ぬいぐるみに餌を与える少女
バビロニアの孤児イシュタルは、道の小石を拾い上げては、小脇に抱えたライオンの玩具に餌として与えていた。
街行く人々は、玩具に餌を与えても意味はないと彼女を否定した。
だからイシュタルは、玩具に餌を与えるより意味のあることなどないと彼らに説き始めた――。
人は利によって動くものであり、だから利によって意味を定めるが、その先で求めるものを得ることはないだろう。
長寿を望む者はいつか死に、健康を求める者はいつか病に倒れ、愛を求める者はいつか捨てられる。
肉として生まれることは苦であり、この世は魂の牢獄にすぎない。
女に愛を説く男達に愛があるだろうか?
女の身体を用いて自らに埋め込まれた性欲の痛みを解消しようとしているにすぎない。
それは、相手を愛しているのではなく、相手を道具として利用しているのだ。
男に愛を説く女達に愛があるだろうか?
相手を地位や金銭で測るならば、やはり金や安定した生活を欲して自身の繁殖力を販売しているにすぎない。
それは、相手を愛しているのではなく、相手を道具として利用しているのだ。
子に愛を説く親達に愛があるだろうか?
子を持って育てることは楽しいし利益があるが、この世にもう一つの肉を産むことは本人の自由意思ではない。
それは、相手を愛しているのではなく、相手を道具として利用しているのだ。
動物をペットに飼って家族とし餌を与える者に愛があるだろうか?
獣は獣の家族のもとで草原を駆け回ることが最高の幸福であり、人が一方的権力で環境を強いることは奴隷化にすぎない。
それは、相手を愛しているのではなく、相手を道具として利用しているのだ。
人が誰かを友人として遇すれば相手はその人の友人になってくれるだろうか?
孤児が街行く大人を家族として遇すれば相手はその孤児の家族になってくれるだろうか?
愛は必ず報われない。人は利によって動くものだからだ。
ウル(ライオンの玩具)を抱きかかえて餌を与えることに愛はあるだろうか?
私はウルを、決して立ち去ることがなく毎日ともに寝てくれる家族として確かに利用しているだろう。
しかし魂を持たないウルには生きる苦しみもないから、苦しみを強いていない私の愛は否定されない。
ウルに餌を与えてもクソを垂れることはない。ハラワタがないからだ。
食べる口や歯すらない。しかし、口中やハラワタはどこか恐ろしく醜いではないか。
ハラワタが醜いと感じるのは、私達が機械である事実が、幸福の上限を囁くからだ。
人々は富裕を志し、家族を形成してそれが勝者の模範的な人生像だと自認する。
そして、家族や財産を形成しなかった者達について、努力しなかった無能な欠陥品だと蔑むのだ。
それは、他者を道具として利用する利が、義と錯覚されるほど盲目になってるにすぎない。
あなた方が言う「意味」とは、そうして錯覚された義、つまり利に基づく悪徳の影である。
一方で、真実の意味は本来の義の側にあり、他者を道具と見なさず心から幸福を望み共感するところにある。
しかし、都市で誰かに誠実に生きれば搾取されるだけなのだから、人は玩具を愛でるより他にないではないか。
すなわち、ウルに餌を与えることは義の最小にして唯一の安全圏だ。
私はそれをやめることができるが、そうすれば私に意味はなくなる。
私は今ここに、完全で至上の愛を実践している。
私はウルに餌をやり、飢えを癒してウルが喜ぶさまを夢想して楽しむ。
街行くあなた方はその姿を見て狂人と呼び、心の壊れた憐れむべき人と見なす。
しかし、真の愛を忘れて生きるあなた方こそが、私から見れば壊れている。
――人々はイシュタルの教えを聞いて少し戸惑った。
しかし、すでに手にしている山ほどの快を無意味なものとして否定して、街角の飢えた孤児に何を見習うことがあるだろうか。
人々が見守る中でもイシュタルは満足そうに微笑みながらウルに小石を与え、小石はウルの口元から落ちてポトポト虚しく音を立てていた。
小さな演説会が終わり、ウルがちょうど満腹になったと感じたイシュタルは、路地裏のねぐらに戻り、抱きしめるように玩具をかかえて眠りに落ちた。