きよしこのよる
真夜中。
一日中降り続いた雨も闇の彼方へと消え去り、陰気に湿った土の匂いが森の中に立ち込めていた。
じっと動かなかった人影が、ようやく立ち上がった。
濡れた地面を踏みしだきながら雫に覆われた高い草を掻き分け、森の外へ抜けようと歩を進める。
周りには頭上を覆うほどの木々が濃い葉を茂らせ、こぼれ見える星は、すっかり上がってしまった雨によって綺麗に洗われたような輝きを放つ。
わずかな光がその人影に射し、均整の取れた体つきと険しくも哀しみをたたえた男性の顔を浮かび上がらせる。
男は、ここが山のどの辺りになるのかすら分らなかった。かつて、ここへ墜ちる前は、この場所を含めた全体を空より俯瞰することもできたというのに。
彼は身に付けた装備を点検し、そのほとんどが使い物にならなくなってしまった事実を確認する。
機材が生きていなければ連絡も取れず救援は期待できない。食料が確保できなければ生命を維持することが出来ない。
この真っ暗な夜を見渡す彼は、この場所の外に存在する光に満ちた繁栄を知っている。
繁栄の、その先にある迷いや困惑も、戦争も、飢えも。時間の経過により変わり果てる無常なる世を知っている。
人間として生まれた事は、それ自体が彼に与えられた罰であり、存在を維持し続けることを己に強いらねばならぬ呪いである。
その昔、光の中に生まれた神々は、世界の、全ての事象を司る大いなる存在として『在る』だけであった。
その一方で、彼らの眷属として世に姿を成した天使は、人間と共に生き、人としての言葉を与え、教えを授けた。
全てを自然の一部として受け入れるよう諭し、光の存在が求める、在るべき世界の構築に尽くした。
しかし、その『在るべき世界』とは、必ずしも人間の、その人々の思いや都合に合わせたものではない。
男は、『在るべき世界』の実現のために、己を鍛え、文明がもたらす様々な道具をも使いこなした。
しかし男はやがて、世界に飲み込まれる。『在るべき』ではなく、ただ『在る』世界に。
男は堕ちたのか? そうかも知れない。
だが男を責めることはできない。単純に、彼は彼として『在る』だけであって。『在るべき』彼は、その目標であり理想でしかないのだから。
天使のような赤子、という言葉がある。赤子は天使か? あながち間違いとは言い切れない。いや、それで間違ってはいないのだろう。
だが、人間として存在するために掛けられた呪いがやがて天使を人に変える。
天使からあたりまえの人間になった事により男は堕ちたのだろうか? 実際、彼は墜ちた。
管制から逃れるために極秘裏に飛ばしたセスナが故障によって墜落、辛くも脱出だけは成功した。
現在、彼は人間界の文明というものから見放された山深い未開の地に、おそらくこの一帯では、ただ一人の人間として『在る』。
そんな中にあっても、彼を求めるものはいる。彼を捕らえ、絞首台に送りたい者。彼を非合法に裁き、闇に葬り去りたい者。
天から追放され、地に落ちたそれは、悪魔と呼ばれる。
彼は悪魔か? そうであるならば、彼はいつから悪魔と成り得たのだろう。
*
「きーよーしー、こーのよーるー、ほーしはー、ひーかりー」
生物の誕生から約40億年。
様々な生物が地球に生まれた。
太古の新生代、水辺に住む小獣が『陸上か水中か』を選択し、それぞれを活躍の場とした。
その一種のクジラ偶蹄目、シカ科に属する彼らは陸上に生き、草や木の実を食べる。勿論、相も変わらず水辺にも寄る。
水辺どころか水場そのものに住まうカバは彼らの姉妹群にあたる。
現在、鹿は全国に広く分布するが、偉大なる太古の始祖の系統となるカバやクジラとの交流は勿論無い。
二匹の鹿が夜の茂みを駆け抜けた。この二匹は兄弟で、彼らが生まれたのはここからずいぶんと離れたとある森林地帯である。
その森林には彼らの親や仲間がいた。天敵の少ないこの地では、群れの数は肥大化する。ほうっておくと彼らの根城は食べ物が無くなり、木の皮まで食い尽くされる。
もっとも、そうなってしまう前に彼らは、暫定的で小規模なグループに分かれそれぞれが行動する。
全体的な流れとしては、群れの行動範囲はどんどん拡大して行くようにも見える。
そんな中、二匹の鹿は、その兄弟は、もっとたくさんのもっと柔らかい草の芽や木の実を求めて、母親のいた初期グループを離れた。今まさに、兄弟二匹で駆けていた。
「きーよーしー、こーのよーるー……」
鹿は人間の言葉を話せない、だからこれは鹿の間で交わされる言葉のイメージである。
「なんなの、そのきーよしなんとかって?」弟にあたる鹿が聞く。歌っているのは兄にあたる鹿だ。
「ああ、これ。前に人間の住処へ、野菜を食べに出掛けた時にどこからか流れてきたのさ、何となく覚えてしまった」
音楽は、リズムとメロディーとハーモニー。
鹿は駆ける速度で、跳ねるテンポで、呼吸のアクセントで、全身で歌う。
「何となく楽しいね、これ」弟も真似をして駆ける、跳ねる、嘶く。
低い茂みを飛び越え、木々を縫い、斜面を駆け上がる。兄の側まで行くとそれまでの勢いをしなやかに収め、何事も無かったようにゆっくりと歩く。
「人間を見たことがあるの?」先程のやりとりが気になっていた弟は問う。
兄は立ち止まり柔らかな若い草の匂いを嗅ぐ。
「あるよ、だいたい数人でひとかたまりになって囲いの中に住んでいる」兄は答え、続ける「外を歩くときはたいてい長い棒を持っていて、それで地面を掘ることもあれば
鳥や、イノシシや、僕らを撃つこともある」
「撃つ?」
「ああ。棒をこちらに向けて、ものすごい音がすると、僕らのうちの誰かが血を流して倒れる。倒れたらそのまま死ぬ」
「死ぬの……」弟は不思議そうに兄を見る。弟は、死のことはあまり知らない、だが本能は知っている。弟はまだ、向き合ったことが無いというべきか。
「死っていうのはね、みんなにやってくる。お前の知らない祖父や、怪我や病気になった友人が死んだのを僕は見た。死んだらね、だいたい横たわってそのまま動かなくなる。眠ったように目の光が消えて、本当にピクリとも動かなくなる。そのうち体が硬くなって、目も、毛並みも全部、霞んだように濁ってぼやけたようになってしまう」
弟は一生懸命にそのさまをイメージしようとするが、要領を得ないようだ。
「ぼやけて、消えてしまうの?」
「ずっとそのまんまさ、でも鳥がつつき虫がたかり体がどんどん崩れていって、終いには……そう。消えるね」
弟はいよいよ分らなくなったが、兄が木の実をうまそうに食べるのを見ると考えるのをやめて、結局それに倣った。
ここは兄弟の秘密の場所である。どの群れもここにはまだ来た事が無いようで、腹を満たす木の実が豊富にある餌場である。
「死は怖いものさ、皆が言ってる」兄は腹一杯になる前に一度食事を中止して、星を隠す雲に覆われた暗い空を見上げた。
弟はもぐもぐと、木の実を口いっぱいにほおばりながら兄を見上げる。
「でも死はね、役に立つこともあるんだ。いつも追い払う虫や、普段は怯えて近付いてきやしない鳥や、いつも食べている草や木の根っこが、死体を食べて生き永らえる。
そうは言ってもやっぱりね、死は怖い。死ぬのは嫌だ。けど、実際に死んだものがその死を怖がったり、嫌がったりすることはない」
「ふうん」弟は咀嚼した木の実を飲み込んだ。兄が知る死というものを、兄を見つめることで理解しようとでもするように、無邪気な瞳を向ける。
「行こう、もうすぐ夜明けだ。今日の寝床を探そう」
先に行く兄を弟が追って駆け出そうとした刹那、兄に異変が起こった。兄の足が何者かに引っ張られたように引きつり、そのままもんどりうって倒れ、もがく。
「どうしたの?」弟は驚き怯え、おずおずと近付きかける。
「来ちゃ駄目だ!」兄は腹這いになって自分の自由を奪った足元を見る。左の後ろ足がくぼみに嵌っている。よく見るとそのくぼみは、枯葉に隠された丸い筒が縦に埋められている。
筒の穴は、鹿の蹄よりも大きく、そこに足を踏み入れると足が嵌ってしまう。さらに嵌った足が引き抜かれないよう、仕込まれたワイヤーが足を締めつける。
罠だ。鹿は罠に掛かった。仕掛けたのは人間。熊やイノシシはこういった罠を仕掛ける技術を持たない。
弟は兄を遠巻きに見つめ、成す術も無くそこに留まった。兄は動こうとすればさらに締め付けるワイヤーの輪に自由を奪われ、そこにそのまま座り込むしかなかった。
「近くにまだあるかも知れない、もっと離れろ。いま来た道を戻れ」同じ罠に掛からないように、弟を遠ざけたかった。しかし弟は距離こそ置いたものの、兄をじっと見る。
「大丈夫だよね? そんなものすぐ抜け出せるよね」弟は足をすくませたように佇み、不安げに尋ねる。
兄は再びもがき、その足かせを外そうと試みていた。蔓や木の枝がからんだときとは勝手が違う、細工されたワイヤーの輪っかは、締め付けたらもはや開かない。
全力疾走をした後のように、兄の腹は荒い呼吸で大きく波打つ。そして、次の瞬間、その息が止まるほどの緊張感に襲われる。
「逃げろ! 人間がやってくる!」兄は人間の気配を感じ取り、弟へ緊急の警告を発した。
弟は兄の剣幕に驚き、あわてて立ち去りかけ、しかし後ろ髪を引かれるように止まり、振り返る。
兄の向こうから、黒い影が近付いて来るのを見る。人影。駆け寄るでもなく、忍び寄るでもなく、ゆっくりと、歩く人影。
きーよーしー、こーのよーる、ほーしはー、ひーかーりー。
弟は、人間のその動きが、兄が歌っていたリズムと重なる感覚にとらわれる。
流れに身を任せるような、落ち着いた動きで人間は近付いて来る。弟はそのさまに魅了されてしまったかのように動けない。
人間は、棒のようなものを手にしている。あれで撃つのか? 弟は思ったが、そのような気配は無い。そのまま、兄から少し離れた位置に立ち、兄の様子を伺う。
「……逃げろ、遠くへ」兄はうわ言のような細い声で言った。脱出の試みで気力体力を使い果たしたようには見えなかった。観念したのか、それとも魅了されたのか。
それはきっと草食動物の気質によるものではないだろうか。いよいよとなれば食われる、そういう風に受け入れることを本能で理解するのかもしれない。
人間は男性だった。男は、鹿の角を掴んで仰向けにして、金属片を先端に付けて槍に仕立てた棒で心臓を一突きにしてとどめを刺した。
捕らわれた兄鹿が絶命するのを確認した男は、遠巻きに見つめる小ぶりの弟鹿を見る。
弟は弾かれたように逃げ出した。
ファイト・オア・フライト。
草食動物である彼は反射的に逃げることを選択する。
逃げて、逃げて、影すらも見えない遠くへ逃げようと駆け、ふと立ち止まる。
もう安全な距離を稼いだと。そこからの選択だと。
弟は、何故だか引き返す。安全な距離から、人間と兄を視界に入れるために、戻った。
*
人間の男によってとどめを刺され、絶命した鹿。
その鹿は、頚動脈を切られ血抜きをされると吊るされた。
両後ろ足を紐でくくり、木の枝に逆さに吊るされる。
男は、ナイフで鹿の腹を割く。内臓を傷つけない程度に浅く刃を入れて腹を割く。次に、両足の付け根、蹄の辺りの皮をぐるりと切って、腹に向かってすーっと切る。
剥ぎやすいよう要所に切れ込みを入れられた鹿の皮は、あっけないほど簡単に、ずるりと剥がれる。
皮の次は内臓を掻き出す。
すでに割いた腹の、肛門付近と頭部の食道を切り離す。四つある胃や、直腸、大腸を含めた全ての内臓が一塊の袋のようになって取り外される。
残りは、両前足と後ろ足と肋骨や背中周りの肉。それに逆さにぶら下がった頭部。
内臓が取られた腹の部分ががらんどうになり、中には何も残っていないようにも見える。総量として、肉の部分は意外と少なく見える。
肋骨部分、肩と背骨部分、足部分の肉を切り取る。調理しやすく、食べやすい大きさに切り分ける。
内臓は、腐るのが早いのですぐに食べる分以外は土に埋める。蝿が発生するのを防ぐ。寄生虫の可能性もあるので、男は、肝臓を炙って食べた。
柔らかいあばら肉と背ロースを一緒に炙り食べる。失われた体力を取り戻すために食べる。
筋肉質で硬い足の肉や、残った肉を燻製にする。保存食として加工する。
一方で、剥ぎ取った皮を加工する。皮を洗い、毛の内側や裏側の脂肪をこそぎ落とし乾燥させ、簡易的になめす。破れた服のつぎに当てて身体の保護と保温効果を得る。
別の皮で水を持ち運べるような袋を作る。
頭部の角や残った骨を加工する。矢尻などの、主に武器として使用するための道具を作る。
パイプやワイヤー、その他の金属を墜落したセスナの部品から調達していたが、大半が燃料と共に焼け、めぼしいものはもうほとんど無い。
元々食料を積んで無かったので、まずは食料調達のための道具を作るためにセスナの部材を利用した。
そうして、食料としての燻製肉と皮袋に入れた水を用意した。簡易ながらその他の道具も作り、深い森林を越える準備が整った。
数日間、人間に気付かれないように遠くから、人間が行うそれらの様子を伺っていた鹿。
鹿は、兄が見る間に解体され形を無くし、それぞれの部位が違ったものに加工されて形を変えて行くのを見守っていた。
もうかつての兄として分るものは、角が取られた頭部しかない。
頭部は、使われず残った骨と共にひっそりと地面に置かれている。
兄が言っていたように、死んだ兄のその目は光をなくし、歌を口ずさんでいた口や鼻はぴくりとも動かないと知る。
兄の死は役に立ったのだろうか、兄の死によって何が生きたのだろう。あの時考えるのをやめてしまった死というものについて、もう一度、弟は考える。
火の側で、眠っていたのかどうかは弟には分らなかったが、しばらく動かなかった人間がゆっくりと立ち上がった。男は火を始末する。
きよしこの夜、星は光り――。
男は歩き出す。
――救いの御子は、御母の胸に、眠りたもう、夢やすく。
遠ざかる人間の姿から、メロディを受け取るかのように。
弟は、その人間の歩くさま、その全身の動きを見送る。兄の息吹は、もう感じていない。
end
2ちゃんねる投下時は二編でしたが、くっつけて加筆訂正し投稿。