悪役令嬢こんにゃく破棄
「リディア=セレスティーナ=オルグレイン。貴様との婚約は、本日をもって破棄する」
そう言われたとき、私は何も言えなかった。
──婚約破棄。
宮廷に響いた王太子アルヴィスの声。
静寂に包まれた広間。ざわめく貴族たち。
「平民の聖女を、君は繰り返し虐げていた。もはや正妻の資格はない」
「……わかりました」
すべては出来レースだった。
聖女と呼ばれたミリアは、私を見ながら小さくほほ笑む。
それは、あの頃からのささやかな復讐。
私が知らずに傷つけていた、かつての彼女の“心”。
その日を境に、私は“悪役令嬢”と呼ばれるようになった。
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父は何も言わなかった。ただ私を静かに抱きしめ、辺境の別荘に送ってくれた。
春が訪れたころ、私は村の老夫婦と暮らし始めた。
名前は言わず、ただの“リディア”として、毎日を過ごした。
ある日、老婆が夕飯に出してくれた。
「今日はね、田舎風の煮物。こんにゃくも入ってるよ」
それは灰色の、不格好な形をした食べ物だった。
私が知っていた貴族の食卓には、滅多に並ばない庶民の味。
──けれど、ひと口食べたとき、不思議な温かさが胸に広がった。
「おいしい……」
「そうだろう。手間はかかるが、手をかけるほど味が染みる。こんにゃくは、時間の味なんだよ」
それから、私はこんにゃくを煮るようになった。
朝早くから出汁を取り、ゆっくりと味を染み込ませる。
手をかけたぶんだけ、美味しくなるその食材が──どこか、自分のように思えた。
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夏のある日、王都から手紙が届いた。
“王太子アルヴィス殿が婚約解消を悔い、再度謁見を求めておられる”
私は、手紙を読み終えると、何も言わずにキッチンへ向かった。
そして、火にかけていた鍋の蓋を開ける。
「……どうしようか、こんにゃく」
ひとりごとのようにそう呟いた。
煮えたこんにゃくは、じっと私を見ているようだった。
──私が“破棄”しようとしたもの。過去、誇り、そして愛。
私は自分自身を、断罪していたのだ。
「あなたのせいじゃない。でも、あなたを手放したら、きっと私は……」
私はひと切れだけ、丁寧に皿に盛った。
答えは、まだ出ていなかった。
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王都に戻った私は、謁見の間で王太子と再会した。
「リディア……君に、謝らねばならない」
「ええ」
「私は、君を理解しようとしなかった。誤解し、噂を信じ、そして……」
「わかっています。あなたに悪意はなかった。けれど、私にも非がありました」
私は微笑んだ。
「誰かの痛みに、目を向けようとしなかった。私は“悪役令嬢”でした。まぎれもなく」
しばらく、沈黙が続いた。
その後、彼は静かに問いかけた。
「君は……これから、どうするつもりだ?」
「もう一度、こんにゃくを煮ようと思います」
「……え?」
「ゆっくり、時間をかけて、今度こそ心を込めて煮てみるの。もう二度と、自分を破棄したりしないように」
アルヴィスは、目を見開いて、それから笑った。
「……君らしいな」
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秋が来た。
山の空気が澄み、紅葉が窓辺を染めた朝。
私はこんにゃくを火にかけた。
やわらかく、優しい香りが部屋に広がる。
しばらくして、一切れのこんにゃくを手に取り、窓の外を見ながら、こう呟いた。
「これで、最後」
そして──私はそれを、そっと、手のひらから落とした。
鍋の中ではなく、庭の土の上に。
「もう、私の中には残さないわ。後悔も、痛みも、誰かへの憎しみも」
こんにゃくは、ぽとりと音を立てて、静かに落ちた。
私はそれを見つめながら、微笑んだ。
「──ありがとう。私に、戻る道をくれて」
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数年後。
私は、辺境の小さな食堂を開いた。
看板メニューは、「心を込めた、こんにゃく煮」。
村の人々が笑い、通りがかりの旅人が「こんなに優しい味は初めてだ」と言ってくれる。
王都から、手紙が届くこともある。
王太子ではない。今は、一人の“アルヴィス”として。
彼は最後にこう書いていた。
君が“破棄しなかったもの”が、君を救った。
僕はまだ、それを探している最中だ。
でも、あの味を思い出せば、きっと、辿り着ける気がする。
私は笑って、鍋の蓋を開けた。
今日もまた、こんにゃくが、私の心にやさしく染みていく。