かりました。あ、佐田さん、悪いけど昨年の経理ファイルをとってきてくれない? あなたが引っ張ったあのプロジェクトの予算が載ってるやつ」
……うん?
なんかおかしい。
電話口の指示にしてはえらく具体的というか、語り口がまるで会社のデスクにいるみたいな。
「お待たせしてすみません。ええ、ではこの場でちょっと試算してみましょう。ええと、昨年から円ドル相場は三円ほど円高になったから……」
「ミオさ、んんん??」
ソファから立ち上がり、死角にいたミオさんの方を振り返って、俺の脳は理解を諦めかけた。
「あの佐田さん、わたし、何かした……?」
下着にブラウス姿のミオさんが、
スリッパを耳に当てて納豆を高速でかき混ぜながら,
ふーちゃんに指示を飛ばしている。
意味不明すぎる光景を前に、俺は。
「すーーーーーーはーーーーーーーー」
大きく深呼吸をした。
「状況を、分析する」
深呼吸で取り込んだ酸素を全て脳に送り込み、部屋全体をくまなく観察する。
瞬間的に加速した思考は、混沌とした室内から必要な情報をピックアップしてゆく。
■毛布
ミオさんがかけてくれたもの。俺を起こさないよう気遣ったようだ。
ピンクのたれぱんだ柄。
■散らかった台所
台所を使用した形跡。
「目を覚ましたミオさんは、俺を起こさないように台所で何かを作ろうとした」
■獺祭
出しっぱなし。
土屋がくれた山口の銘酒。俺は飲ませてもらえない。
■砂糖
出しっぱなし。
一般的な上白糖。
■ハチミツ
出しっぱなし。
レンゲ蜜一〇〇パーセント。
■豆乳
出しっぱなし。
まだ冷たく、冷蔵庫から出して十五分以内。
■匂い
納豆の匂いのみ。
「出ている調味料類は『たまご酒』の材料と一致するな。でも、日本酒を加熱したなら特有の匂いが残っていないとおかしい」
■脱ぎ捨てられたパジャマ
ミオさんの春秋用パジャマ。上と下が別々に脱ぎ捨てられている。ギンガムチェック。
■スリッパ(右)
寝室に残置。左はミオさんが通話中。クマさん柄。
■未着用のスカート
着ようとして諦めた形跡。
■納豆パックのフタ
四パック分。テーブルの上に放置。
手がかりは以上。これらから、過去に起きた出来事を再現する。
「よし、再現される状況は……」
――約十五分前――
「もう朝なのね。まだちょっと熱っぽいけど……うん、もう動けるわね」
目を覚ましたミオさんは、ベッドから起きて寝室を出た。リビングでソファに寝ている俺を発見する。
「松友さん、結局ずっといてくれたのね。今は寝かしておいてあげましょう」
俺に毛布をかけ、台所へ。
「昨夜は夕食をとれていないし、何か食べたいけれど……。そうだ、昨日松友さんに教わったたまご酒を作ろうか。仕事前だけど、昨日飲んだ感じだとアルコールはほとんどないみたいだし」
ミオさんは知らない。
俺が時間をかけてアルコールをしっかり抜いていたことを。
「えっと、溶き卵に砂糖とハチミツを混ぜて……」
材料を出し、調理開始するミオさん。
もともと料理に不慣れな上、熱に浮かされながら覚えたレシピは不完全。日本酒をレンジで煮切るのを忘れるという、普段なら流石にしないようなミスをおかしてしまう。
「なんか違うけど……。まあ、いきなり松友さんと同じには作れないわよね」
気づいてくださいミオさん。だいぶ違います。
「んっ、んっ。ぷはぁ。やっぱり、今度ちゃんと教わろうかな……。なんかお酒っぽくて全然おいしくない……」
そりゃお酒ですから。日本酒に生卵と砂糖を混ぜただけですから。
「さてと、仕事仕事。昨日で山場は越えたといっても忙しいんだから」
獺祭の度数は十六度。朝から一気飲みすれば当然酔う。
「着がえてー、会社に行かないとー……」
酔いの回り始めた体で、ふらふらと寝室へ。
移動しながらパジャマを脱ぎ捨て、寝室のクローゼットから仕事用のスカートとブラウスを手に取る。
「あ、そうだー。お客様にお電話しなきゃー」
枕元に置いてあったスマホ……ではなく、その下の床にあったスリッパ(左)を手に取る。
「もしもしおはようございます、早乙女です。ええ、昨日はありがとうございました。会社に着きましたらメールを……あれ、ここが会社だっけ……?」
スカートを履き忘れたままスリッパで通話開始。混乱した頭はここを会社と勘違いし、現在に至る。
「……という感じで、下着にブラウスだけの状態で仕事するミオさんが出来上がったわけか。うん、理解理解」
理解したけどわけが分からん。
「特にあの納豆はなんなのかまるで分からん。とにかく止めないと」
ミオさんに近づくと、部下の押山さんが言うことを聞かずすっかり涙目になっている。
「ミオさんミオさん」
「松友さぁん、みんなが何もしゃべってくれないの……」
いかん、すでにストレスで幼児退行しとる。
「ふーちゃんは元々しゃべりませんよ。しっかりしてください」
「あーちゃんはしゃべったもん……。もうやだぁ、おうち帰る……」
「ここがおうちですよミオさん。ほら、納豆を離してください」
「そんなのうそだよ、ここかいしゃだもん。そろばん、わたしのそろばん返して……」
「世界と戦う企業はSOROBANの時代なのか……?」
どうやら納豆はミオさんの中ではそろばんだったらしい。
客との打ち合わせに使おうと持ってきたのだろう。どうするんだ四パック分も混ぜちゃって。
「うぇぇぇ……お仕事できないよぉ……会社がつぶれちゃうよぉ……!」
「よし、どうしていいかさっぱり分からん」
かくなる上は仕方ない、ひとりの知恵よりふたりの知恵に賭けてみよう。
俺はスマホを取り出し、昨夜の通話履歴を呼び出した。
“トゥルルルル”
『はい、土屋でございます』
「俺だ、松友だ。ちょっとだけ大丈夫か?」
『はい、ご用件はなんでしょうか?』
電話の向こうの土屋は完全に仕事の口調だ。
どうやら、もう出社していて課長が側にいるらしい。
「仕事中に本当にすまないが、知恵を貸して欲しい。お前、そろばんの経験はあるか?」
『……は? いや、ええ、学生時代にひと通りは習得しておりますが』
「それは助かる。そのノウハウで一緒に考えてくれ。
納豆をそろばんと思い込んで会社を救おうとしている女性を、どう止めればいい!?」
『なして!?』
しばらくの攻防の末、土屋の案で氷を食べさせたらどうにか元のミオさんに戻った。
微熱の上に酒気を帯びては会社には行けないということで、ミオさんは一日の休養をとることになった。病み上がりで仕事せずにすんだので、結果オーライだと思う。
たぶん。
これを予約した現在、朝5時です。おはようございます。
これにて看病編は完結です。
次回、夜の決闘編。序盤からチラチラ出てた残念後輩が登場予定。
土屋もちょっと出る。
よろしくお願い致します





