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Noelle  作者: 機乃 遙
2/2

 数日後、ロンドン市内。

 ロンドン市警の刑事、ノエル・レディングは、市内某所にあるホテルの一室にいた。その部屋にはすでに黒黄の縞模様のテープが張り巡らされ、鑑識班が現場の調査にあたっていた。

 ノエルは、現場を目の前にして深いため息をついた。それもこれも、この部屋で起きた殺人事件のせいだ。

 殺されたのはマイケル・オサリバン。北アイルランド・ミァン党所属の下院議員。死亡推定時刻からして、犯人は深夜、オサリバンが宿泊していたホテルに侵入。ナイフらしきもので彼の頭を突き刺した。遺体は床に転がり、カーペットには彼の脳髄があふれ出ている。あたりには、まだ新鮮な血だまりができていた。

 しかし、これだけならまだ政治家狙いの殺しだとわかる。ノエルのため息の理由は、ここからだった。

 壁に描かれた巨大な血文字。滴る赤い液体で、それはこう書き表していた。

『A terrible beauty is born.(恐ろしい美が生まれた。)』

 誰が残したメッセージであるのか。おそらく犯人であろうが、それが指すところの意味は何なのか。

 ノエルは、その血文字を前にして腕組みをし、深く考え込んでいた。わざわざこんなものを書き残す犯人。殺しが目的であるならば、こんな面倒な血文字は残さないはずだ。

「あの、レディング警部!」

 と、突然、階下から彼女を呼ぶ声が聞こえた。

 ノエルは黒髪をふわりと浮かし、振り向く。ちょうどそこには、茶髪の青年が立っていた。彼は息を切らし、ノエルの前で呼吸を整える。

 彼の名はエドガー・ベイツ。ノエルと同じロンドン市警殺人課の刑事である。

「どうしたの、ベイツ。なにかあった?」

「本部長が警部を捜しています。どうやら先日のキンバリーの件についてお話があるとか。あと、この件についても」

 と、エドガーは血文字を指さした。

「わかったわ。すぐに行くと伝えて。現場はあなたに任せるから」

「了解しました」

 ノエルはそう言うと、階段を下りて、パトカーの一台を拾った。そしてまるでタクシーに乗るように「ウッドストリートまで」と告げた。


 ロンドン市警察本部は、ロンドン博物館のラウンド・アバウトを抜けた先、ウッドストリートにある。本部長に呼び出されたノエルは、十数分ほどでウッドストリートに戻ってきた。

 本部長のオーウェン・レパードは、神妙な面もちだった。彼の執務室には、007のMよろしくユニオンジャックをかぶったブルドックが並んでいる。まるでザ・フーのキッズ・アー・オールライトみたいに。

 本部長は、禿げ上がった頭をかきながら、老眼鏡をかけてノエルを見上げた。

「まあ、先日はご苦労だった、レディング警部。ロジャー・キンバリーの件だが、残された子供たちは全員、無事快復したようだ。問題のキンバリーは不幸な事故死を遂げてしまったがね。……まあいい、彼の死を悼む者はそうそういないようだ。ウチにもあまり非難の電話は来てないよ。むしろ君はあの状況下でよくキンバリーから情報を突き止めた」

「ありがとうございます、本部長」

「まあまあ、そう堅くなりなさるな。それで本題だが……君、今朝の殺しは見たんだね?」

「オサリバン下院議員の件でしょうか」

「そうだ。すでにマスコミが情報を手に入れようと躍起になっている。政治家殺しだからな。で、まあこの事件なんだが……上層部から、過激な政治団体による犯行とみて捜査を進めるようお達しがきている。まあ、ミァン党からしても、汚名返上、お涙頂戴の絶好の機会なんだろうよ」

「ミァン党と言えば、アイルランド独立派――リパブリカンのはずですが。つまり、狂信的な連合王国派ユニオニストによる犯行だ、と」

「まあ、その線が一番濃厚であるとこちらは判断した。政治屋連中もその線で進めろ、だそうだ。早く犯人を挙げてくれたまえ。それが君の仕事だ。君の手腕には一目置いている」

「わかりました。では、失礼します」

 ノエルは軽く会釈し、部屋を出る。

 政治が絡むと厄介になると、彼女自信わかっていた。しかし、それがこうも早くやってくるとは、まったく想像していなかった。


     *


 殺されたのは、マイケル・オサリバン。ミァン党所属の下院議員でアイルランド独立を掲げるミァン党の筆頭候補だ。しかし、彼ら独立派は、決して議会に登院することはない。女王陛下(ハー・マジェスティ)からの束縛を嫌う彼らは、あえて登院しないことで、彼らの意志を表明している。独立の意志だ。

 そんなミァン党の議員が殺されたのだ。考えられる理由はただ一つ。独立派を嫌う、連合王国主義の強行派。彼らの犯行と考えられた。

 自分のデスクに戻ってきたノエルは、部下がもってきたファイルを片っ端から自分でファイリングし直していた。しかし、あがってきた情報は大したものではなかった。

 第一に、凶器らしきものはまったく発見されていない。しかし傷口からして、おそらくナイフなどの刃物だと考えられる。

 第二に、犯人の指紋らしきもの。あるいは毛髪や皮膚などは一切発見されなかった。代わりに薬剤らしきものが散布された痕が発見された。その薬剤というのがいわゆる滅菌剤の一種であった。滅菌剤と使えば、簡易的に物的証拠――DNAや指紋などと言ったもの――を消すことが可能だ。このことから、おそらく犯人は計画的な暗殺を企てていたものと考えられる。

 第三に、例のメッセージである。調べの結果、あの血はオサリバンのものであるとわかった。犯人は彼の血をインクのように使い、絵筆か何かで壁に文字を残したものと考えられる。そしてその言葉の意味であるが――

 ノエルは、ペーパーバックのコピーを手に取った。それは、アイルランドの詩人、W・B・イェイツの詩「一九一六年復活祭」であった。ちょうどいまから百年前、アイルランド独立のため蜂起を起こした者たち――IRBについて書いた詩である。犯人は、その詩の一行を書き残した。その意図はなにか?

 考えられるのは、やはり政治的にミァン党に反対する強硬派の犯行。いまは、その線で洗うしかない。

 ノエルはファイルを閉じ直すと、給湯室へコーヒーを作りに向かった。


 ノエルが淹れるコーヒーはいつもブラックだ。彼女はコーヒーに関し、人一倍こだわりがあると自負している。他人が淹れるインスタントは好きではない。彼女は決まってドリップコーヒーと決めていた。

 お気に入りのマグカップにドリッパーとフィルターを広げ、個人的に署に持ち込んでいる豆を振りかける。それから、ゆっくりと蒸らすように湯をかけた。

 じっくりとコーヒーを淹れながら、ノエルは事件のことを考えた。いまあがってきている情報から判断すれば、犯人は明らかに連合王国派ユニオニストの強行派だろう。しかし、ノエルの中では何かが引っかかっていた。そのような政治的な意図を示す殺しであるならば、もっと現場に主義主張を語るようなものが残されていてもいいような気がするのだ。あるいは、犯行声明のような政治的要求を送りつけてくるはずだ。なのに、現場はきれいなぐらい何もなかった。それどころか、滅菌剤を使って痕跡を丁寧に消すような徹底ぶりだ。犯人はプロの殺し屋……裏社会の人間とも考えられる。しかし、そう考えるとわざわざミァン党の議員を殺した理由がわからない。

 コーヒーを淹れ終わり、ノエルはデスクに戻ろうとした。

 そのとき、給湯室にエドガー・ベイツ巡査部長が入ってきた。彼はいつも焦った様子で飛び込んでくるが、このときも例に漏れずそうであった。

「どうしたの、ベイツ。また息を切らして」

「いえ、捜したんですよ警部。まさか給湯室にいるとは」

「私がコーヒー中毒なのは周知の事実だと思うけれど。……で、なに?」

「第一発見者の女性を保護したんですが、少しし手こずってまして……」

「彼女はどこに?」

「下の聴取室でベケット巡査部長が」

「わかった。私も今から行くわ」

 ノエルはいったんマグカップを置くと、階下の聴取室に急いだ。コーヒーが冷めるのは名残惜しいが、それよりも彼女は仕事優先の人間だった。


 第一発見者は、エヴァ・タウンゼントという大学院生だった。トリニティ・ユニバーシティで政治学を専攻しているという彼女は、インタビューのためオサリバンにアポを取っていたらしい。そしてちょうど今朝、彼が宿泊しているホテルを訪ねたところ、現場に出くわしたらしいのだ。

 エヴァは泣きじゃくりながら、聴取室でベケットから話を聞いていた。しかし彼女は一向に喋るような素振りを見せず、ただ震えているだけだった。

 ノエルは、しばらくその様子を見てから、しびれを切らして聴取室に入った。

「ベケット、代わるわ。女同士のほうが話しやすいかもしれないし」

「すみません、警部。力になれず……」

「気にすることはないわ」

 ベケットが立った席に、今度はノエルが座る。

 しかし、エヴァはうつむいたまま、息を喘がせ、鼻を啜るだけだった。

「はじめまして。エヴァ・タウンゼントさんでいいかしら?」

 エヴァは小さく首を縦に振った。

 ノエルは、エドガーからもらった資料の顔写真と、現実とエヴァを照らし合わせた。

 肩まで伸びた赤毛をハーフアップにしている彼女。白のブラウスに黒のテーラード。それにスラックスというフォーマルな出で立ちだった。それもそのはず、彼女は今日、このまま政治家にインタビューを行うつもりだったのだから。

「辛いのは分かるわ、ミス・タウンゼント。でも、すこしだけ話してもらえないかしら。あなたの今日の行動。オサリバン議員を発見した時の状況。ほかに気づいたこと。なんでもいいから教えてくれないかしら?」

 しかし、エヴァは答えようとしない。顔をうつむけ、泣きじゃくるきりだ。

 人の死が、相当ショックだったのだろう。この手の女は、おそらく手塩にかけて育てられた箱入り娘だ。それが大学進学のためにシティ・オブ・ロンドンまで出てきた。死体や事件なんてもの、今の今まで目にしたこともなかったに違いない。

 しばらくして、エヴァはようやく息を整え、口から言葉にした。

「ごめんなさい、刑事さん……すごい、ショックで……」

「わかるわ。私も職業柄、何度となくこんな状況に出くわしてきているけれど、いつまで経っても慣れないものよ。どんな些細なことでもいいの。何か教えてくれないかしら?」

「はい……その……今朝、わたしは九時に家を出たんです。オサリバン氏とは十時半にホテルでという話でした。なので、早めに出たんです。それから地下鉄に乗って、ホテルまで向かいました。そして、それで……」

 そこまで言ったところで、彼女は吐き気をこらえるように口元を押さえた。思い出したくもないことを、わざわざ思い出しているのだ。仕方のないことだった。

「それで、ホテルに着いて……鍵は開いてました。でも、『起こさないでください』って札がついてたんです。わたし、何度かノックして……。それでも出てこないんで、入ることにしたんです。そうしたら……」

 オサリバンは死んでいた。血文字で書かれた詩の引用とともに。

「なるほど、わかりました。ほかに何か気づいた点とかは? たとえば、怪しげな人物を見たとか?」

 彼女は首を傾げつつ、それから横に振った。興奮状態ではまともな思考はできない。当然の帰結だ。

「わかりました。ありがとうございました。今後またこちらからお伺いするかもしれません。そのときはまた、ご協力お願いします」

「……はい、わかりました……」

 ノエルは部屋の外のエドガーに目配せして、エヴァを送るように指示。

 それから、彼女の供述を録音したテープとともに、ノエルは自分のデスクに戻った。コーヒーはもう冷え切っているだろう。


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