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長男スタンレイの場合

まずは長男編です。よろしくお願いします。

一番話が長い。

 

 トリスター家嫡男、スタンレイ・トリスターは焦っていた。父に似た強面の奥で誰にも悟られないまま、彼は焦っていた。

 何にかといえば。


「……結婚したい」


 そう。適齢期をとっくに迎えている彼は結婚したくて焦っているのだった。跡継ぎとなれば婚姻は必須、けれど彼には不思議なことに婚約者の類がいない。それはスタンレイが原因でありその父であるアルベルトが原因でもあった。


『欲しいものは自らの手で勝ち取れ』


 十八になったばかりのころ、スタンレイはアルベルトにそう言い渡された。そこには己の伴侶もまた含まれていて、つまり自分の嫁は自分で見つけろという意味だった。

 スタンレイは現在父の言葉通り、自らの力だけで王宮でのし上がり今では宰相補佐になり国のために働いている。いずれは父を超えてトリスターの当主になるべく日夜励んでいるのだ。だが彼はそのことにばかりのめり込み己の伴侶のことなどすっかり忘れていた。妹が三人嫁いでようやく、我が身を振り返り自分の結婚について考えるに至ったというなんとも間の抜けた話である。



「何故こんなにも婦女子がたに距離を取られねばならないのか……」


 兎にも角にも結婚したいと思ったスタンレイは、その相手を探すために紳士淑女の社交場──夜会へとやってきた。なのに彼を遠巻きに見る彼女らの目には完全に怯えが浮かんでおり、一部の男までもがスタンレイの顔を見ないように目を逸らして怯えている。

 どうしてかなんて知りたくもないが、どう考えてもスタンレイはこの夜会で浮いていることだけは彼にもよくわかった。


「兄さま、皆様にだいぶ嫌われているようですね。さすがトリスターと言ったところかしら」

「……妹よ、それは嫌みか?」

「いいえ哀れみよ」


 この口さがないのはトリスター家の一番下の娘ジュゼット。スタンレイと歳の近い妹たちは皆嫁いでしまったので先日社交デビューをしたばかりのジュゼットにパートナーとして付いてきてもらっていた。このジュゼットさえすでに恋しい男がいる。それなのに跡目の長男にいないというのは……とスタンレイはこの場で膝をつきたい思いに駆られた。


「兄さま今何を考えているの? 眉間の皺がさらに深くなったわ。そんなに周囲を威圧しなくてもトリスターの威光はなくならないのに」


 そう言うわけじゃないのだが、と表面は変わらないまま静かに落ち込むスタンレイ。一方ジュゼットは「兄さまってホント面白い……ふふっ」と笑っていたとかいないとか。

 とにかく近づこうと彼が一歩動けば、人垣が割れるだけという虚しい行為を何回か繰り返し、さすがに心折れたスタンレイは肩を落として一足先に会場を後にした。

 どうしようもない行いに付き合わせてしまった妹に申し訳なくて帰りの道で謝れば、ジュゼットは気にした風もなく「とても面白いものが見れましたわ」と笑った。スタンレイにはその意味がよくわからなかったが、何が面白かったのかは懸命にも尋ねなかった。聞けば兄の威厳に関わりそうだとか思ったわけじゃない。

 夜会で浮いている、もしくは引かれていることは重々承知したスタンレイだが諦めることは決してなかった。結婚しなくてはいけないからというのも多分にあったが、彼には結婚に対して強い憧れと理想があったからだ。


 トリスター家現当主アルベルトとその妻ミレイラ──つまり彼の父と母だが、この二人は内外問わずあまり知られていないけれど貴族にしては珍しく恋愛結婚だった。

 密やかにしかし明確に悪魔と恐れられるアルベルトと、美しさと聡明さで社交界を賑わせたミレイラはいっそ笑えるほど釣り合いが取れていない。そのため、誰も彼もその婚姻を政略としか思っていない。……知られていないのではなく、誰にも信じられていないというのが正確か。

 そこはトリスターの男がすることである。確かに政略的な意味合いもなかったわけではない。しかし父親が本当に手に入れたかったのは《ミレイラの生家との繋がり》ではなく《ミレイラ自身》だったのだと。まだ幼かったスタンレイに母自らが頬を綻ばせてひっそりと教えたのだ。父アルベルトが恥ずかしがるから二人だけの秘密よ、と言って。

 能面強面無愛想の父親が恥ずかしがるだなんて成長した今でも想像できないが、そう笑った母は幼いスタンレイにはなにか思い出しているように見えた。

 ささやかな秘密を知ってから見る両親は、もう噂通りには思えなかった。そもそも物凄くわかりにくいアルベルトと違って幸せそうな表情を隠そうとしないミレイラが、世間で言われる“攫われ姫”にはどうしたって見えなかったのだ。本当に攫われてきたというなら母親にもっと悲壮感のひとつやふたつあってもおかしくないのにそれがまったく感じられないのだから。

 いつもニコニコと笑い穏やかな母と、ベタベタはせずとも必ず母親の一番側にいる父親が相思相愛なのはすぐに理解できた。

 秘密を告げられたスタンレイはともかく、察しのいいすぐ下の弟クラウスと妹リュドネはそんな両親のことを理解していたようだった。その下の妹たちと弟はわかっていないかもしれない。何せ身内になった母方の親戚たちですらまだ二人が仲睦まじいことを信じられていないのだ。

 そんな両親を見て育ったスタンレイは、自分もいつかは彼らのようにお互いを尊重し、お互いを愛し愛される結婚をしたい……という理想を持つようになる。

 だが現実は貴族の大半が心の伴わない政略結婚で、彼の妹たちもそうやって結婚していった。過去トリスターの家人たちも、両親を除けばほとんどが家の栄誉と繁栄のための婚姻を結び、さらに策謀を巡らせ、時には非情な決断を下し、邪魔なものを排除する事も厭わない冷血さと遍く野心でここまで成功してきている現実。

 ──そのトリスターの跡取りたる自分が、自分のための(恋愛)結婚がしたいだなんて、どうして言えただろうか。……そうは思えども、諦められないでいた。

 政略的に相応しく見目麗しい、そのうえ愛し愛される相手を見つけるというのは頭で考えるよりも遥かに難しい。けれど、運命の相手ならばこの望みの全てが叶うのではないかと考える。


 そう、スタンレイは昔からどこか夢見がちなところがあった。


 幼い頃から父に似、なかなか表情が出ない彼は可愛げのない子供だと言われてきた。二個下のクラウスは母に似て穏やかな風貌で笑顔が絶えない事もあり、親以外の親族からは比べられてるように育った。『クラウスはいつも笑顔で可愛らしいのに、スタンレイときたらなんて愛想のない子なの』と。確かにそれは事実であったが、実情は違う。

 子供らしく王子と姫のお伽噺や勇敢な少年の冒険譚に憧れるのはいつも顔に出ないだけのスタンレイで、同じように読んでいたクラウスは二歳にしてハッピーエンドの物語を鼻で笑い飛ばしていた。

 クラウス曰く「こんな型の決まった物語(テンプレート)よりも辞書や図鑑の方がよっぽど楽しい」だなんて宣っていたほどだ。

 どちらが可愛げのある子供なのかとスタンレイは大声で問いたかった。幼少の頃よりクラウスは盛大な猫かぶりだったのだ。しかし人間、大抵は見た目で判断される。誠に遺憾ながら。

 そうして育ったスタンレイだったが、どんなに背が伸びようと、どんなに父に似た悪魔顔になろうと、心に持ったロマンを忘れなかった。夢見がちな部分を捨てないままここまできたのだ。野心とロマンは彼の中で表裏一体となっていた。



 妹を何度も何度も不毛な行為に付き合わせるのは申し訳なくなったスタンレイはこの日一人で夜会に参加していた。

 案の定、今日も彼の結婚相手探しは氷塊を割るだけの作業になり果てていた。王宮で知り合った何人かと歓談はしたけれど、すべて男性である。目的はそういう情報収集ではないため早々に切り上げ自分と踊ってくれそうな女性を探す。幾度も目をそらされるたびに自信を失いそうになりながら、下を向くことだけはしないと心に決めて。

 見た目のハードルを除けば、またはトリスターの名を除けば、もしくはその両方を除けば。スタンレイという男は優良物件であったはずなのだ。

 常に冷静で判断力決断力を兼ね備え、こなす仕事に間違いはなく、そのうえ地盤の確かな貴族の嫡男である。眼光は鋭すぎるがけっして醜男ではなく背が高く程よく鍛えられた体躯を持つ偉丈夫。しかしそのプラス要素だけでは残念ながら彼の顔面とその背後にあるものをカバーすることは出来ないらしい。


「今日もダメか……」


 陸の孤島になっている周囲を見渡してスタンレイはため息をついた。そんなさりげない仕草にも周りは一瞬ざわつく。すると必然的に次のため息は喉奥にしまわれた。ワインで唇を湿らすと、“今度は血でも飲んでると言われるのだろうか”なんて考えが彼の脳裏をよぎった。これでは息をすることすらためらいそうな勢いだ。

 再び周囲がざわついてスタンレイは思考の海から帰る。また自分が何か噂されているのかと思ったが、周囲は彼を見ていない。違う一点に集中している。喧騒の雰囲気も自分に向けられるものと違いどちらといえば好意的なものであるようだった。

 自然と興味をそそられて、スタンレイも同じ方を見やる。なんとも軽い気持ちだった。……それが始まりとも知らずに。


 視線の中心にいたのは一組の男女であった。二人は同じ赤い髪をしていておそらく兄妹であることが見て取れた。男の方はスタンレイよりもいくつか年下だろうか、まだどことなく幼さの見える顔つきだった。身長はスタンレイの肩ほどぐらいで、向かい合った女性はさらに小さい。スタンレイは己の末の妹よりも小さそうな女性をこのとき初めて見た。ジュゼットでさえ胸の位置に頭が来るのに赤毛の女性は鳩尾に届くかどうかという身長だった。


 ──まるで妖精じゃないか。


 スタンレイのロマンチック思考はそんな答えを弾き出していた。きっとこの場に弟のクラウスがいたならば、一瞬で目をときめかせているいい歳の兄を引いた目で見ていたことだろう。だが、幸か不幸かその弟はここにはいない。スタンレイは誰に邪魔されることなく、心ごと脳内のお花畑に飛んでいた。

 淡い黄色のドレスを身にまとったまだ年若い女性はたっぷりとした赤毛を垂らしてリボンを巻き込んだかわいらしい髪型をしている。零れ落ちそうなほど大きい緑の瞳と遠目から見てもわかる長い睫毛。人為的に作られたと言われても違和感がないほど可憐に整った容貌。あの華奢な背にカゲロウのような薄羽がついていないことがスタンレイにはいっそおかしく思えた。


「いつ見ても素晴らしいな……」

「彼女があの“人形姫”、か?」

「ああ、バウアー家の秘蔵の姫君だ。去年デビューしてから社交界の話題を瞬く間に掻っ攫っていった例の。あの容姿に加え生家は東の都と名高いバウアー領を治める大貴族だからな。今じゃどこの男も目の色変えて狙ってるって噂だ」

「でもまだ兄君と踊っているということは……」

「そうなんだ。どうやらまだ彼女を得られる幸運の王子様は見つかっていないらしい。彼女を囲うのはさぞ堅牢な壁なんだろうさ」


 “妖精”に見惚れていたスタンレイの耳にも周りの雑音がようやく声として聞こえてくる。その内容はどうやら観衆の目を釘付けにしているあの二人のことのようだった。

 スタンレイはあの二人、特に娘の方が社交界で話題になっていることは全く知らなかったが、バウアーという名には聞き覚えがあった。

 国の東にあるその領は小さな各領地をまとめるような立ち位置にあり、独自の文化や流行のルーツを作り出しているという交易都市。そこで広まった様々なものは王都に持ち込まれ、王都流にアレンジされたものが、再び東側で流行るなど商業的に栄えた土地であった。

 バウアー領は王都よりそこそこ離れた場所にあるため東の田舎者と陰口を叩くものもいたが、その発展具合には目を見張るものがありスタンレイの父アルベルトも関心を払っていたのだ。アルベルトが目をつけるということは、それだけかの地に益があるということで。


 ──これは、運命に違いない……!


 もともと出来の良い頭に刷り込まれたトリスターの男としての本能。あくなき野心に基づく領地安寧への執着。それらに自らのシコウ(・・・)を混ぜ込んで浮かび上がった答え。スタンレイの脳内は最高速で回転し弾き出された解答に快哉の声を上げた。

 スタンレイはこれまでトリスターとしての野心よりも己の立身出世にばかり構ってきていた。その理由は現在のトリスターがある一定の地位まで上り詰めているためだ。ここを越えるとなれば後は立国、国からの独立しかないのではと言われている。だがスタンレイはともかく、現当主であるアルベルトも国を建てる意志は特になかった。

 しかも国を建てられうると思うにはまだ力が足りていない上に、選択次第では領地を戦火に晒すことにもなる。それは最も望まざるもの。なので今は追い落そうとする他の貴族の手を払うだけの『追われるもの』の立場に落ち着いているのだった。

 とはいえ手を払うのも楽なことではない。王家との繋がり深い由緒正しいヴァイス家など建国以来の貴族と比べれば、トリスターの歴史は浅く未だに新興貴族と揶揄されることさえある。もっと地位を磐石にするためにさらなる力を得ても何の障りもなかった。


 などど小難しく考えているスタンレイの心にあった思いはただひとつ。


 ──彼女が欲しい。


 スタンレイ、遅咲きの初恋である。





 ***




 人々のざわめきと管弦楽団が奏でる不協和音を背にフェリシテは今日も兄のセルジュと踊る。


「兄様、退屈だわ」


 くるくると回りながらフェリシテは薔薇色の唇から嘆息をついた。


「ダメだよそんなことを言っては」


 セルジュは華麗にエスコートしながら妹の態度を窘めた。


「だって。私はいつまでこんな見世物のように踊り続けなければいけないの?」

「大物が釣れるまでさ。わかっているだろう」

「私はピエロではなく釣り餌だったのね」

「そういう意味で言ったわけじゃないよ」

「でもそういうことでしょう?」

「僕のかわいいお姫様をくれてやるんだ。一番いい相手と結婚させてやりたいという兄心も理解しておくれ」

「わかってるわ。お・に・い・さ・ま」

「はあ。やれやれ……」


 拗ねてしまった様子のフェリシテにセルジュは思わず瞼を閉じる。かわいい、それこそ箱にしまって閉じ込めておきたいほど可愛がっている妹を嫁になんて出したくはなかったが、このまま嫁ぎ遅れにしてしまうわけにもいかないのだ。父と相談して渋々こういう場に連れてきている兄の思いを、フェリシテとてわかってはいたけれどそのやり方には納得できていなかった。


「……私だって誰でもいいわけじゃないのに」


 至近距離の兄にも聞こえない声でフェリシテは呟く。……自分の願いが叶うことは、まずないのだとしても。

 つい、と視線を上げた先でフェリシテは何か異様な雰囲気の空間を見つけた。そこでは一人の男性を中心に不自然なまでにくっきりと境界線が生まれていて、彼女は首を傾げた。


「ねえ。兄様、あれは……なに?」

「え? どれだ、い……」


 言うや否やセルジュは妹の手をぐいんと引っ張った。突然のことにフェリシテは足をもたつかせそうになったが、すかさず入ったセルジュのフォローで醜態をさらすことは避けられる。


「急に何するの。あやうく転びかけたわ」

「いやごめん。でももうアレ(・・)を見てはいけないよ」

「アレって……そんな言い方」

「お前はまだ見たことがなかったんだな。……アレは、あのトリスターの者だ」


 もしも両手が自由であったらフェリシテはその口を手で塞いでいただろう。なんとか目を見開く程度で抑えた驚きを出さないよう、よくよく気をつけて声を漏らした。


「あの方が……かのトリスターの」

「ああ。あれはしかも嫡男のスタンレイだ。どうやら最近になって夜会に出没しては婚約相手を探しているらしいという噂は本当だったのか……しまったな」

「だからあのように妙な空間ができているのね」

「どこの家も思うことは一緒ってことだ。あそこに目をつけられたらどんな目に合うことか、考えたくもない。皆できれば避けて通りたいのさ。あれで上位貴族だから下手に逆らうこともできないしな」


 箱入り娘のフェリシテだが、そんな彼女とて何度も何度も聞かされた言い付けがあった。

『トリスターに近づいてはならぬ』

 父も母も兄もそれは口をすっぱくして言い聞かせられたそれ。曰くかの一族は人を食って生きている──比喩的な意味ではなく──だとか。曰く逆らったものは一族郎党皆殺し、だとか。そんな血腥(ちなまぐさ)い噂ばかりがある黒の貴族。


 ──思ったより、普通だったわね。


 フェリシテのなかではもう見た目から怪物か化け物のような姿を想像していたが、実際に見たトリスターの人間は、当たり前だがちゃんと人の形をしていた。それもわりと美形に入る部類の。


「……ん? どうしたフェリシテ。顔が赤くなってないか」

「えっ、ほんと? ど、どうしたのかしら」

「具合が悪いのなら今日は早めに帰るか?」

「そ、そうね、そうしましょう!」


 なんだかわたわたとしているフェリシテに首を傾げたセルジュだが、例の一族がいる夜会なら早いところ抜けてしまいたかったのでこれ幸いと退出の挨拶もそこそこに会場を去った。




「どういうことだ!!」


 先日の夜会から領地に帰り数日後、セルジュはある手紙を読んで高らかに吠えた。先に読んでいた父親は頭を抱えてうずくまっている。


「どうなさったの兄様」


 兄の叫ぶ声を聞いてフェリシテは様子を伺いに来た。いつも穏やかなセルジュがあんなに怒鳴るなんてきっととんでもないことが起きたのだろうとは思っていたが。


「おおお落ち着いて、き、聞いてくれ……」

「兄様こそ落ち着いて。私なら大丈夫だから」

「大丈夫じゃないんだよ!!」

「兄様、耳元で叫ばないで」

「あ、ああ……すまない」

「それで何があったのですか。またどこかからの無茶振りで?」


 発展目覚ましいバウアー領は内外問わず難しい要求をされることも多い。フェリシテは今回もそのひとつなのかと問うた。


「ああ、ああ、とんでもないやつだ。今までにないとびっきり無茶苦茶な……!」

「もう! すごいのはわかったから早く教えて!」


 顔を青ざめてばかりで一向に本題に入ろうとしない兄を一喝するフェリシテ。そのショックでさらに顔を青くするセルジュだったが、妹の願いを無碍にもできない。けれど言いたくない。少々まごついて、妹の一歩も引く様子のない瞳に負けて兄は口を滑らせた。


悪魔の息子(スタンレイ・トリスター)からの、婚姻申し入れだ……!」






 生まれ育ったバウアー領を離れフェリシテは嫁入り先のトリスター領を目指していた。整備されているとはいえ山を越える道のりは簡単なものではないが、ここを越えてしまえばもうすぐそこに目的地が現れるだろう。砂利や小石を踏み進む馬車の旅も、そろそろ終わりだ。

 フェリシテの兄や父が必死に築いた堅牢なはずの壁は、トリスターという翼を持つ悪魔にあっさりと越えられてしまった。壁などいくら高かろうと羽があるものにはなんの障害にもならなかったのだ。

 婚姻するにあたってトリスターからは豊富な資金と人材を、バウアーからは開発した物を優先的にトリスターへ開示、流通させることなどの盟約が交わされる。

 ──かくして人形姫と謳われたフェリシテ姫は、泣く泣く悪魔の棲家に嫁がされる事と相成った。……なんて語る吟遊詩人が現れたとしても不思議ではなかった。

 嘆いたのは本人よりも家族、そして彼女を狙っていた独身の男たちである。

 当人は『本物の化け物ならいざしらず、相手は人間だったしそれなら私は構わないわ。第一我が家に拒否権などあって? 無様に抵抗して悪感情を抱かれることの方が問題ではないの』と毅然とした態度で己の婚姻を受け入れた。妹のあまりの潔さっぷりにセルジュは頼もしくも、涙が溢れそうになったのは彼の一生の秘密だ。


「スタンレイ様はいったいどんな方なのかしら」


 その存在を初めて知った夜会からこの婚姻に至るまで紙面のやりとりしかしていないため、フェリシテはスタンレイのことを直接的には知らなかった。兄たちは騎馬で何度かかの領地に赴き話をしているのだが、女のフェリシテに同じことはできず馬車で行くのもギリギリまで止められてしまっていた。結局フェリシテが知っているのは、几帳面な字と噂話程度のことと兄が話す偏見に満ちた印象操作(わるぐち)ばかりであまりあてにはならなかった。


「ああも恐ろしい恐ろしいと言われると、いっそどのくらい恐ろしいのか気になってしまうわね」

「フェリシテ様、そんなお戯れを……あまり滅多なことはおっしゃらないでください。これから何があるのかわからないのですから」


 フェリシテはなかなかの強心臓ぶりで、むしろ楽しみに思い始めていた。一緒に乗っていた側付きの侍女はフェリシテの発言に狼狽える。


「あなたも怖い? かのトリスターは」

「ええ! それはもちろん!」


 力強い肯定されフェリシテは唯一この目で見たスタンレイの姿を思い返した。

 ──あの方、目付きは鋭かったけれど、とても澄んだ色の瞳をしていたわ……。あれを見る限り恐い方だとも思えない。でも、あの上背で見下ろされれば確かに少し恐いかもしれないわね。

 そんなふうにフェリシテがぼんやりと考えていると、馬車がゆっくりとその動きを止める。


「どうやら着いたみたいね」


 初めて見る世界に少しの緊張とワクワクを抱きながらフェリシテは馬車の扉が開くのを待った。

 出迎えたのは黒髪、黒目、黒尽くめの長身男性。夜会で見たあの男。フェリシテは、──本当に自分はこの人に嫁ぐのだ。とようやくここにきて実感し、姿勢を正す。


「ええと、本日はお日柄もよく……この度、無事に着かれましたこと大変喜ばしく思います。長旅でしたからお疲れではないですか」


 悪魔の挨拶は思ったよりも人間的でぎこちないなとこっそり思う。


「お気遣い痛み入ります。そうですね、こんなに長いこと馬車に乗ったことはなかったので楽しかったですが少し疲れましたわ」

「それはいけない。お手を。……私でよければ」

「もちろんです、“わたくしの旦那様”」






 こうして始まった二人の新婚生活だったが、夫婦というよりは同僚、家族というよりは同居人という有り様だった。

 スタンレイは打てば響く聡明なフェリシテに、見た目だけではなくますます魅了されていったが、どこまでも淡々としている彼女にどう近づけばいいのか考えあぐねていた。

 彼の愛読書である経済本の中にも、幼い頃から読み返している憧れの絵本にも、生身の女性と距離を縮める方法は載っていなかった。金を稼ぐ方法やそれの有用な運用法を学んでも意味がない。絵本のように二人を引き裂き、そしてくっつける悪役もいない。むしろ世間ではスタンレイが悪者扱いだ。下手したら颯爽と姫を救う王子が現れてしまうかもしれない。

 困り果てたスタンレイは身近な女性に聞いてみることにした。多少情けなく思えたが弟には絶対にこんなこと聞きたくないし笑われるのが目に見える。いい歳して母に尋ねるのもどうかと思った。


「…………と、いうわけなんだがジュゼット。彼女に近づくいい方法はないか?」

「兄さま……うんと年下の私に聞くのも情けないのではなくて?」

「……言うな。自分でどうにかできるならとっくにしている」

「そうおっしゃるからには何かはしてみたのね」

「まあ、一応」


 スタンレイとて大の男である。女性を好きになったのは初めてのことだったが、人との付き合いまでわからないわけじゃない。思いつくままに色々試してはみたのだ。


「例えば?」

「執務を手伝ってもらってるときにな」

「はいはい」

「俺が茶を淹れて苦労をねぎらった」

「……ええ、ええ。他には?」

「この間、デートをした」

「まあ、それはいいじゃない。いったいどちらへ?」

「領の南東だ」

「…………それって」

「ああ。バウアー領をモデルとした開発地域への視察だ」

「……そんなのはデートとは言わないわ! 仕事よ!」

「でも、彼女はバウアーの人間だから一番領地のことを知っている。だから一度見て欲しかったんだ。バウアーから提供されたものも多くあって、ちょっとでも故郷を感じてもらえればと思っただけなんだが」

「兄さまの気持ちはわかるけど、お義姉さまに里心がついたらどうするの!? これで里帰りでもされてしまったら目も当てられないわ!」

「……ハッ、その可能性は考えていなかった」


 ジュゼットは「兄さまは馬鹿なの!?」と言いたいのを噛み締めて堪えた。この兄は女性の扱いは知らないけれど、これでもトリスターの名に恥じない跡取りだということをかろうじて思い出したからだ。一流の貴族男性であることは変わらぬ事実である。


「……そもそも。兄さまはお伝えしたの?」

「何がだ」

「さっきの説明でお義姉さまを好いていることはよくよく理解したけれど。そのことをお義姉さまに伝えてみたかと聞いているの」

「え? そんなの当然だろう」

「そうよね。さすがの朴念仁兄さまだってそのくらい……」


 嫌な予感に思わず尋ねたジュゼットだったが兄の返答にほっと胸を撫で下ろそうとして、


「────ない」


 息を思い切り吸い込んだ。部屋の時間が止まる。ジュゼットの口から漏れでるように音を伴った空気が出た。


「……………………は?」


 実の兄ながら何を考えているのかとジュゼットは真剣に心配になった。


「あの、一度も?」

「ない」

「お式の日も? しょ、初夜の日も?」

「ない」

「ではどうして兄さまがお義姉さまを選んだかも……」

「言っていないが。それがどうした?」

「……………………」


 今ならば許されると思ったとジュゼットはのちに語る。

 彼女は渾身の力を込めて親愛なる長兄を、怒鳴り飛ばした。


「兄さまの大馬鹿ものーー!!!」






 ジュゼットの叫びが広い屋敷を軽く揺らした頃、別の部屋で本を読んでいたフェリシテはため息とともに物憂げな顔を上げた。


「……なにかしら」


 響いた音に何かと言いながらもあまり興味がなさそうである。それよりもフェリシテには頭を悩ませることがあった。

 ほうぼうの夜会で顔を見せ、より条件の良い男の元へ嫁ごうとしていたフェリシテを娶ったのは家族一同、誰も予想していなかった人物だった。

 悪名高きトリスター家の嫡男、スタンレイ・トリスター。今回の婚姻を機に間もなく後を継ぐ予定であるその男がフェリシテの夫、新しい家族。

 こちらに着いて早々に式を行い、それからはずっとスタンレイのちょっとした仕事の手伝いをしたり意見を出したり書類の整理をしたりしてきた。

 フェリシテは人形のような、カップよりも重いものなど持ったことのなさそうな容姿をしているが、彼女は花を愛でたり刺繍をしたりするよりも兄とチェスをしたり父親の執務室に入り込んで手伝いをしたりすることのほうが好きな娘だった。

 だから現状の扱いに不満があるわけではない。むしろ生家にいたときよりも関われる仕事が多く、充実しているほどだ。


 それはそれでよいのだが、ふと「……本当にこれでいいのか?」という疑問が浮かんだ。


 これでは自分は嫁に来たというよりも、事業の共同従事者に選ばれただけではないのか? 一度気づくと、そうとしか思えなくなってくる。

 フェリシテは最近の夫婦の会話を思い出してみた。が、出てくるのは開発地区に関する業務的な話だとか、書類の分類法とか、細かい数字の話だとかばかりで、私的な話はこれっぽっちもない。

 唯一思い当たったのはスタンレイにお茶を淹れてもらったお返しにフェリシテがお茶を用意したときに聞いた、スタンレイは甘めで香りが少ない紅茶が好きという情報くらい。

 嫁に来てからそれなりに時間が経っているのにこのくらいしか思い浮かばないのだ。こんなのが夫婦と言えるのだろうか。フェリシテは再び薔薇色の唇にため息を乗せた。


「もっと、お近づきになるにはどうしたらいいのか……」


 でも、と思う。


「本当の私を知ったら嫌われてしまうかもしれない」


 昔から愛らしかったフェリシテは蝶よ花よと育てられてきたため一般的に女の子が好む花や人形、アクセサリーにドレスなどそういうものに恵まれていた。しかし彼女が好きなったのは花よりも剣、人形よりも乗馬だった。身近に兄がいたこともあって影響を受けてもいたが、フェリシテの本質は見た目とは正反対なものだったのだ。

 誰よりも可愛らしい姿を持ちながら、その心にあるのは男らしい闊達さ。

 それらを自覚していたフェリシテは、おそらく外見で選ばれただろう自分の、ギャップある本心を見せることに怯えていた。今は分厚い猫を被って、わかる話を惚けてみたり知らないふりをして、精一杯普通のご令嬢を演じているつもりだった。……第三者からすれば普通のご令嬢と言うにはフェリシテはいささか賢すぎるのだが、当人たちは全く気付いていない。


「……恋は落ちた方が負けとはよく言ったものね。私、自分にこんな女々しい部分があったなんて知らなかったわ」


 頬杖をついて気怠げな様子のフェリシテは、まるで絵画に切り取られたワンシーンのように見物となる。あいにくとそれを見られたのは彼女の侍女だけだが。


「少しでも気が晴れるようミントのハーブティーをお淹れしますね」


 賢明な侍女は主人の独り言には触れないように一言だけを述べた。まさか自分の主人が、花の如く可憐な姫が、あの怖い顔の悪魔の子息に恋い焦がれ始めているだなんて。とてもじゃないが主家に報告などできない。彼女は聞かなかったことにするしかなかった。

 侍女がお茶を淹れるために部屋を離れて少しすると、フェリシテの部屋がノックされた。侍女がいないため側付きのメイドが代わりに取り次ぐ。


「若奥様、若旦那様がお会いしたいとお越しになっていますがいかが致しますか」

「スタンレイ様が? もちろんお会いするわ。どんなご用事か仰っていて?」

「いいえ、そこまでは」

「わかったわ。お通しして差し上げて」

「はい。失礼します」


 いくらもしないうちに、スタンレイは現れた。この一族に多い黒髪黒目はフェリシテにとっては見慣れないもので、ついまじまじと見てしまう。


「……あの、フェリシテ、嬢」


 見られていることに困惑した様子でスタンレイはフェリシテに声をかける。フェリシテはその距離のある呼び方にツキンと胸が痛む気がした。──もう自分は妻だというのに。


「不躾に見つめてしまって申し訳ありませんわ。スタンレイ様、お話でしたらそちらにお座りになってください」

「いや、すぐ済む」

「……? お仕事のことではないのですか」

「ああ」


 どこか落ち着きのないスタンレイにフェリシテは首を傾げた。仕事のことではないのなら、なんの用事か見当もつかない。


「……スタンレイ様?」


 黙ってしまったスタンレイ。沈黙が気まずくてフェリシテは伺うように声をかけた。するとスタンレイは意を決した顔で、後手に持っていた何かをフェリシテに勢いよく差し出す。


「──フェリシテ! 俺は君が好きだ!」


 かぐわしい薔薇の花束と共に、唐突に告げられた愛の言葉。フェリシテは、驚き目を白黒させる。


「君を初めてみたとき、運命だと思ったんだ。この人とずっと一緒にいたいと思って、少し強引だったが君に嫁いで来てもらった。本来設ける婚約期間もほとんどないまま婚姻してしまったからまだ落ち着かないだろうし、こんな俺のことを今すぐ好きになれとは言わない。……もちろんいつかは同じ気持ちになれたらとは思うけれど。そのためにも! もっとお互い色々教え合おう。好きな花だとか、色だとか食べ物だとか何でもいい。俺はもっと君が知りたい。これはその一歩だと思って欲しい。次はできれば君の好きな花を贈らせてくれ」


 頭も心もぐるぐるとろくに働かないほどびっくりしていたけれど、彼女は一つ思い浮かんだ素直な気持ちを正直に伝えることにした。



「………………喜んで」





 二人の結婚生活は、まだまだ始まったばかり。







 彼の理想の結婚 おしまい



攫われ姫のセルフパロっぽい。(小並感)


兄弟構成は長男、次男、長女、次女、三女、三男、四女、となっております。ちなみに三女が彼は私を愛さないのナターシャです。

お話の投稿順は一部例外除き上から順番に行います。時系列はがばってる自信があります。

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