プロローグ
プロローグ
風の音すら聞こえない、静謐な夏の夜。
目の前の景色さえ不確かにさせるほどの闇が、草の音も、虫の声ですらも飲み込むように、森を完全な静寂と共に深い黒で覆っている。
小さな星々の光すらも夜闇の黒雲が覆い尽くす沈んだ空の下で、湿った空気は流れることを忘れ、ただ熱だけが重みを帯びて沈む。逃げ場のない淀みが、森を塞いでいた。
息苦しさを超えて窒息を覚えるほどの閉鎖感を覚える闇夜に、雲の切れ間からわずかな月明かりが射す。
照らされたのは赤、一面の赤。
悍ましいほどに生々しく生命の存在を主張するその色は、萌ゆる盛りの夏の深緑を嘲笑うかのように塗りつぶし、濃密で濃厚な死の香を漂わせていた。
主を失った甲冑の手足が、花弁のように散らばり、支えを失った胴たちが無造作に打ち捨てられ、その中心に唯一地に足を付けた鎧姿が佇んでいる。
首は、無い。首を絶たれたばかり体あcだけが、その断面から噴水のように新たに朱を散らし、光景に彩りを加えていた。
あまりに綺麗に断ち切られた所為か、中核を失っても尚、手足だけ僅かに振動を続けている。
それはまるで本体を切り離された蟻の死骸を思わせる動きだ。
痙攣に併せて無駄に華美な装飾を施された鎧が合わせて耳障りな金属音を発する楽器と化し、鎧の右肩に掘られた特徴的な金獅子の貌も、赤黒く塗りつぶされて表情が見えない。
胴体の主は、中々に身分の高い者であったらしい。
その頭はわずかばかりに離れた草陰に最期の瞬間の表情を張り付けたまま、胴と対照的に微動だにせず転がっている。
口角の限界まで開かれたためか端々が裂けた頬に、歪み外れた下顎。
血泡が穴という穴から流れ出た体液の形跡。
それらは少なくとも、彼の最期が極限までの恐怖に彩られていたことを物語っていた。
眼球が半ば飛び出し大きく開かれた目蓋の、光を失った眼球は一点を見つめている。
視線の先には、小さな影。
人形のような女だった。
幼子と見紛うほど小さな体躯から伸びる手足はあまりに細く、触れれば脆く砕ける陶磁器を連想させる。
黒装飾の衣装の袖口から見える肌はこの場のどの骸よりも白いが、視線の主とは違い首は胴と繋がっており、闇夜に溶けるほど黒く、腰まで伸びた長髪が肌の色と極端なコントラストになっていた。
ただひとり、五体満足でこの死に溢れた空間に存在する彼女は無表情に、髪と同じく光を映さない瞳は再び閉ざされた夜空に向けられている。
呼吸もしていないのか、全く微動だにしないその様子は既に彼女が地面を転がる者たちの同類になってしまっているかのようにも見えた。
黒雲の切れ間から、月明かりが彼女の輪郭を照らし出す。
淡い光が頬をかすめた瞬間、それまで闇のように黒く濁るばかりであった瞳に銀の光が宿る。
闇に沈んだ眼球がわずかに動き、蛇のように細い虹彩が露わになった。
それは人形に命が注がれたかのように
瞬間、彼女の小さな口からはっ、と白い息が漏れる。
僅かに胸が上下し、彼女はゆっくりとまばたきをした。
「あと3つ」
薬指に嵌められた指輪の刻印を、細く白い指で愛おし気に撫でながら呟く。
彼女の呟きは誰の耳に残ることもなく、闇夜に溶けていく。
「もう少しで、会えますから」
死人のように凍り付いていた身体が、熱を取り戻していく。
それまで何も映していなかった瞳に月明かりが吸い込まれるように光を灯す。
それは焦がれるような、祈るような、
呪いのような笑みだった。
諸々の理由で引出しに眠っていたた小説の供養です。
悪役令嬢の母ですが、の次更新までの繋ぎに是非




