03
あなたの翌日は極度の混乱から始まった。
目覚めたのはベッドの上だ。けれど視界に入るあらゆるものにまったく覚えがなかった。白い天井、白い壁、白いシーツ、赤い林檎。それらすべてが初めて見るものでしかなかった。
ここはどこだろう。
自分はなぜこんな場所で寝ていたのか。
あなたの直前の記憶は、一人暮らしのアパートでロフトベッドに横になった時点で途切れていた。明日の列車に間に合う時刻に目覚ましをセットし、今日朝早くから"手紙"に記されていた街へ出発する、そういう予定だった。
そのはずだったのに──。
あなたは自分がおかしくなってしまったのではないかと不安に駆られる。きっと夢だと、もう一度眠って目覚めれば元のアパートに戻るはずだと思ってシーツを引っかぶるが、激しく動悸する胸が眠りを阻害する。
その時、ドアを開けて一人の女性が室内に入ってきた。
"知らない人だ"。
びくりと身を竦ませたあなたは、シーツを口元まで上げて女性の様子を窺う。
「さて、ツバキ」
女性はおもむろにあなたに問いかけた。
「あたしのことは覚えてるかい?」
それは、奇妙な質問だった。少なくともあなたはそう思った。
覚えているも何もない。
間違いなく初めて見る人だった。
だが、あなたがゆっくりと首を横に振ると、どうしてか女性は楽しそうに笑うのだった。
「そうか。あんたは"こっち側"なんだね」
それは、親しさを感じさせる笑みだった。
女性はあなたに手を差し出してきた。握手を求められていると悟ったあなたは、おそるおそるシーツから手を出して、女性のそれを握る。
「おはよう。そして、二度目のはじめまして」
女性は目を細めた。
「名もなき街へようこそ。歓迎するよ」
◇
女性はミヅキと名乗り、目を白黒させているあなたに「まずはあたしの話を聞いてくれ」と切り出した。
あなたは勿論、頷く以外のことが出来ない。
ミヅキはよし、と頷いて、口を開いた。
「この街の人間は、『時流し』と『時留まり』に分類される。『時流し』は今ある記憶が消えていく。昔のものから順に喪われていき、同時に影が薄くなる。影が完全になくなる時、記憶もすべてなくなるっていう、そんな存在。もう一つの『時留まり』は、記憶を蓄積しない。街を訪れた日以降、翌日になると前日の記憶を忘れてしまう。あたしはミヅキ。『時留まり』の一人。そしてツバキ、あんたもどうやらあたしのお仲間みたいだ」
一息にそう説明するミヅキを、あなたは言葉もなく見つめていた。
「理解が追いついてないって顔だね。無理もない話だけど。でも、あんたはこの状況に慣れなくちゃいけない。記憶は確実に毎朝失われるんだから。そしてあたしも毎回あんたに説明しいてる余裕はない。この街には今30人ほどの『時留まり』がいるけれど、全員にそんなことしてたら日が暮れちまうからね。だから、あんたに渡しておくものがある。ちょっと待ってな」
そう言うと、返事も待たずにミヅキは部屋を出て行ってしまった。残されたあなたは、いまだぼんやりとしている。頬をつねってみるが、しっかりと痛い。どうやら現実のようだが、しかしこんな現実があるものだろうかとあなたは途方に暮れる。
そうこうするうちにミヅキが戻ってきた。彼女はあなたに一冊の本を手渡す。
「これ……日記、ですか?」
「そういうこと。これは『時留まり』の必需品だ。あたしらの頭は記憶を蓄積しないから、こうした外部の媒体を利用するしかないのさ。とりあえず毎日起きたことをここに書き留めて置くようにするといい。目覚めた時、すぐにそれを読み返して記憶を追いつかせるんだ。もっとも、ページが増えていけばいずれは読みきれなくなるから、どこかで適当に要約する工夫が必要になるけどね。その辺りは自分でおいおい調節していくしかない」
「ミヅキさんも、日記を書いてるんですか?」
「勿論。もうだいぶ長くなったし、また書くことが増えちまったけどね。いくら圧縮しても、毎朝一時間は日記を読み返してるよ。不思議と記憶がなくなっても体は覚えてるようでね、日記を読まないと"あたしが始まらない"ような感じがするんだ」
「そう、なんですか」
あなたは、自分が話の半分も理解出来ていないことを自覚していた。それでも、ミヅキの語った内容は胸に重たい澱を沈めたようだった。
毎朝、前日の記憶を忘れてしまう。日記に書いてそれを思い出すようにしていかなければならない。一種の記憶障害のような症状だが、しかしこの街には同じ状況の人間が他にも数十人単位で存在するという。自分が何らかの病気に罹ったのだとして、はたして同じ病気の人間がこうまで一箇所に集まる事態とは、どのようなものなのだろう。
あなたの頭の中では、感染症、ウィルス、などといった言葉が並ぶ。
けれどこの街には、『時流し』という別の呼称に分類される人達もいるらしい。古い記憶から徐々に失っていくという彼らの一つ目の症状は、生命個体として必然的に発生し得るものだと云える。しかし影が薄くなるという二つ目の症状は、あなたのこれまで蓄積してきた知識や常識の範疇から外れた位置にある。突拍子がなさすぎて、思索の取っ掛かりを掴むことすら出来ない。
これはいったいどういう状況なのだろう。
ここはいったいどういう場所なのだろう。
そのとき、あなたの思考は一つの仮定を導いた。
一つ一つの事象がすべて異常なのだと云うならば、自分の今いる世界自体が異常なのだと考えれば、ただ一言で説明はつく。
もしかしたら──。
「あの、ミヅキさん」
そうしてあなたが尋ねたことを、誰にも責めることは出来ないだろう。
「わたしが自分の家に帰りたいと言ったら、ミヅキさんはどうしますか?」
「どうもしないよ」
質問を予期していたかのような即答だった。
そして、そう返されることも、あなたはなんとなく察していた。
「なぜですか?」
だからこれは確認だった。
「あたしが何もしなくてもあんたはこの街から出ることが出来ないからさ」
「駅から列車に乗ればいいんじゃないんですか?」
「あの駅は一方通行だよ。おかしいと思うかい? でも事実だ」
「なぜですか?」
漠然と感じていた印象を裏付けるためだけの、ただの確認。
「生から死へは一方通行だろ。そういうことだ」
あなたはミヅキの言葉を、不思議なくらい最後まで予期していた。
「ここは死者が訪れる街だからね」
不思議なくらいに。