早乙女さんを休ませたい
「もうやだぁ、おうち帰る……」
「ここがおうちですよミオさん。ほら、納豆を離してください」
「そんなのうそだよ、ここかいしゃだもん……。そろばん、わたしのそろばん返して……」
「最先端企業はそろばん支給なのか……?」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
うつろな目で納豆をかき混ぜ続けるミオさんを前に、俺は天を仰ぐことしかできない。
それは、昼に小雨の降った日の夜だった。
「ただ、いまー……?」
「はい、おかえりなさい」
「あ、た、ただいま!」
「おかえりなさい。今日も出勤してますよ」
「よかったぁ……。今日こそいないかもって走ってきちゃった……」
例によって覗き込むようにドアを開けたミオさんは、俺がいるのを見て安心したように敷居をまたいだ。このやり取りも三週間めに突入したことになる。
そろそろ慣れてほしいと思う反面、ミオさんも案外このやり取りを気に入っているのでは、と思い始めている俺がいる。
「はいはい、仕事ですから。ありゃ、ずいぶん汗かいちゃってますね。先にシャワー浴びますか」
「そうするーぅぅぅ……」
間延びした声でそう答えると、ミオさんは玄関を上がってきた。
靴も脱がずに。
「ちょ、ミオさん?」
「むぇ?」
俺の声に反応して振り返ろうとしたミオさんの体が、ぐらりと傾いた。
「あぶない!」
前のめりに倒れかけたのを慌てて受け止める。小柄なミオさんなのに、脱力しきった体はずしりと重い。
「つよーい。おとこのこー」
「言ってる場合じゃないでしょう。どうしちゃったんですか」
ミオさんにまっすぐ立ってもらおうとするが、体は右に左に揺れるばかり。床にへたりこんだかと思えば不思議そうに首をかしげている。
「あれぇ、たてないー?」
「もしかして……」
ミオさんのおでこに手を当ててみる。
熱い。
「すごい熱じゃないですか。これでどうやって走ってきたんです」
体感だが三十八度は超えてるんじゃないか。そんな体調だというのにミオさんは動じることなくケラケラ笑っている。
「そんなことないよー。げんきーげんきー」
ハッスルなポーズをとろうとしているのだろうが、腕が上がらないからタコがピチピチしてるみたいになってる。
「熱があるとハイになって疲労も痛みも感じなくなるタイプだったか」
おおかた、昼の雨に濡れたまま冷房のきいたオフィスに入ったのだろう。
出会った日は深夜に雨に打たれても平気だった人でも、風邪というのはしょせん時の運だ。かかる時はこうやってかかる。
幸い今は気分もいいようだが、ハイな時間が終わったら悪寒や苦しさもやってくるだろう。
「明日の仕事は……って何いってんだ俺は。とにかく着替えさせてベッドだ」
前の職場の癖に振り回される自分を叱りつけ、まずは靴を脱がせてミオさんを抱き上げる。女性ものの靴ってこんなにピーキーな構造なのかと驚かされつつ、どうにかグレーのハイヒールを玄関に戻してミオさんの脚と背中を支えて持ち上げた。
「おひめさまー」
「そうですね。お姫様抱っこです。しゃべると舌をかみますから、しー、ですよ。しー」
「しー」
Gの件で幼くなりきった時に似てはいるが、あの時は言動が幼いだけで頭の良さを感じることはできた。
「それが今日はこの状態、か。本格的に具合が悪いってことだろうな」
それだけ危険ということだ。たかが風邪、されど風邪。これだけ熱があるとなれば油断できない。
慎重に寝室へ運んでベッドに寝かせる。シンプルな木製ベッドがぎしり、と小さく軋んでミオさんのぐったりした体を受け止めた。
「一回見られたから何度でも同じ、とまでは言いませんが、非常事態です。文句なら後で聞きますからね」
ジャケットとスカートを脱がし、ブラウスと下着だけの姿にして毛布をかける。たしかにスカートがほんのりと湿って雨の匂いを漂わせている。
「やっぱり雨に打たれたか」
「ねーねー松友さん? まだおやすみの時間じゃないよー?」
「星座占いによるとですね、今日のミオさんは早く寝るといいことがあるそうですよ」
「いいことってー?」
「明日のデザートがフ◯ーチェになります」
「ふるーちぇ、すき」
「そうフルー◯ェですよ。だから寝ましょう」
「ねるー」
もちろん口からでまかせだ。体調が悪い自覚がないのだから、こうとでも言うしかない。
俺、ミオさんの星座も誕生日も知らないし。
とりあえず◯ルーチェはあとで買ってこよう。
「メイクも落とさないとダメか? えっと、コットンで……?」
スマホで調べながらどうにかメイクを落としきる。完璧とは言いがたいが、もっと優先順位の高いことがある。
ぽーっとした顔で天井を見つめるミオさんの首筋には、汗の水滴がチラチラと光っている。
「これは拭かないとまずい量の汗だよな……」
台所でおしぼりを作って持ってきてはみたが、やはり少しは抵抗がある。
「とか言ってる場合じゃないか」
「んー?」
「はいミオさん、ばんざーい」
「ばんざーい」
ブラウスのボタンを外して脱がし、その下の……キャミソール? そうキャミソールを持ち上げると、いつぞやとは打って変わって黒いレースの下着が現れた。
「……そういうことか」
「どういうことー?」
「今日も、ミオさんはがんばってたんだなってことですよ」
「そうかなー?」
「そうなんです」
いつもはかかとの低いパンプスなのに、今日はハイヒールだった。それに詳しくない俺でも分かる気合の入った下着。
言ってはなんだが、ミオさんに俺の知らない彼氏やそれに近い相手がいるとは到底思えない。デートの備えということはないだろう。
だとすれば。
「今日、何か大事な仕事があったんですね。濡れた服を乾かす暇も惜しいくらいの、ミオさんに任された仕事が」
初めて会った日も、「家から資料をとれないと会社が潰れるかもしれない」と言っていた。たまに忘れそうになるけど、ミオさんはそういう立場の人なのだ。
「それで気合いいれて無茶して、終わったら気が抜けて風邪を引く。最後の詰めが甘いのはミオさんらしいですね」
「そんなことないもん……わたしちゃんとやるもん……」
「はいはい。ほら、体を拭きますからもう一回ばんざいしてください」
「むー」
熱のせいだろう、ほのかに桜色に火照ったミオさんの体を濡れたタオルで拭いていく。
こうして触れて分かるのは、その小ささと、このまま手折れてしまいそうな細さ。
こんな体で年上の切れ者たちと、なんなら女性が前に立ちにくい社会のシステムそのものとも戦っている。
それが、この早乙女ミオさんだ。
風邪ぐらいひかないほうがおかしい。少なくとも、俺はそう思う。
「存外、そういうことを考えている時って邪な感情は湧かなくなるもんなんですね」
――嘘である。
「ミオのお気に入りのセーターは縦シマだよー?」
「はは、なんでもないですよ」
もう一度言う。嘘である。
今、フルパワーで舌を噛んでいる。前歯で、もっと言えば門歯より犬歯で噛んでいる。
そうでもしてないとちょっと無理。ありていに言って無理。
「ははは、平常心平常心」
「あっ、ひぅ!」
「冷たかったですかー? そういう声を出さないでとは言えませんけどねー」
「だって」
「よしミオさん、アレです。いつものアレやりましょう」
「あれってー?」
この場で可能な、ミオさんからエロスを消し去る方法はただひとつ。
「あばばばば」
「あばばばば?」
「あばばばばー」
「あばばばばー!」
年上のお姉さんが、黒下着で頬を上気させながら、「あばばば」とゆらゆら鳴いて(?)いる。
「いや、うん、なんだろう。俺が妙な性癖に目覚めかねない。早く終わらそう」
深呼吸。深呼吸だ。
深呼吸をすれば人間は落ち着くことができる。吸ってー。
「ダメだ、なんかミオさんのいい匂いがする。ダンボールの匂いとか完全に消えてる」
おのれ、誰だ掃除した奴。
俺だ。
「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」
子供の頃に行っててよかった教会学校。
この前は「神なんぞ知るか」とか言ってすみませんでした。悔い改めるから今だけ助けて。
記憶の彼方から引っ張り出した『主の祈り』をちょうど三周したところで、ミオさんの汗はすっかり拭い取られた。
引用:新約聖書マタイによる福音書第6章9節~13節・同ルカによる福音書第11章2節~4節
週間ランキング総合8位まで来ました! ありがとうございます!





