04
あなたに死の記憶はない。
発作によって危うい状態に陥ったことはあるが、少なくとも死んだ覚えはない。
ただ、記憶のない前日に何かあったのかもしれないと言われれば、あなたに否定する材料はなかった。
せめて何かとっかかりがあればいいのだけれど、記憶は昨日の朝から綺麗に抜け落ちているため、それも難しい。一昨日──あなたにとってそれは昨日に思えるのだが──計画していたとおり、朝起きてすぐに身支度を調え、"手紙"に指定されていた駅へ向かう列車に乗ったのだとは思うが──その後何があったのかがまるでわからない。
せめて記憶を失うことをあらかじめ教えておいてくれればいいのにと、あなたはミヅキに恨みがましい視線を向ける。
するとミヅキは悪びれもせずに言うのだった。
「『時流し』に、あたしら『時留まり』のことはあまり知られるわけにいかないんだよ。想像してみなよ、それぞれの特徴を。『時流し』はどんどん記憶がなくなりやがて空っぽになる。それは死者が生前の記憶から解放されることを意味する。本当の死へ向けた準備をしているとも言えるだろう。でもあたしら『時留まり』にそういうことはない。蓄積しない代わりに、失うこともない。エントロピーが一定なんだ。どこへも進まずどこへも戻らない。そんな存在がなんでこの街にいるのか──考えれば想像はつくだろう?」
あなたは困惑した。
想像が出来てしまったからだ。
でもなぜ?
なぜ自分が──
「『時留まり』はこの街を管理する側の人間。あんたは選ばれたんだよ」
◇
あなたは街へ出てみることにした。
部屋の中にいるだけでは息が詰まるし、わけがわからないことばかりで頭の回転が鈍くなっている。外の空気を吸ってみるだけでも随分違うだろうと考えたのだ。
ミヅキは「好きにすればいいよ」と言っていた。投げやりな風でなく、本心からそうすべきだと思っているようだった。"管理側"の人間として何か仕事を負わされるのかもと警戒したが、そういう様子でもない。結果、あなたは特に目的も持たずに街をぶらぶらしている形となっている。危機感を持っていないわけではないのに、表面に出た行動はやけに暢気だ。あなたにはそれがどうも落ち着かない。
街は地方の郊外都市程度の栄え方をしていた。オフィスビルは駅前にのみ存在し、五分ほど歩けば二階建て家屋ばかりが目立つようになる。その先に広がるのは田畑だ。あなたはいっそ歩いて街を脱出しようかとも考えるが、先ほどのミヅキの言葉を思い出して諦める。
ミヅキはさっき、「お前は街を出ることが出来ない。だから自分にはお前を束縛する必要がない」と言っていた。まさか歩いて出て行けるのにこうは言わないだろう。
街の住人の殆どが『時流し』だということは、影を見ればわかった。明らかに、あなたより薄いからだ。そしてどこか表情が虚ろだ。影が薄い者ほど、その傾向は強い。影が消える時、記憶もゼロになるという。ならば殆ど痕跡しか影を残していないあの男性は、保持している記憶も僅かだということになる。一割にも満たない記憶をよすがに、彼はどんなことを考えているのだろう。あなたにはそれを想像することが出来ない。
ミヅキの言っていたことに嘘はないようだ。あなたは街を検分しながら、そう結論付ける。影が薄れるなどという超常現象が、この街では普通に起きている。そしてそのことを誰も不思議がろうとしていない。日常の姿だからだなのだろう。
けれど、影が完全になくなった人はどこにいるのだろう。
本人も、後を追うように消えてしまうのだろうか。
ここまであなたは、街の中心地らしきロータリーをぐるりと巡り、周辺にも足を伸ばした。その二時間ほどの間に見かけた『時流し』の数は三十人ほど。その中に、影がまったくない人の姿はなかった。
あなたはその答えを知りたいと思った。しかし『時流し』に直接尋ねるのは気が引けた。「あなたはどうやって死ぬのですか」と訊くに等しいからだ。
かといって、ミヅキに問うことも躊躇われた。大道芸人として街を渡り歩いたあなたの経験は、不用意に彼女を信じることに警鐘を鳴らしている。世話をしてもらいはしたものの、彼女にはどこか不穏なものを感じるのだ。あなたは自分のその感覚を疑うことはない。年若い少女が放浪を続けていくために、それは絶対的な信念となってあなたに宿っているのだ。
街はわびしく、見所らしいものもなかった。このままでは廃れていくばかりなのではと思ったあなたは、ついここを普通の街のように考えようとする自分の頭の硬さに軽い呆れを感じた。
ここには町興しの必要などない。活気を作り出す意味などない。ここは世界のどん詰まりだ。一見普通の町並みが広がっているが、そこに未来はない。あれらは書割の背景のように、通常の世界を模倣しているに過ぎないのだから。
なぜこんな場所が存在するのだろう。なぜ中途半端に元の世界を真似ているのだろう。頭に沸いた疑問を飴を舐めるように幾度も反芻していたあなたは、いつしか自分が中心部からかなり離れた場所にいることに気付いた。
あなたの前には、細い道が続いていた。その先端は森へと練り行っており、更に先には山影が見える。太陽の位置からすると、ここは街の西端にあたるようだ。
山は深く霧がかっていて、頂上付近が空に溶け込んでいた。ロータリーで周囲を見回した際に気付かなかったのはそのためだろう。あなたはもう少し近づいてみようと足を踏み出し、そこで立ち止まる。
前方、道からやや外れた草地に、一人の青年の姿を見つけたからだ。
彼は折り畳み式の木椅子に腰掛け、目の前にイーゼルを立てていた。あなたはすぐに、彼が山を描いているらしいことを見て取る。
そして、青年には影が存在していた。あなたと同じように、まったく薄らいでいない影が。
『時留まり』だ。わたしと同じ、三人目の。
あなたは青年に向かって歩き始めた。『時流し』の人々に話しかけることは躊躇われたため、あなたはまだミヅキ以外の人間と言葉を交わしていない。けれど、街を一通り回ってしまえば、後は誰かと話してみる以外にやることがない。だから、ここで"同類"に会えたのは僥倖かもしれないと思った。
青年には、背後から近づくあなたに気付く様子がなかった。あなたは「こんにちは」と声をかけたが、絵に集中しているらしく、ぴくりとも反応しない。
あなたは青年の肩越しに、おそるおそる絵を覗き込んだ。
そこには、たしかに目の前に聳える山が描かれていた。
しかし同時に奇妙なものも描かれていることにあなたは気付く。
それは真っ黒な人間だった。あるいは影を意味しているのかもしれない。
合わせて四人の黒い人間が、山の風景の所々に描きこまれていた。
だがそれらは、明らかに縮尺がおかしくもあった。
写実的に描かれた山に対し、黒い人間たちは戯画のようにデフォルメされている。遠近法も無視されており、いる場所が違うにも関わらず四人のサイズはほぼ同じだ。
まるで、大人の描いた絵に子供が落書きを加えたかのようなアンバランスさ。あなたは絵の意味を考えるよりも先に不気味さに捉われ、ごくりと喉を鳴らす。
その時、青年が唐突に振り返った。
喉の音に気付いたというよりも、ただ振り向くべき時間が来たから振り向いたとでもいうような、奇妙に機械的な動きで。
「きみは?」
青年の口から、平坦な声が発せられた。
あなたは戸惑いながらも名を名乗り、自分が『時留まり』であることを告げる。
変わった人物だけれど、まずは"同類"だとわかってもらうことで友好的な関係が気付けないかと考えたためだ。
そしてあなたの咄嗟の判断は効を奏した。
青年はあなたの足元から伸びる影に目を遣り、それが薄れていないことを確かめると、途端に表情を切り替えたのだ。
それは、機械に命が宿る瞬間を見るかのような変化だった。
元のパーツに違いはないのに、誰がみてもわかるほど劇的に、そこに感情らしきものが現れたのだった。
「そうか、君は僕のお仲間なんだね。こいつは嬉しい。随分と久しぶりのことだよ」
青年は木椅子から立ち上がり、手を差し出してきた。
あなたはその手に握手を返しながら、相手を見上げる。
青年は思ったよりずっと背が高かった。趣味人らしく気取った服を身に着けているが、ひょろりと細長い体躯にあまり似合っているとは言い難い。描いている絵と同様、どこかバランスに欠いている部分があるようにあなたには思える。
だが、その態度は屈託のないものだった。
「僕はマサヒロ。ごらんの通り、この街で『画家』をやっているんだ。よろしく、ツバキ」
「あ。……はい」
強い力で握り返され、あなたは気圧されながらも頷く。ミヅキもそうだったが、『時留まり』は皆それぞれに独特の雰囲気があり、最初はどうにもペースが掴みづらい。
けれど、悪い人ではなさそうだ。
あなたは青年に抱いた最初の印象を意識的にシャットアウトし、微笑んでみせた。ミヅキと異なり、危険な感じはないように思えたためだ。
「それでツバキ、君の"仕事"はなんだい?」
「え?」
「……ああ、まだ何も知らされていないのかな。じゃあ質問を変えよう。君には何か特技があるかな?」
「特技、ですか?」
「うん」
「それは……あると言えばありますけど」
ジャグリングも、歌も踊りも他にも他にも、身に付けた大道芸の殆どは特技と言えるだろう。でもそれが仕事とどう繋がるのだろう?
「ふうん。それが具体的には何か、教えてくれるかい?」
「えっと……ジャグリング、とか」
「それは珍しいね。なら間違いない」
「何がですか?」
「君の仕事はそれだ」
「え?」
あなたはつい聞き返してしまう。それくらい、意味がわからなかった。大道芸をすることがこの街での仕事? もちろん、元々自分はそうやって生計を立てていたわけだし、出来ないという話ではないけれど。
けれど、あなたの困惑は一頻りで収まった。
このくらい、最初の驚きに比べれば大したことじゃない。いちいち驚いていてば身が保たない。そう考えたからだ。
「……理由はわかりませんけれど、わたしは大道芸をするよう求められているんですね」
「そうなるのかな」
「わかりました。それなら」
それなら、むしろ気は楽だ。今までもずっとそうやってきたのだから。相変わらず理解が出来ないことばかりだけれど、酷い仕事を押し付けられなくて済んだことは幸いだった。少なくとも自分が芸を続けている限り、この街は自分を保護してくれるだろうし、追い出すこともないはずだと思えた。
──追い出す?
あなたはふと自分の考えたことを意外に思った。
自分はこの街に居続けたいのだろうか?
この何もない陰鬱な街から、一刻も早く出たいと思っていたのではなかったのか?
──いいえ。
あなたは、自分の直感がそうやって否定する声を聞いた。
別段、愛着が沸いたわけではない。まだ記憶の上では数時間しか滞在していない街なのだから、それは当然だ。
けれど、直感は告げていた。自分の目的地はここだと。ここには、自分が探していたものがあると。
「おかあさん」
そうだ。
ここにはきっと、あなたの母親の手がかりがある。