02
あなたは何もない部屋で目を醒ます。
はじめは、天国かと思った。けれど自分が寝かされていたのは簡素なパイプベッドだ。こんな天国もないだろうとあなたは自分の安易な発想に恥ずかしさを覚える。
改めて見回しても、やはり何もない部屋だった。
唯一存在しているのがパイプベッド。人が住む前提はなく、むしろこのベッドのための部屋と言われた方がしっくりくる。作りかけのゲームの画面ならこういう感じになるだろうかとあなたは想像する。
ややあって、一方の壁に切れ込みが走った。よく見れば、そこにはドアがあったようだ。白い壁に、白いドア。あなたは顔も知らぬこの部屋の住人に偏執的なものを感じとり、身を硬くする。
「おはよう。起きたね」
けれど、ドアを開けて入ってきたのは快活そうな雰囲気の若い女性だった。あなたとの年の差は10ほどだろうか。背が高く、均整の取れた体つきをしていた。全身に薄くしなやかな筋肉を帯びた姿には、猫科の獣を思わせるものがあった。
「貴方は……?」
呟いたあなたは、慌てて言い直す。
「すみません、お礼を言うのが先でした。ありがとうございます。えっと、貴方がわたしを介抱してくださったんですか?」
「礼なんかはどうでもいい。仕事のおまけみたいなもんだしね」女性はひらひらと手を振って、「介抱したかってとこも微妙かな。列車で気を失ったあんたをここに連れてきたのは車掌だし、あたしがやったのは、あんたが握り締めてた薬を飲ませたくらいなもんだしね」
「そうですか……」
「どうやって飲ませたか知りたいかい?」
「い、いえ」
女性が唇に指を添えたのを見て、あなたは顔を赤くする。すると女性はおかしそうに笑った。
「冗談だよ。上を向かせて水差しで流し込んだだけだ。必要であればそうしただろうけど、あんたは素直に薬ごと飲み下してくれたからね」
こっちは楽で良かったよ、と女性はさばさばした様子だ。どうやら"そういう"趣味はない人だと知り、あなたはほっと胸を撫で下ろす。
「貴方は、医者の方なんですか?」
「いや、違うよ。この街に医者はいない」
「医者がいない……?」
それはどういう意味だろうと首を傾げるあなたに、女性が声を被せた。
「そのままの意味さ。他にもここには色んなものがない。……さて、思ったより意識もはっきりしているようだし、まずはそこから話そうか」
◇
最初に女性は、自分はこの街の案内人だと語った。
あなたのような来訪者に対し、この街がどういう場所なのかを説明する仕事をしているのだと。
もちろんそれだけが仕事じゃないんだけどねと笑った女性は、次にこう口にした。
「この街は普通じゃないんだ」
だから、無理に今までの常識を当てはめようとしない方がいい。そのたびに驚いていては、心がもたないから、と。
「それは、どういう意味ですか?」
「じきにわかるよ。というより、口でいくら説明しても理解も納得も出来ないだろうからね。だからあたしは、心構えだけを"新人"に伝えるようにしてるんだ」
「新人……」
奇妙な表現だな、とあなたは思う。それの何がおかしかったのか、女性はくすりと笑うと「あたしはね」と唐突に自己紹介を始めた。
「あたしはミヅキ。この街の案内人であり、その他にもまあ、秘密の仕事を2・3している。あんたは?」
「わ、わたしは」
女性──ミヅキのペースは独特で、あなたは掴みどころの無さを感じる。けれど、"商売柄"あなたは色々な人間を相手にすることに慣れている。一呼吸で落ち着きを取り戻したあなたは、ミヅキと目を合わせてはっきりと言った。
「わたしはツバキって言います。学校には通ってないけど、もし通っていたなら高校生くらいの年齢です。ミヅキさんは否定するんでしょうけど、改めてお礼を言わせてください。──わたしを助けてくれてありがとう」
◇
とにかくもう少し休んでな、とミヅキは部屋を出て行った。
と思いきや、一度戻ってきて小さな机と林檎の入った籠を運んできてくれた。
机はやっぱり白かったが、真っ赤な林檎はこの部屋の中では面白いほどに存在感がある。
あなたはミヅキが去った後、なにげなくそれを両手に一つずつ掴み、右に持った方を天井に向けて放った。
そういえば照明はあったんだなと当たり前のことに気づきながらも、あなたの意識は林檎にある。
放り上げた林檎が頂点に達す前に、左で持っていた方を右に持ち替え、一つ目の後を追わせるように放る。
同時に左手は籠に伸びていた。だが3つ目を掴んだ左手は、1つ目が落ちてくる前に解放されなければならない。即座に左から右へ林檎が移る。右手はそれを放る。左手が落下する林檎をキャッチする。また右へ流す。繰り返す。
ジャグリング、だった。
あなたの身長の割に長い指先は、大き目の林檎をしっかりとコントロールしていた。たかだか3つとはいえ、安定した手さばきは"さま"になっている。知人の前で実演すれば、器用だね、と誉めそやされるだろう。
けれど、あなたは3つ程度で満足しなかった。
一連の動きが安定し始めると、左手を更に籠に伸ばす。4つ目。更に。5つ目。
部屋の天井は決して高くない。大きく放り上げるわけにはいかず、必然的に林檎の滞空時間も短くなる。
それでも、あなたのジャグリングに危なげな様子はなかった。5つもの林檎を絶え間なく宙に遊ばせながら、汗一つ掻かず落ち着いた目でそれを続ける。
この環境なら、6つまではいけるだろうとあなたは考えていた。しかし、見舞い品の林檎を万が一でも落としてしまうわけにはいかない。逆に言えば、5つであれば万に一つの間違いもないという自信があるのだ。あなたはそうやって、自分の体に尋ねる。"本当に?" 普段と変わらぬジャグリングが出来ることを確かめる。"あなたはまだ大丈夫なの?"
──うん、大丈夫。
あなたはジャグリングの手を止める。キャッチしたものから順に手早く籠に戻し、普段と変わらぬ動きが出来たことに安堵する。
「驚いたね。大したものじゃないか」
ミヅキが室内に入ってきた。ドアを薄く開き、隙間からあなたのジャグリングを覗き見ていたのだ。
「一応、これが仕事ですから」
あなたは戸惑う風もなくそう答える。ミヅキの視線には途中から気付いていた。"観衆"の目に敏感でなければ成り立つ商売ではないのだ。
「仕事……大道芸人ってやつかい?」
「はい」
「そんな若いのに?」
「そうです」
躊躇いなく頷いたあなたに、ミヅキは不可解なものを見るように眉をくねらせた。けれども、矢継ぎ早に問い質すこともどうかと思ったのだろう、彼女は疑問を押し隠して「そっか」と肩を竦めた。
「まあとにかく、今日はここに泊まって体を休めるといい。見ての通りお代を取れるような部屋じゃないから、お金のことも気にする必要はない」
「ありがとう。そういえば、今は夜なんですか?」
窓のない部屋にいるあなたに、時間を確かめるすべはなかった。夜ともなれば冷え込むはずだが、空気が淀んでいる風でもないのに室内は外気から遮断されているような印象がある。まるで白昼夢のような不思議な場所だった。色々なものがここには足りていない。たとえば熱、たとえば色。
ミヅキは水道やトイレの位置などの直近で必要な事項を告げた後、部屋から出て行った。
静かにドアが閉じられると、室内は耳が痛いほどの静寂に包まれる。そうだ、ここには音もない。
ミヅキは今日はもうここを訪れるつもりはないだろう。あなたはそのことに、軽い安堵を覚える。
もちろん彼女に感謝はしている。けれど、物問いたげな視線に晒されるとやはり心が疲れてしまう。直接訊かれこそはしなかったものの、近いうちに話さなければいけないのだろうか。それを思うと僅かに憂鬱だったが、"発作"を見られてしまった以上は仕方ないのかもしれない。
普段から薬を欠かさずにいたあなたは、発作を誰かに見られることはまずなかった。けれど、どうしてか列車で突然発作が起こり、ミヅキにはそれを知られてしまった。
きっと彼女は思っているはずだ。「どうしてそんな体で大道芸人なんて仕事をしているのか」と。
けれど、いずれにせよ知られてしまうことでもあるだろう。何より、あなたは隠すことを早々に諦めてもいたのだ。でなければ、ミヅキの視線に気付いた瞬間ジャグリングを止めることだって出来たはずだし、ただの高校生だと嘘をつくことだって出来たのだから。
自分は弱気になっているのかもしれない。
初対面の相手に色々と知られてしまった。それはミヅキがそう仕向けたのではない。あなたがそう願ってしまったのだ。
──まだ、夢を見てるのかな。
あなたはシーツにくるまり、ぼんやりと物思う。どこか現実味に乏しい世界。夢に似たそれに、あなたはとても個人的な領域に自分がいると錯覚させられてしまう。
学校にも行かず、大道芸人として各所を流れて日銭を稼ぐ毎日。親しい人も作らず、表面上の笑顔で漫然と時間を浪費してきた自分。
そうして構築された壁が少し崩れてしまったような感覚がある。
それが良いことなのか悪いことなのかも判然としないまま、あなたは白い部屋に溶け込むようにその日の活動を終えた。