世界が壊れる
「ん?」
突然何かが現れた気がした。
違和感があり、何もない場所に思わずオレは床に手を触れる。
といっても、今のオレに触角はない。ゴーストの状態だから、物を動かす事もできないだろう。
だが、手がセバスチャンが灰になって消えた辺りを通過すると。
「ひえっ!」
床からセバスチャンの声が聞こえてきた。
「え、ナニナニ?」
興味津々のマリーが俺の手元をじっと見つめる。
「えい!」
「ギャーー」
セバスチャンが悲鳴を上げた。
子ども特有の動作だ。興味があるものに突然手を伸ばしたり、足を出す。。
マリーは目をぱちくりさせたあと、ニンマリを笑った。
悪巧みをする、小悪魔の笑みである。
「えい、えい、えい!」
「マ、マリー様。やめ……ひぃーーー!」
嫌いなやつには容赦をしない。
これも、残酷さを伴った子どもならではの行動だ。
「た、助け……て」
「止めろよ、マリー」
あまりにも哀れっぽい声だったので、オレはマリーを抱き上げた。
「だけど、こいつはアキトに悪いことをしたんだよ」
マリーは足をじたばたさせる。目には正義の光があった。
自分の正しさを確信すれば行動に歯止めが利かなくなる。
いずれは、人を傷つける事や、人から奪う事を正しいと思うようになるのだ。
「オレは腹を立てていない。だから、マリーも怒らなくていい」
マリーは唇を尖らせたが、足をじたばたさせるのを止めた。
子どもは天使のように愛らしいが、同時に小悪魔でもある。むしろ、子悪魔であると感じることの方が多い。
中世のヨーロッパで、子どもを悪魔と位置づけ、虐待まがいに徹底的に教育することで悪魔の要素を追い出す。
そんな過激な教育思考があったようだ。
『ライラと黄金の羅針盤』は、そんな時代の教育を暗喩した作品だという。
熱血教師を目指す知り合いが、熱弁していた。
言っていることは正論なんだけど、行動が過激だったよなあ。あいつ。
彼自身が新聞沙汰にならなくちゃいいが……。
「ふぅ、助かった」
だが、まるで感謝など感じていない声に、さすがのオレもカチンと来た。
「なあ、このセバスチャンを倒したら俺のレベルは上がるかな」
「そうだね。ひょっとしたら、レベルが111になるかもしれないよ」
「なーるほど、それはいいことを聞いたな?」
俺が意地悪く言うと、セバスチャンが萎縮したのが分かった。
姿が見えないのに、不思議だな。
「………………」
「何か言うべきことがあるだろう」
「ゆ、許せ」
謝罪の言葉まで偉そうな奴だな。
「謝るときは、『すみません。もうしません』なんだよ」
マリーは腰に手を当て、頬を膨らませて、セバスチャンをしかった。
「あ、あなたまで、このような下賎な――」
マリー足を振り上げたので、セバスチャンは黙り込む。
「スミ……セン、モウ………」
消え入りそうな声で、セバスチャンは言った。
「声が小さいよ!」
「聞こえたから、もういいよ」
マリーに責められている間に、本当に消えてしまいそうだ。
「しかし、なんで全く姿が見えないんだ?」
「さっきのアキトと同じだね。声だけ聞こえてくるんだ」
マリーはポンと手をたたいて、神妙な表情になる。
「アキトのことをゴミくずって言ったからだよ。だから、セバスチャンはアキトみたいなゴミクズになったんだ!」
なんだか微妙に気になる言い方だな。
「どうなんだ、セバスチャン?」
「……力を吸い取られ、失ったからだ。今の私は、お前と同じゴミくずに過ぎない」
「ゴミ、ゴミー」
マリーは奇妙な節をつけて歌っている。
「このまま、私は消え去ろう。どこかの死にぞこないのように、命にしがみついて惨めな姿をさらしたくはない……」
さっき悲鳴を上げていた奴のいうことか?
「死にぞこないー、死にぞこないー」
「……マリー、もういいから」
君の言葉の方が、俺の心にも突き刺さるんだが。
「ダメだよ、アキト。やられっぱなしだと、相手が余計にひどいことを言ってくるよ!」
「それは確かだと思うけど。なんだか、オレのほうがつらくて」
「つらいのを我慢しないと、立派な大人になれないよ!」
いや、それ以前に死んでるんだろ。オレは。
「それに――」
マリーの目が突然焦点を失った。
安定を失った体を支えようと手を伸ばすが、マリーの体はオレの体をすり抜ける。
パタリと音を立てて、マリーの小さな体は床に倒れた。
「マリー!」
オレは少女を抱き上げようとするが、半透明の体ではすり抜けるだけだ。
ゴースト状態の俺には、何も出来ない。
マリーが苦しそうにうめくと、神殿の壁にひびが入った。
いや、壁を通り過ぎて『何もない場所』にもヒビが入っているではないか。
空間そのものが壊れていっているようだ。