第5話
桜と映画を観た翌日の日曜日の朝。海人の母は、喜びと悲しみの面を海人に見せていた。何だろうと思い、様子がわからないので母に聞いた。
「母さん、どうしたの?」
海人の母は、作り笑いの顔でこう言った。
「お父さんがね、帰って来ていないのよ。昨夜、泊まりになるって電話があってね。お父さん、最近、働き過ぎでちょっと心配なのよ。でも、桜ちゃんが来てくれるし、母さん頑張るわよ」
母は寂しさを紛らわせるように昼食の下ごしらえを始めようとしていた。
そんな中、海人の母は、申し訳なさそうにこう言った。
「あのね。お父さん、会社に泊まりだから、着替えとお弁当を届けたいの。それを海人に届けてもらおうと思うけど、どうかな?」
海人には断る理由もないので、母の提案を受け入れることにした。
しかし、海人にはある心配もあった。
「でも、桜ちゃんが来るけど、どうするの?電話して中止にしてもらおうか?」
母は申し訳なさそうに言った。
「桜ちゃんが帰ってからでいいわよ」
「それでいいんだね。わかった」と海人は言い、桜の到着と母の料理が出来るのを待つことにした。
桜が海人の家に来たのは、昼の1時間前で、少し早いかなと思ったが、桜には何か考えがあるようで、予想していなかった言葉を聞くことになった。
「あのね、私、食べるだけじゃなくて、海人君のお母さんのお料理のお手伝いをしたいけど、ダメ…かな?」
桜ちゃんらしい提案であった。
海人の母は大喜びで、父のことは忘れてしまったかと思えるように見えた。
海人は一人待つ身となったが、母と桜が楽しそうに料理をするのを見て、心から微笑ましいと思った。
時計の針が12時を指す頃に、海人の母と桜ちゃん合作の料理は出来上がった。母と桜ちゃんの合作料理からは、美味しそうな匂いが漂っていた。海人は、ワクワクしてテーブルの椅子に座った。出来上がった料理は、和洋中とどれもが海人の好きな料理がテーブルに並んでいた。
母と桜ちゃんと3人での昼食会は、楽しいものになった。海人は勿論、母の料理は食べ慣れている。それに、桜の料理も加わって、食卓に華が咲いたかのようであった。
海人の母と桜は、海人が子どもの頃の話しをしながら食べていたので、特に母は食べた料理を吹き出しそうであった。
桜はといえば、ニコニコと微笑みながら聞いている。
海人は自分の子どもの頃の話しのどこが面白いのかと思ったが、口には出さないでいた。
楽しい食事会が終わりに近づくにつれ、海人はある記憶を思い出していた。
母からの頼まれもの。父に着替えと弁当を届けることだ。
そんな時、海人の母は、ある提案をした。まるで海人は自分の心が読まれたかと思ったくらいだ。
「桜ちゃん、もしよかったら、海人にこの後付き合ってもらえないかしら?」
桜は目を瞬かせ答えた。
「お付き合いしていますよ、お母さん」
母は笑いながら、付け加えた。
「あのね、うちのお父さん、昨日から会社に泊まり込みなのよ。お仕事なんだけどね」
母は更に付け加えた。
「もし良かったら、海人と一緒に着替えとお弁当を届けてくれると嬉しいのだけど、どうかな?」
海人は予想外の展開に、母の提案に少しビックリしてしまっていた。
桜がわざわざ海人の父の会社に行く必要はないからだ。
「はい、是非、お願いします。海人君のお父さんとお話し出来なかったから、私もお会いしてお話ししたいと思っていました。だから、是非、行かせて下さい」
海人は自分の耳を疑いたくなった。桜からこのような返答が出るとは思わなかったからだ。
「じゃあ、桜ちゃん、お願いね。海人は桜ちゃんに何かあったら許さないから。海人が桜ちゃんを守るのよ」
海人の母は、ウィンクして、料理の後片付けを始めた。
「お母さん、私もお手伝いさせて下さい」
「ありがとう、桜ちゃん」
海人の母と桜が料理の後片付けを始めるが、今の海人には、それを見守ることしか出来なかった。
「俺も料理が出来るようにしないといけないな」
その海人の言葉は、料理の後片付けに一生懸命な母と桜には届かなかった。