001
「割りに合わない」
切れかけの街灯だけが足元を照らす暗闇を、重い足取りで進む。血で胸元に貼りついたシャツを剥がしながら、ヘイズはうんざりとして吐き捨てた。
四層までの道をまだ半分も歩いていない。昼頃には帰るはずの予定が総崩れである。
そも、ヘイズの今日が最悪な一日になった原因は二日前に受けた依頼にあった。
ある男の捜索を開始して一ヶ月。尻尾すら掴めない状況に辟易して珈琲を呷っていた昼下がり、脂汗塗れの顔をした男が、ノックもせずに事務所に飛び込んできた。
名前は何だったか、今となっては覚えていない。黒色混じりの汚い金髪だけが印象に残っている。とにかく、痞え気味の口調で名乗った金髪は、どうやら厄介な連中に目をつけられたらしい。ヘイズが無礼を窘めるより早く捲し立てた内容は、温い環境で自力を過信した若造が本物の悪党に目を付けられ、奴隷の身分に落ちたというありきたりな話だった。
一息で話し終えた金髪は嗚咽交じりに連中の排除を依頼してきたが、気乗りはしない。男の涙に価値などないし、常識知らずの餓鬼に優しくできるほど親切ではない。断りを入れようとヘイズが腰を上げると、金髪は慌ててポケットを弄り、紙幣の束を差し出した。
二百万クレジットはある。破落戸の掃除にしては破格の前金だった。
訝しんだヘイズが金の出所を尋ねると、どうやら金髪は中々のボンボンで、親に泣きついて何とか金を工面したらしい。足りなければ上乗せも考えると付け加えた。
ヘイズは座り直して再考する。
金髪が挙げた親の名前は偶然にもヘイズが一度依頼を請けたことがある人物で、確かに実在する。また、金髪は連中の内情に詳しく、情報に不審な点も見当たらない。早ければ二日で終わる案件である。
簡単な殺し。難航する捜索。赤字にはならない報酬。
息抜きも必要か。
要素を天秤にかけたヘイズは逡巡の上、金髪の依頼を引き受けることにした。
それが間違いだった。
決行の当日、連中の溜まり場に足を運んだヘイズを十四人の屈強な男達が待ち構えていた。数や武装状況、健康状態に至るまでが前情報と尽く違っていた。
無論、ヘイズは金髪の話を鵜呑みにした訳ではない。簡単にではあるが下調べを行ない、近場の情報屋を捕まえて裏も取っていた。
それらも全て嘘なのだから、金髪の狙いは最初からヘイズを誘い出して始末することだったのだろう。入念な準備を必要とする人数が関わっていた。
結局、騙されたヘイズは態勢の整わないまま血みどろの銃撃戦に突入する羽目になり、連中を片付けるのに半刻もの時間を要した。持ち込んだ弾丸は全て消費され、調査費用も合わせると前金の儲けはごく僅かである。何より、苦労に報酬が見合わない。
金髪には責任を取らせる必要がある。
ヘイズが血溜まりの中で取立ての算段を立てていると、転がる死体の中に見覚えのある顔を見つけた。
眉間に穴の空いたそれは、金髪の遺体だった。脅されていたのは事実のようで、用済みになった使い走りの金髪はヘイズが手を下すまでもなく事切れていた。
依頼料を取立てようにも金髪の親は上層に住んでいるため接触自体難しく、腹いせの報復も叶わない。ヘイズはぶつけようのない苛立ちを抱えたまま、一人帰路に着いたのだった。
下層から四層までの道程は長い。一日の失敗を振り返る時間は充分にあり、歩を進める毎に着実に神経を削っていく。
地面を睨みつけながら真っ直ぐに歩いていると、踏みならされただけの道が疎らに舗装され始め、辺りが仄かに明るくなる。釣られて顔を上げると予想通りの情景が広がっていて、ヘイズは再び大きな溜め息を吐いた。
石造りの長く幅広い階段と、その先に見える派手な電飾、耳障りな喧騒。本通には賭場や娼館などの如何わしい商売が当たり前のように立ち並ぶ。行き交う人々は皆一様にぎらついた目をしていて、他者を食い物にすることを憚らない。本日の犠牲者らしい初老の紳士が階段半ばに投げ捨てられていて、血塗れの死体を浮浪者が漁っていた。
第三層街、通称夢街。
夢とは名ばかりの、溝臭い欲望で満ちた街。
ヘイズはこの街が心の底から嫌いである。
建築様式がばらばらで一貫性のない景観もそうだが、店も、人も、あらゆるものに品がない。馴れ馴れしく絡んでくる輩の中には富裕層の人間も混じっていて、暴力での解決が選択しづらいことも気苦労を加速させる。
ともすれば貧民ばかりの下層より面倒な街であるが、都市の構造上、ここを経由しなければ事務所に辿り着くことはできない。
ヘイズは薄く息を吸い込んで腹を括り、穴だらけになったフードを目深に被った。長い階段の一段目に足をかける。
上へ向かう度、浮浪者の舐めるような視線が突き刺さる。奴らのほとんどは襲いかかる度胸のないろくでなしなので実害は少ないが、気分が悪いことに変わりはない。ヘイズは疲れた体に鞭打って階段を登り進め、ようやく頂上に到着すると無人の検問所を素通りした。
本来ならば検問所は都市の身分制度を保障する最重要の施設であり、入層に際して厳密な審査が行われるが、夢街においてはその限りでない。ここがまともに機能していればいらぬ苦労をせずに済むのに、とヘイズは通り抜ける度に思う。
検問の無骨なゲートの先には、階下で感じた騒がしさを一層強くした本通が広がっていた。何人かの目敏い下衆が、入層したばかりのヘイズをじろじろと品定めする。
人の数ほど厄介事が増える。夢街はそういう場所だ。
ヘイズは出来るだけ体を小さくして人混みをすり抜け、すぐ横の路地に入った。
本通を外れただけで目が痛くなる光は途端に失せて、耳を塞ぎたくなる騒がしさは遠くに聞こえる。表と裏、というほど治安に大した差はないが、人でごった返した本通とは違い、朽ちかけた集合住宅が並ぶ路地裏は異質な静寂に包まれていた。人が少ないからといって厄介事がなくなる訳ではないが、直接的な暴力に訴える輩が多い分、都合がいい。
ヘイズは腰に挿した拳銃の握りを確認すると、四層街に向かって早足で歩き出した。道順は体が覚えているので迷う心配はない。聴覚を研ぎ澄ませて人の気配を鋭敏に感じ取り、右へ左へと最小限の迂回を混ぜながら路地を進む。
事務所まであと半分といったところだろうか。ヘイズは不意に足を止め、壁に身を寄せた。
微かではあるが、女の啜り泣く声がする。
発信源は曲がり角を一つといったところで、進路を変える必要はない。屑共の集まりである夢街において力の弱い女子供は格好の獲物であり、それらが犠牲になることが茶飯事であることも十全に理解している。
助ける義理はない。
しかし、ヘイズの足は思考が下した決断とは真逆に、声の先へと向けられた。
普段ならば聞かなかったことにして当たり前のように通り過ぎ、事務所で眠る頃には記憶に一欠片も残ることのない出来事だろう。
ヘイズの体を動かしたのは同情や道徳心ではない。ただ、むしゃくしゃしていただけだ。間抜けにも騙されてしまった自分や、思うように進まない捜索で溜まった苛立ちを、大義名分を持って発散できる何かを探していただけだった。
子供じみた八つ当たり。
自身が嫌う人種と同じ思考をしていることを自嘲しながら、曲がり角の先に姿を晒す。そこに広がる予想通りの光景に、ヘイズは引き攣るように口角を上げた。
漆喰の壁に挟まれた細い路地。
窓から漏れる淡い生活光。
転がる酒瓶。
道を塞ぐように背を向けた二人の男。
響く水音。
鼻に纏わりつく性臭。
遮二無二腰を打ち付ける男と、全裸に剥かれて組み伏せられた女。
ヘイズの眼前で強姦が行われている。
嫌悪で身体が熱を持ち、自然と右手が銃を抜いた。自前の弾は使い切ってしまったが、連中から徴収した粗悪なものが幾つか装填されている。徒手格闘に拘った方が欲求解消には向いているかもしれないが、手前で腕を組んだ馬鹿みたいな数のピアス穴を開けた男は屈強な体つきをしている。安全に憂さを晴らすには道具に頼る方がいいだろう。ヘイズは簡単に殺しの算段を立てると、わざとに爪先で石畳を叩いた。
黒革を鞣して作られたブーツが甲高い音を響かせ、男達が一斉に振り返る。視線には敵意が込められていたが、狙いの定まる距離まで接近を許した時点で死んだも同然である。ヘイズが奇襲を仕掛けなかったのは気紛れでしかなく、今更取り繕ったところで格好がつくはずもない。
獣のような行動原理に愚鈍な反応。自らを顧みる知性もない。殺したところで問題はないだろう。
ヘイズは酷薄な判断とは裏腹に愛想を込めて笑顔を作った。夢街では純真な生娘より、荒んだ雰囲気の方が受けがいい。ヘイズの打算的な笑みの効果は覿面で、男達の険しい目つきは瞬く間にいやらしく歪み、あっさりと警戒を解いた。ピアスだけは完全に体の力を抜いていないので、恐らく奴が頭なのだろう。多少は荒事に慣れているようだが、緩んだ口元を見るに危険度は高くない。
「こんばんは。その子、嫌がってるみたいだけど」
「あ? そんなの関係ねぇじゃん。それともなに、君が相手してくれんの」
「まあ、いいけど。その子よりは上手いと思うよ」
ヘイズが簡単に答えると、細身の男が口笛を鳴らした。少し前に見た映画の俳優は様になっていたが、男のニキビ面では気色悪さしか感じられない。
ヘイズが顎をしゃくって返答を促すと、男達は顔を見合わせてこそこそと話し始める。大の男が身を寄せ合って耳打ちしている様子は非常にむさ苦しい。
数分、退屈な時間を過ごしていると、話しがまとまったらしく、ニキビ面が跳ねるようにして近づいてきた。軽薄な足取りは極めて不快だが、ヘイズは笑みを崩さない。
「つうか、君みたいな可愛い子が、マジで?」
「……偶々そういう気分だっただけだよ。運が良いね」
ニキビ面がおよそ二歩の距離で動きを止める。あと半歩近ければ必殺の距離だった。運が良い奴だ、と心から思う。
間近でヘイズを見て、脅威でないと確信したのだろう。ニキビ面が汚い顔をぐっと寄せて耳元で囁いた。
「君も運いいよ。俺が天国連れてってやるからさ」
馬鹿が。
ヘイズは爆発的な瞬発力で銃身を晒し、躊躇なく引金を引く。火薬の閃光が路地の暗闇を裂き、ニキビ面の睾丸が弾けた。
喧しい悲鳴を喉ごと握りつぶして引き寄せる。間髪入れずに銃声が響き、ニキビ面の体が震えた。反応の速さから射手をピアスと断定する。
尚も銃撃は続くが、そのどれもが貫通しない。男としては不能だが、肉壁としては役に立つ。待つだけはつまらないので、三度目の銃声と共にヘイズはニキビ面を盾にして駆けた。
脚をつまづかせるニキビ面の鳩尾を押して、強引に走らせる。人を掲げて走るにはヘイズの腕は細すぎるが、ピアスとの距離は目測で六歩ほど、間に合う距離だった。
しかし、ニキビ面は次々と放たれる銃弾に耐えることが出来ず、あともう少しのところでとうとう生き絶えた。膝ががくりと折れ曲がり、靠れるように体が傾く。
ヘイズは小さく舌打ちして、崩れ落ちるニキビ面を踏み台に跳んだ。
宙空でピアスと視線が交差する。驚愕に見開かれた目はヘイズの姿を追ってはいたが、銃を握る右手は前方に向けられたままだ。即座に反撃に移った判断は中々のものだが、立体の動きに対応できない程度ではまだ甘い。
ピアスが撃つよりも早く発砲する。心臓を狙ったが、左の肩に着弾した。弾頭が歪んでいたせいか直進しない。自身の選定眼を呪う。
だが、反省ばかりもしていられない。今は戦いの最中であり、体は宙にある。ヘイズは膝を畳むと、勢いをそのままに肉のえぐれた左肩に蹴りを見舞った。
ピアスの体が後ろに大きく流れ、痛みに耐えきれず倒れる。ヘイズはしなやかに着地すると一足跳びでピアスに接近し、無防備な顔面に膝を落とす。
歯肉を纏った黄ばんだ前歯が視界を横切る。丁度いい空洞を作ることが出来たので銃口を口内にねじ込み、脳幹に向けて引金を引いた。
聞き慣れた発砲音が響く。ピアスはびくりと体を浮かせた後、動かなくなった。正面切っての戦闘ならば、こう上手くはいかなかっただろう。思惑通りに事が進んだので、少しだけ腹立たしさが薄れた。
取り敢えず、あと一人。
ヘイズがゆらりと立ち上がって振り返ると、一筋の風が前髪を揺らした。
先程まで必死に腰を振っていた男が笑う膝を懸命に抑えて銃を構えている。股間が丸出しなのでふざけているようにしか見えない。
「あああああ!!」
吠えたところで射撃の腕が上がる訳でもない。
滅茶苦茶な狙いで放たれた銃弾はヘイズの足元や壁の破片を巻き上げるだけで、掠りもしなかった。ヘイズは手本を見せるように両手で構えて、じっくりと照準を合わせる。
男が弾倉を打ち切るのに合わせて、撃つ。
弾丸は眉間へ一直線に飛び込んでいき、鮮やかな血飛沫を上げた。仰け反って倒れる男の股間は小さく隆起していて、その情けない死に様をヘイズは鼻で笑った。
◇◆◇
破落戸を痛めつけ、少しだけ気が晴れたヘイズは血溜まりを飛び越えて全裸の女に近寄った。
逃げてしまえばいいものを、女は縮こまって戦いを傍観していた。両手で体を抱きしめながら、ヘイズをジッと見つめている。しかし、唇はわなわなと震えていて瞳は絶え間なく揺れている。まるで、得体の知れない化け物を見るように。
女が動かなかったのは胆力が優れている訳ではなく、目前で繰り広げられた殺戮の一風景を脳が処理仕切れなかっただけだろう。呆然とへたり込む姿を愚図の一言で片付けてしまうのは簡単だが、乱暴された直後の女に掛ける言葉としては酷だと思う。刺激しないように緩慢な動きで屈んで目を合わせる。
「大丈──」
気遣いの声を掛けようとした矢先だった。女の両手が蛇の如き素早さでヘイズの細首を締め上げた。突然の攻撃に対処が遅れる。それでも、数多の死地を潜り抜けた体は意識せずとも戦闘用の思考回路に切り替わる。
伸び切った肘の関節を折り曲げて、鼻頭に頭突き。
指を目に突き入れる。
空いた右手で腹を撃つ。
女の技術は稚拙で、幾らでも方法はあった。そのどれもが実行に移されなかったのは、女の力が余りにも弱々しかったからだ。剥がれかけた爪では皮膚を削ぐことすら難しい。欠食児童の方がまだ力がある。
女の細指は到底命に届きそうにない。それをいいことに、ヘイズはじっくりと女を観察する。
頬と目の下が打撲で青く腫れていて、亜麻色の髪は強引に引き摺り回されたのか酷く乱れてしまっている。耳飾りを千切られた痕が痛々しく、体中に掛けられた男達の体液が乾いて薄く固まっていた。
随分手酷く扱われたようだ。見れる顔をしている分、悲壮さが増している。
ヘイズはどうしたものかと呑気に考える。女性を慰めた経験はないこともないが、どうにも嘘っぽくなってしまう。恐怖に支配された人間に上部の言葉をかけたところで、どれほど効果があるものか。
ヘイズは首を絞められながら頭を悩ませ、悩みに悩んだ末、女の強張った指に手を添えた。青白くなった指先に体温を移すように。
所詮、情夫の自分には触れることでしか女を慰められない。未だ過去に縛られる自分に対しての自嘲を押し殺し、柔らかく笑う。
「怖かったね」
幼子をあやすように、穏やかに言った。甘くて優しい、だが、どこか哀しみを帯びた声音が女の鼓膜を震わせる。
小刻みに揺れ続けていた瞳がヘイズの顔を初めて捉えた。淡褐色の瞳に涙が滲み、琥珀のように煌めく。
「あ……」
女の頬を大粒の涙が伝う。
「大丈夫」
細く滑らかな指は呆気なく首から剥がれ落ちた。
「もう、大丈夫」
もう一度、穏やかに言う。女の緊張の糸は完全に切れたようで、薄い唇から微かに嗚咽が漏れ出す。
ヘイズは黙って、女の静かな涙が石畳を濡らすのを眺めていた。
◆◇◆
数分が経った。
堪えるように泣き続けた女は、健やかな眠りについた。寝息とともに膨らむ胸がなんとも生々しい。そっと上着を掛けて肢体を隠したところで、ヘイズは長い溜息を吐いた。
正直なところ、眠ってしまうのは想定外だった。
夢街に暮らす女性は娼婦が大半を占める。彼女達は良くも悪くも強かで、暴行を受けて取り乱すことはあっても、すぐに気持ちを立て直す。女のように道の真ん中で無防備な寝姿を晒すことは決してない。
甘ったれた常識を持つ女は、ここより上層からやってきた富裕層であるはずなのだが、金持ち連中が護衛を引き連れずに夢街を歩くことはないし、路地に立ち寄る理由もない。
身元にまるで検討がつかない。このまま路地に放ってはおけないので事務所で保護するしかないが、見知らぬ女を住居を兼ねた事務所に引き入れるのは抵抗がある。
携帯を義務付けられている等級証明証も、全裸では期待できない。何か手掛かりはないか、再び女の全身を改める。
ぼんやりとした灯に照らされる肌は白く、下層の住人にしては肉つきが良い。泣き腫らした瞼に生える睫毛は長く、男達に乱暴に扱われた髪も以前は丁寧に手入れされた跡が見てとれた。
あどけない寝顔だが、顔のつくりははっきりしている。二十歳は超えているだろう。下手な化粧は涙で引き伸ばされてぐしゃぐしゃになってはいるが、口が半開きになった寝顔にはどこか見覚えがある。
しかし、ヘイズに夢街の路地を彷徨くような知り合いはいない。謎の既視感の正体を暴くため、手探りで記憶を辿っていく。
先月の依頼主は、髪色が黒だった。バーで出会ったあの女はもっと背が高かったし、刃物を向けてきた路上強盗は肋が透けるほど痩せていた。
直近の記憶すら朧げな頭にヘイズが苛立ちを募らせていると、寝惚けた女がへらりと口元を緩めた。
その表情に強烈な既視感を覚えたヘイズは、後ろのポケットから一枚の写真を取り出す。上層の新技術によって薄っすらと色づいたそれに写っているのは、上等なスーツに身を包んだ優男とはにかんだ女が腕を組んで歩いている様子であった。女の垢抜けない笑顔は、膝の上で眠る気の抜けた笑みとよく似ている。
そこで、ヘイズは全てに合点がいった。
間違いない。女はアイビー・ヘリオドールだ。
ヘリオドール家は人間が到達できる最上層、七層街に住むことを許された貴族である。貴族はそれぞれの産業を統括する財閥の最高権力者であり、中でもヘリオドールは建築を担う三大貴族の一角だ。住宅や商業施設のみならず、検問などの公的な建築物を一手に引き受けており、蓄えた財は他の貴族が束になろうと到底敵わない。
下層とは程遠い殿上人。それがヘリオドール家である。
しかし、つい一週間前に報じられた事件が、今ここにいる彼女の存在に現実味を持たせる。
ヘリオドール家は財閥を降ろされた。新当主の手腕が余りにも悪かったのだ。金だけを消費する杜撰な建設計画に、度重なる不祥事が原因で、都市の歴史上初めて貴族が処罰される事態になった。この大々的な事件で築き上げてきた地位を失ったヘリオドール家は一家総出で行方をくらまし、先日不運にも発見されてしまった当主は民衆の手によって首を落とされた。
現在も捜索が続いているのは当主の妻と娘。新聞に載せされた写真と遜色ない顔立ちは、女がアイビー・ヘリオドールであることを示している。追手を逃れて下層へ向かったのだとしたら、彼女が夢街の路地で転がっていることにも納得がいく。
ヘイズは上着のフードを深く被らせて女の顔を隠し、起こさないよう慎重に背負う。
新聞はまるで彼女らを犯罪者のように取り上げていたが、都市は保護する立場を取っている。彼女の安全を思えば、警ら隊に引き渡すことが最善だろう。幸い信頼できる知り合いはいるので、多少手間ではあるが清廉な人間であれば迷う余地はない。
しかし、ヘイズはそうしない。写真に写された彼女がアイビー・ヘリオドールだというのなら、詰まった依頼を解決するための重要な手掛かりとなる。
傷ついた女を自分の都合で利用することを戸惑いなく思案する自分に皮肉な笑みを浮かべて、ヘイズと女は路地の暗闇へ消えた。
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