早乙女さんは初見に強い
“ピンポーン”
「おいマッツー、来ちゃったぞー」
「助かる土屋!」
「うお、隣か!」
ドアを開けると、浅黒い肌に短髪が似合う男がリュックを背負って六〇五号室の前に立っている。三週間ぶりに会う同期で同郷の土屋遥斗だ。
インターホンの音くらいはミオさんの六〇三号室にいても聞こえるということで待機していたが、思ったより驚かせてしまったらしい。のけぞる土屋の手には、しかししっかりとドラッグストアの袋が握られている。
「どうだ、買えたか!?」
「お、おう。きちんとぶどう味やぞ」
「ああ、ありがたい」
「それに日本酒も、ほれ」
土屋が登山用のリュックから取り出したのはまさかの一升瓶。しかもそのラベルは。
「獺祭ってお前、わざわざ家から持ってきたのか」
「はっはー! よう分からん時は一番よかもんを担いでいけば間違いなか、ってな! お前、何か大変みたいやし」
「……ありがとな」
『獺祭』は山口県で作られる純米大吟醸酒、つまりは少しお高い日本酒だ。定価が格別に高いわけではなく、その独特の甘さと地域性の強さからくる希少価値で値段が上がりがちな銘柄になる。
九州では特に馴染み深い酒で、他所に働きに出る際に持ち出す人も多い故郷の味だ。
「お前だって大事に飲んでたものだろ」
「ええって。ただし、それを渡すからには全部話してもらうけんね。どげんしたとや一体」
「ああ、実は――」
「あの、松友さんのお友達の方ですか?」
「あ、ミオさん起きてきちゃったんですか。……あれ?」
後ろからミオさんの声。振り返ると、ギンガムチェックのパジャマの上にピンクのカーディガンを羽織ったミオさんが壁を支えにして立っていた。乱れていた黒髪は手ぐしで簡単に整えられている。
別に何もおかしいことはないのだが、この違和感はなんだ。
「ど、どうも土屋遙斗です! うぉぉ、ばり美人やん。おいマッツー、ばり美人やんか。なんであんな人の部屋におるん」
視線はミオさんに固定したまま俺の肩をゆさゆさと揺さぶってくる。手汗がすごいぞ。
「なぜ二回言った。この人は早乙女ミオさん。俺の隣に住んでる人で、その、俺の雇い主だ」
「雇い主? 上司とかでもなく?」
「ああ。この人と雇用契約を結んで、家のこととかを手伝ってる。それだけで十分食っていけるだけの給料をもらってるよ」
どう説明したものか、土屋が来るまで考えた。もろもろの手間を考えれば適当にごまかすほうが簡単に収まることも分かってる。
だが、終電が当たり前の職場で九時に帰れた貴重な日に、秘蔵の酒を持って駆けつけてくれた土屋に対してそれはあまりに失礼だ。
たとえ上手く伝わらないとしても、正直に話すべき。
それが俺の結論だ。
「なんかもう、よう分からん」
「私からお願いしたんです。お恥ずかしながら、仕事ばかりの生活で人恋しさが勝ってしまって。松友さんにはいつもお世話になっています」
ああ、なるほど。
初対面の土屋を前に、社会人としてのミオさんが出てきている。そういう感じか。
「そいで、早乙女さん? 見た感じ風邪ばひかれとるみたいですが」
「ええ、不摂生がたたりまして。土屋さんが薬を買ってきてくださったんですよね。こんな格好で申し訳ありませんが、本当にありがとうございます」
「いえいえ! どうってこたぁなかですよ!」
こいつ、ミオさんに微笑まれて露骨に態度を変えたぞ。
「類は友を呼ぶと言いますが、松友さんのご友人だけあって親切な方なんですね」
「いやぁそげん褒められましても、ハハハ」
「すみません、気分がすぐれないので私はこれで……。また改めてお礼をさせていただきます」
「お構いなくー! ……フーーゥ」
お大事にー、とミオさんが廊下の向こうに消えるまで手を振った土屋は、五秒ほど惚けたようにため息をつくと、今度は俺の両肩を掴んできた。
「マッツー、あれがさっき電話で聞こえた声の人なん? だいぶ印象違うやんか」
「顔が近いぞ気色悪い。まあなんだ、体調が悪かったり疲れたりすると子ども返りすることがあるだろ? ミオさんはそれが少し極端なんだ」
少しな。
夜のミオさんについては彼女のプライベートな話になるし、流石に俺の口からは言えない。
「てかマッツー、こげん美味しか仕事についとるとかひとッ言も言わんかったやん。こっちはヅラカッコウの下で死にかけとったんに」
「黙ってたのは悪かったと……待って、ヅラにしたのあいつ?」
ヅラカッコウというのは、他人に仕事を押し付ける托卵のプロこと早川課長のことだろう。
俺がいた頃のあだ名はハゲカッコウだったはずだが。
「いきなりフッサフサのヅラば被ってきて
『ようやく育毛の成果が出てきたよハハハ。努力すれば報われるのだ、分かったかね』
とか言うとった」
「村崎は?」
「何か言う前に首筋をつかんだ」
「よくやった」
村崎は俺たちの後輩だった奴だ。土屋に例のゲームセンターへ連れ込まれ、俺が猫のぬいぐるみをとってやった一年目だ。
小柄な童顔で入社当時はかわいいと評判になったものの、クソ真面目、かつあらゆる発言がいっさい遠回りせず最短ルートを爆走するせいで、入社一ヶ月で社内を幾度も凍りつかせた実績がある。
今回も何か言ったんじゃないか不安になったが、さすがは土屋といったところか。
「さて、マッツーはそろそろ早乙女さんの看病に戻っちゃらんや」
「そうだな。今日は助かったよ」
「ああ、お疲れさん。病人に手ェ出したらいけんぞ」
「出さねぇよ多分」
最終的には『主の祈り』の効果しだいかもしれない。まさに神のみぞ知る世界。
「いやーしかし、早乙女さんかー。早乙女さんからのお礼かー」
「期待していいと思うぞ? マーケティングで営業もやる人だからプレゼントとか詳しいし」
たぶん土屋が期待してるであろう、夜景の見えるレストランとかはないだろうけど。頑張って自力で誘ってくれ。
「ウヘヘ。んじゃ、オレ帰るわ。早乙女さんによろしく」
「おう、俺からもどっかで奢るわ」
「はいよー」
九州男児と呼ぶには少々ナンパだが、気前よく、固執せず、情に厚い気持ちのいい男だ。終電上等のブラック企業でも、こいつと出会えただけで入った価値があったと思える。
手をひらひらと振りながらエレベーターへ向かった土屋は、途中で何か思い出したように立ち止まった。
「あ」
「どうした?」
「さっきの獺祭やけど」
「おう」
「病気の早乙女さんのためだけに置いていくけん、お前は飲むな」
「は?」
「早乙女さんと半分同棲しとる上に黙っとったのが許せん」
「は?」
「じゃ、おやすみー」
「……は?」
正直、割と本気で凹んだ。
果汁グミと蒟蒻畑はぶどう派です。





