心の楽園
「ー死にたいんです」
ぼそりと呟いた声が室内に響く。ここは華国の中でも山の中にある邸で、庭には畑が広がっていた。普段は春なので畑仕事をしているのだが、ぽつぽつと人が訪れてくるのだった。その人というのは、心の障がいを抱えた人達であり、主人の明保が対応するのだった。
「そうですか。それは…」
耳ざわりの良い声であり、歳は30代くらいだろうか。柔らかな袍をまとっており、室内も気持ちのよい日差しが入っていた。相対している人物ー開博を癒やすように観葉植物が並んでいたが、彼は酷く緊張していた。そんな博に、保は優しく話しかける。
「信じましょう。本気だと」
「!! えっ…?」
顔を勢いよくあげ、博は目を瞬かせる。まさかそう言われるとは思わなかったのだ。それというのも、他の医者や民間の施設に行ったのだが、対応はあまり芳しくなく、最後の手段と思ってやって来たのが、ここだった。
ー必ず患者を治すとはいかないが、話だけはちゃんと聞いてくれるいい先生だって噂だけど…。
博は膝の上で拳を握りしめる。もう色んなことに疲れていた。年代的には保とは歳が近く、話しやすい雰囲気だった。だから普段なら自分から話しかけないのだが、思わず口を開いてしまった。
「あの…先生…?」
「先生はやめましょうか。ここでは、名前でいいですよ」
「名前…。保さんとか…?」
恐る恐る上目遣いでうかがうと、保は楽しそうに微笑んだ。
「はい。大丈夫です」
「そうですか…」
博は安心し、袍の胸を撫でる。2人の間にまた沈黙が訪れる。その時は穏やかであり、まるで赤子を抱きしめたような愛おしさがあった。
ー何だか、気持ちがいい。
他の場所だと「早く、早く」と急かされるのだが、保は喋るのを待ってくれているようだった。焦らせないように、患者が緊張しないようにそうしてくれているのかもしれない。
「あの…保さん」
「何でしょうか?」
「…さっき言ったことは本気なのですが…?」
「死にたいんですか?」
子どものようにこくりとうなずくと、博は返事を待った。この人は何をしてくれるだろうかという期待もある。
「そうですね。うーん…。私自身がそうなので、よく分かります」
「は…?」
思わず声が出てしまった。慌てて手で口を押さえたが、保はけろりとしていた。
ー嘘だろう、おい。
博は急に苛々し始めた。自分の気持ちなんか分かるわけがないと怒り出したのだ。こいつも他のところた同じかと蔑む。
「…ふざけてますよね?」
どすのきいた声が出、博は保をじっと見る。しかし保は指を組むと、静かに言ってくる。
「どうしてふざけるんですか? 私は本気です」
「本気…。それなら、証拠を見せてください」
睨んだまま吐き捨てると保が立ち上がった。どこへ行くのだろうと思ったら、棚を開き、中から何やら取り出してくる。
「縄でしょ、刃物でしょ、農薬でしょ、あとは…」
暗くもなく、明るくもなく、淡々と道具を出し始めた。慌てたのは博のほうで、勢いよく立ち上がる。
「もういいです!! 帰ります!!」
踵を返そうとしたその時、保がぽつりと言う。
「帰るんですね。それなら一安心だ」
「…は?」
「私が道具を出した時点で、一緒にいきませんかという人もいるのですが、あなたは帰る選択をした。ということは、まだ生きたいという自分がいるということです。誰かに助けて欲しい、気づいて欲しいという欲求があるんですよ」
「…そんな…。それは、その…」
上手く言葉にならず、椅子に座り直す。卓の上にのせられた道具を見、自分もこっそり家の中に隠してあるのを思い出す。
ー自分さえいなくなれば…。
小さい頃から何度も思ってきた。いつも集団から弾かれ、馬鹿にされたり、無視されたりしてきた。それが1つ、また1つと積み重なり、ついにはこの歳まできてしまったが、もう限界だった。
ー誰も俺のことなんか見ていない。
ただの働き手としてだけ、両親は思っているようだった。そのために兄弟を作ったようなもので、人間として認められているか、怪しかった。
「あの、保さん…」
「はい、何てしょう?」
「もういいです。その、保さんは何故、死にたいんですか?」
ごくりと唾液を飲み込み、返事を待つ。すると保は顎に手を当て、答えてくる。
「そうですね。人間でいるのに疲れたと言いましょうか」
「…え? あ、あの、それは本気で…?」
「ー本気です」
真剣な眼差しと口調で言われ、博はすとんと自分の中にある何かが落ちた気がした。呆気にとられたのもある。
ー俺よりも顔がよくて、暮らしも良さそうなのに、何故…?
頭の中が混乱していた。何不自由なく暮らしているような青年なのに、どこにも陰りなんて見えないのに、何が彼は不満なのだろうか。博が口を開く前に、保が窓に向かって歩いていく。
「今日は天気がいいですね!! うーん、気持ちがいい」
明るい口調に、博は眉根を寄せる。何を考えているのか、分からない相手だった。
ー気をつけないといけないかもしれない。
体がかあっと熱くなるのを感じ、博はねめつける。
「天気なんかどうでもいいんですよ。それより俺の話を…!!」
「ちゃんと聞いてますよ。だから気持ちがいいと言ったんです」
「はい? 俺の話を聞いて気持ちがいい? ふざけるなよ!!」
怒鳴り声を発しながら立ち上がると、部屋から出ようとした。こいつも駄目かと諦めたのだった。あとはどうやって死のう、そのことばかり考えていた。すると鋭い声が飛んでくる。
「あとは死ぬだけとか考えていませんか?」
「…!! 何故…!!」
心の中を詠んだのかと思い、慌てて胸を押さえる。保は違和感のない笑みを浮かべると、椅子に座り直す。
「私だったら、そう考えるかと思いまして」
「…。あの、どこまでが本気で…?」
「全部です。あなたの辛いこと、悲しいこと、全て手に取るように分かります。双子のような感じといえばいいでしょうか?」
「…」
保は口をぱくつかせ、体から力を抜く。自分を見つめてくる眼差しは、母親のように愛おしさが混じったものだった。
ーこの人、本当のことを言ってる。
幼い頃から人の機微に敏感で、こうすればいい、ああすればいいと考えて生きてきたのだが、この保という人物は不思議な存在だった。
「お茶でも飲みますか? 少しは癒やされると思いますよ?」
「…いいえ、いいです」
小声で答えると、何となく心が動き、席へ戻る。この人物は次、何を言ってくるのか、楽しみになっていた。
「具合悪くありませんか?」
「…えっと…今のところは大丈夫です」
怒ったせいか、心はすっきりしていた。むしろ家にいるより、ここの陽だまりの中にいるような空間にいることが好ましくなっていた。
「そうですか。それは良かった」
保がゆっくりとうなずいたのを見、ほうと安堵の息を吐き出す。もう少し、もう少しだけ、この人物と喋りたいと思っていた。
「あの…俺のこと、気持ち悪いと思わないんですか?」
「何故? 同じ気持ちを共有できる人間だと思って、私は楽しい気持ちです」
「え…? 楽しい気持ち?」
保もそうなのかと思い、何だかむきになっているのが、馬鹿らしくなってきた。ははっと笑い声がもれると、保はにこりとしてくる。
「ほら、楽しいでしょう? 同じ思いを共有する、そのことで心の障がいは軽くなるんですよ」
「心の障がい…」
「はい。多分、皆さん、子どもの頃から患っていると思うので、すぐには治せませんが、ゆっくり、ゆっくりやっていきませんか?」
「…ゆっくり…」
博はぼそりと呟いた。皆、自分を見ず、薬を処方したり、上辺だけの会話で終わりにしたりと、自分勝手だったが、この人物ー保だけは違うようだった。変人といえばそれまでだが、今までどこにもいない性格の持ち主だった。
「あの!! 保さん、生きるって何でしょうか?」
「生きる…? そうですね」
思いきって聞いてみたいことを口にすると、保は少し間をあけてから答えてくる。
「りんこですか」
「は? りんご?」
意味不明なことをだが、惹かれていると、保がうなずく。
「青いりんごはまだ大きくなりきれず、食べづらいですよね? でも日が経つにつれて赤くなり、熟していくと、甘くて食べやすい。中に蜜が入っていれば、尚更、美味しくなる。人生と似ていると思いませんか?」
「りんごと人生ー」
「神は最後に食べる気でいると思いますよ。どうせだったら、美味しい時にいきたいものです」
「…」
博はもう反抗するのをやめていた。この人なら…と期待し、顔を引き締める。
「あの、保さん!! 俺の病気、一緒に戦ってくれますか?」
「はい、もちろんです。そのために、ずっとあなたを見ているのですから」
「そうですか…。良かった」
博がようやく少しだけ微笑むと、保は目に力を込め、言ってくる。
「ーじゃあ、始めましょうか。あなたの物語を」
「ーはい」
2人は真剣な様子で向き合い、戦いが始まったのだった。




