次男クラウスの場合
実は一番問題児かもしれない次男編。
「僕、結婚するつもりないから」
早ければ十代で結婚することも珍しくない貴族の生まれにも関わらず二十歳をとうに過ぎているクラウスは、両親とつい近頃身を固めた後継の長男に向かって堂々と一生独身宣言を行った。
それに対して父親は「……好きにしろ」と言い、母親は「あらあら」と少しだけ困った顔をし、兄は何か言いたげな表情をしたもののクラウスの突飛な発言を黙殺した。
幼い頃から聡明で偏屈な性格を理解している家族は特に咎めることもせず容認したのだ。そういう環境もあってクラウスの自由人っぷりは加速していくのであるが、残念ながらそれを止めるものはいなかった。
……たった一人を除いては。
「クラウス様! 結婚なさらないとはどういうことですか!」
「おや、可愛いシンシアはご機嫌斜めだね」
「私の機嫌などはどうでもいいのです。今はクラウス様の話をしているのです!」
貴族に仕えているにしては主人に気安さの目立つ彼女はほぼクラウス専属と言ってもいいほど彼の世話を焼いているメイドのシンシアだ。
お互いが十代半ばの少年少女時代からの付き合いなので距離感が主従というよりも兄弟に近いものが彼らにはあった。
実年齢で言えばクラウスの方が二つ上であるが、実際は世話焼きの姉とされるがままの弟のような関係である。
「だって結婚なんて面倒じゃない。僕は人が嫌いだし好きなことは独り占めしたいタイプなんだ。誰かと共有するなんてまっぴらごめんだよ」
「しかし結婚は貴族の務めではないのですか」
「うちには僕の他に六人もきょうだいがいる。妹たちは皆いいところに嫁いだし、兄さんも可愛くて政治的にも利用価値のある素晴らしいお嫁さんをもらった。その上僕まで結婚してしまったら力がつきすぎてしまうだろう?」
クラウスはもっともらしい風体で言い訳を並べると、シンシアの大きな瞳を覗き込みながら言い聞かせるように言った。
「シンシア、何事もほどほどがいいんだよ」
シンシアは何も言い返せずに口ごもる。言いたいことがなかったわけではない。言いたいことが言えなかったのだ。……クラウスの顔があまりにも近かったから。
薄っすらと顔を赤らめたシンシアは「ん?」と笑いかけてくるクラウスのまったく持ち腐れしてしまっているその相貌を見つめて思った。
──なんで私はこんな人に、こんな不毛な恋をしてしまったのだろうと。
もともと母親がトリスター家のメイドであったシンシアは子供の頃から母の手伝いという名目でこの屋敷に出入りをしていた。そういうわけで他のきょうだいたちとももちろん面識がある。
母の見よう見まねで仕事の手伝いをしているうちに大きくなったシンシアは、そのままトリスターのメイドとして働くようになったのだが、そのときからクラウスの面倒を見ることが多かった。
人を選り好みする気質のクラウスはなかなかメイドに心を開かず世話を焼くどころかそばに近づくことすら良しとしなかったためだ。
その点シンシアは小さい頃から顔を見せていたからか、クラウスはわりあい言うことを聞き、身の回りに手を出すことを許していたのである。
クラウスは基本的に日がな一日、部屋で本を読んでばかりいる。それはどこかの高名な学者が記した学術書であったり、この国の歴史書であったり、はたまた有閑マダムの好みそうなゴシップ誌であったりと様々だ。
時折思い出したように庭を散策するくらいしか外には出ない。そんなクラウスを「カビが生える!」と数日に一回、遠乗りやら都やら街やらに送り出すのがシンシアの定例業務になっている。
食事なども放っておくと篭りっぱなしで不規則になるのでシンシアは声をかけたり、集中しているときはこっそりと差し入れをしたりと昼夜を分かたず、かいがいしく働いた。
そうやってそばにいるうちにシンシアは、クラウスの頭の良さだったり厭世家のくせに寂しがりだったり他人の揉め事で楽しそうにするところだったり、ふいに無邪気に笑うその姿だったりに、うっかり恋をしてしまったのだ。
その思いの四割ほどは「この人、私がいなくなったらどうなるんだろう」という類の不安感なども含まれてはいるのだけど。
シンシアとしてはそれも母性本能だとおおらかに解釈して納得している。
──だがしかし。相手は主人。しかも貴族であり、結婚しません宣言をしている人嫌い。色恋からもっとも離れていると言っても過言ではない相手。
シンシアには到底叶わぬ恋だと、認めざるを得ないものだった。
「馬鹿よね……私」
主を追い出した部屋で窓拭きの掃除をしていたシンシアはひとりごちた。
「そうね。馬鹿だわ、貴女」
「……え!?」
誰もいないはずの部屋で独り言に返事が返ってくる、なんてことはありえない。慌てて振り返ると金の巻き毛のゴージャスな美人が立っていた。
「ヴィヴィアン様! いつお戻りで?」
声の主はシンシアと同い年で既に嫁入りしているはずの、トリスター家次女ヴィヴィアンその人であった。
前々から里帰りをするとあったが、海沿いの遠い街に住んでいる彼女の正確な帰宅時間は直近になるまでわからない。そのため屋敷の隅にあるクラウスの部屋を掃除していたシンシアまで伝達されなかったようだ。
「さっきよ、今は兄様にもご挨拶しようと思ってわざわざ来たのだけど」
「すみません入れ違いのようで、このように今はご不在です」
気の強そうな見た目通り、勝気な性格のヴィヴィアンは長旅の疲れを出さず豪奢に笑ってシンシアを見る。メイドに先ぶれを頼むことなく本人がやってくるあたりこのきょうだいたちのフランクさが表れていた。
「いいわ、気にしないで。……貴女も相変わらずなのね」
「お陰様で……」
謙遜とも不遜とも取れるシンシアの発言にヴィヴィアンはにやりとすると揶揄うように表情を歪めた。
「兄様はあんな感じだからいっそ貴女から迫ってみたらいいじゃない」
「なっ、何を言って……!」
「だって。私としては兄様が結婚しようがしまいが構わないけど、シンシアにはちゃんと結婚して欲しいもの。その相手が兄様でいいなら私は歓迎するわよ」
「ヴィヴィー様、いくら私たちが仲の良い関係だとしても身分の差がありますから……」
「いっそ兄様が婿入りしたっていいと思うわ」
「ですから、そんなことをしたら旦那様に顔向けできなくなります」
「じゃあ、貴女は一生燻ったままの煮え切らない心を大事に大事に抱えて生きていくの?」
「そ、それは……」
「たぶん時間は解決してくれないわよ。そばにいるかぎりね」
ウィンクを決めながら言われた既婚者の台詞に返す言葉もないシンシアは苦し紛れの一言を述べる。
「……まさかヴィヴィー様に恋のレクチャーをされるとは思ってませんでした……」
「失礼ね、これでも結婚して変わったのよ」
確かにとシンシアは頷く。ヴィヴィアンは自他ともに認める美貌の持ち主である。そんな彼女にとってはその美貌が第一で、いかにそれを保持し高めていくかの方が重要だったため、年頃の少女たちの憧れる恋だの愛だのにはまるで興味がない様子だった。
しかしそんな彼女ももう人妻であり、恋も愛も知る一人前の女性だ。
「はい。前よりもお美しくなられました」
シンシアは不思議な感慨の篭った言葉をヴィヴィアンに贈った。結婚して彼女はさらに美しくなった。元から美人ではあったけど、内から溢れる自信のようなものがよりヴィヴィアンをキラキラとさせているようだとシンシアは分析する。
「女って愛された分だけ綺麗になれるみたい。お母様があのお歳でいまだあの美貌なのにも納得するわ」
ヴィヴィアンはしたり顔で目尻を緩ませると、美しさがもはや魔女の域に入りかけている母親を思い浮かべて笑った。
「……え、それって」
「だから貴女も愛される恋をしなくちゃ。せっかく綺麗な髪と目を持って生まれてきたのに勿体ないわ。若い身空を棒にふる気? まあもう既に少し捨てているけども」
「…………でも」
「……いいわ。気が変わったら私に教えて。マルク様にも頼んで良縁を探してあげるから」
ヴィヴィアンに言われたことはもっともであった。いくら平民は貴族よりも婚期が遅いとはいえ、シンシアはそれでも嫁ぎ遅れと言われる年齢である。現に友人たちはみな結婚し、子供も普通にいるくらいだ。
焦りがないわけでも、危機感がないわけでもない。
けど、クラウスのそばにいたいという思いの方が強かった。
相手とは一生結ばれないけれど、誰かに取られることもない。
ならばこのままメイドとしてずっとそばにいられたら。
それだけでいいと思うほど、シンシアはクラウスに思いを寄せていた。
「シンシア、お茶を淹れてくれるかい?」
のんびりと穏やかな日差しが降り注ぐ昼下がり。クラウスはいつも通り書斎で本を読みふけっていた。
本のタイトルは「本当にあったトリスター一族の話」というなんともリアクションに困るもの。
シンシアはさらりと見なかったことにしてメイドの仕事に集中した。そんなシンシアの態度を面白そうに眺めながらクラウスは口を開く。
「これはなかなか面白い本なんだよ。悪意……というか偏見がないわけじゃないけど書いてあることは概ね真実でね。そこを歪めずにかつ悪役の異名を壊さないように絶妙に改編してさ」
「それのどこが面白いのですか」
「トリスターは言わばこの国の必要悪なのさ。敵がいればそれと対峙するために纏まろうとする。悪の影が大きければ大きいほど団結力も上がる。その分、反乱の芽や不満も抑えやすい」
「この家の皆様は貧乏くじの役目を引いていると?」
「まあ、間違ってはいないけど元々綺麗なお家でもないしね。どちらかといえばあとからついてきたイメージも丸ごとまとめて利用してるってだけのことだよ。僕らは悪役の方が性に合ってるのさ」
「そうでしょうか? ここで働かせていただいているからこそ思いますが、トリスターの皆様はみんなとても良い方ばかりだと感じます」
「確かに距離が近ければよく見えることもあるよね。でもそれだけが真実ってわけでもなければ、それがすべての人に伝わるとも限らないのさ」
「そういうものなのですか」
「そういうものなんですね」
シンシアは釈然としないものを覚えながらも飲み込むことにした。頭のいいクラウスがそういうのならそうなのだろうと。
「ところでシンシア、君は今年でいくつになる?」
しんとした部屋の空気を変えるつもりで軽く聞いたクラウス。
「……クラウス様、申し訳ありませんがレディーに容易く年齢を聞くものではありませんわ」
「おっと、失礼。そうだった。女性は年齢を隠したがる生き物だということを忘れていた。で、いくつになった?」
忠告しても聞き入れるつもりはないらしい。仕方なくシンシアは濁した言い方で教えることにした。あからさまに拒否することは彼女にはできない。
「…………クラウス様の年齢から四つほど引いてくださいまし」
「ああ、なるほど、もういい年だね」
ノータイムの返答につい思わず握りこんだ拳をぶつけてやろうかと物騒な思いがこみ上げる。が、しかし相手は腐っても主人。手をあげるなんてもってのほか。モヤモヤとした気持ちを押しとどめようとしているシンシアにクラウスは追い打ちをかけるようなことを言った。
「君は結婚しないのかい?」
不思議そうな顔しているクラウスにお前が言うなと叫びたいのをこらえてシンシアは。
「あなた様が結婚なされたらわたしもいたします!」
と強がった。もちろんシンシアにそんな相手なんていない。それにまかり間違ってクラウスが結婚だなんてことになったら屋敷務めを続けることなんてできないだろう。
するとクラウスは少し考えるような仕草をしてから。
「じゃあ僕と結婚する?」
ふわふわと軽く、なんでもないことのように言った。ここまでなんとか耐えていたシンシアの堪忍袋の尾はついに切れた。
「結婚してまでも片思いをするなんてまっぴらごめんです!」
口から出た言葉にハッと気づくもすでに時すでに遅し。頭の回転だけは早いクラウスは彼女がひた隠しにしていた思いをあっさりと読み解き、本人の知るところとなった。
「……え? 君は僕が好きなのかい?」
頭はよくとも自分に向けられる感情に疎い男であった彼にとってはまさに青天の霹靂。
珍しく表情を崩しぽかんと口を開けたクラウスの様子にも気を向けられないシンシアは焦ってさらに口を滑らす。
「す、き……じゃなくもないです!! いや、やっぱりその逆、……だと言えたらどんなに良かったか……!」
「ということは僕が好きなんだよね?」
「ええ! ええ! そうでございますよ! わたしはあなたに恋慕して適齢期を逃した馬鹿な女です!! ここまで言えばご満足ですか!?」
かわいそうなほど動揺したシンシアはもうヤケクソだ。一転、そんな彼女を楽しそうに見つめるクラウスはいたずらな表情を隠しもしないで笑う。
「じゃあやっぱり結婚するしかないね」
「私の話聞いてました!?」
「ちゃんと一言一句聞き逃すことなく全部聞いていたよ。だから責任を取って君を娶ろうじゃないか」
「そんな台詞で女が喜ぶと思っていらっしゃるのですか!」
「さあ、どうだろう。僕は君が喜んでくれればそれで」
「ならば言わせてもらいますが、私は全然嬉しくないです。他にもっと言い方があるでしょうに!」
もはや若干の涙目になっているシンシアにクラウスは首をかしげる。
「他に? んー……あ、僕も君が好きだよ。こんな僕の面倒を見られるのは君しかいない。長年一緒にいた君以外にはね。それに君は貴族じゃないから王家とかからまた力をつけるのかって目をつけられることもないし、相性は保証されているものね! あれ? そう考えれば考えるほど僕の相手は君以外に考えられないな」
──だから結婚しようか。
今まで我慢していたシンシアの右手が勢いよく振り抜かれたのは、もう致し方なかったと言えるのではないだろうかと、後になって振り返る。
シンシアは確かに夢見る乙女というような歳でも性格でもなかったけれど、せっかくのプロポーズくらいロマンチックなものを望んでも罰は当たらないだろうと思った。
***
小さなチャペルで軽やかな鐘の音が響く。集まった人たちは会場に見合うほどの人数で、体面を気にする貴族の結婚とは思えないほど小規模なものだった。
しかしそんな体面を気にしているのは貴族ではない当事者の花嫁だけである。
「ヴィヴィアン様! かのトリスター家がこんな質素な婚姻ありえませんよ! だいたい何故わたしがこんな、こんな……!」
「あら、シンシアはもっと豪勢な式が良かったの? だったら今からでもお父様に……」
「ひいっ、……いいえ! そういうことではなくて、もっと根本的にですね、」
「もう諦めなさいな。それとも本当に嫌なの?」
だったら考えがあるのだけど。と、シンシアの答えがわかっていながら意地悪な質問をするヴィヴィアン。
シンシアはパッと顔を赤らめると口ごもった。嫌なわけがなかった。だってもうずっと好きだった人と夢にまで見た景色がすぐそこまで迫っているのだから。
かといって、それをすっと飲み込めるほど大人にもなれなかった。いやむしろ憧れすぎてもうすっかり諦めていたのだ。だからまさかそれが現実になって、はいそうですか、と簡単に受け入れるのは彼女にとって非常に難しかった。
「それは悲しいなあ……」
「……クラウス兄様、レディーの部屋にはノックが必須でしてよ」
「ごめんね、僕の花嫁がどうなっているか気になって」
「…………」
「シンシア? どうしたんだい?」
突然現れたクラウスにシンシアは口をパクパクさせて固まる。そんなシンシアを心配そうに見つめるクラウスはすっかり一人の男だった。普段はほとんど冷めた色の瞳は甘やかな熱を帯びている。
「彼女もいろいろ思うところがあるのよ、きっとね」
何も答えられなさそうなシンシアを見てヴィヴィアンがフォローした。
「僕はね、あまり人の気持ちに興味がないんだ。夜会のあれこれも雑誌の中のゴシップも水槽越しに見ている光景と変わらない。
でもね、君のことは冷たいガラス越しなんかじゃなくてずっとそばで見ていたいと思うんだよ。形なんてどうだっていい。もし婚姻が嫌ならいつだってやめてもいい。
──ただし君が隣にいないと嫌だけど」
クラウスはそっと、部屋に飾られていたジャスミンの花を一輪、手折ってシンシアの耳に挿した。
花の香りがふわりと漂ってシンシアの気持ちを少し落ち着けさせる。
「クラウス様……」
「どうかな?」
「あの……」
「なに?」
「……わたしでよろしいのでしょうか」
「むしろ君以外は嫌だよ。君だから僕は結婚しようと思ったんだ」
シンシアはそれを聞き、もう言い募ることなどできなかった。それ以上の言葉など望むべくもなかった。
「クラウス様」
「なんだい」
「わたしが責任を持ってお幸せにいたします!」
「……うん。よろしくね」
退出するタイミングを逃してしまったヴィヴィアンはシンシアの言葉に「それって逆なんじゃ……」と思ったが懸命にも口にすることはなかった。それよりも甘い空気に当てられて自分も早く最愛の人に会いたいと思った。
雲のない青空の下、白い鳩が羽ばたき、一組の幸せな夫婦が生まれたのだった。
一生独身宣言(仮) おしまい
これにて完結となります!プロローグがあったのでエピローグ付けてもいいかなと思ったのですが、特に何も浮かばなかったのでおしまいです。
トリスターシリーズをここまでお読み下さりほんとうにありがとうございました!
またどこかの作品でお会い出来ると嬉しいです。