第2話
海人は迂闊にも忘れていた。桜と一緒に映画を観るという大切な約束を失念していた。
桜は海人と同じ大学の大学生で、今更ながら、あの時の出来事が思い出されていた。桜と初めて会話を交わした日のことである。
季節は晩夏を迎えようとしていた大学1年目の頃。海人の専攻は、日本文学で、講義を受ける海人の隣に少し距離を空けて座る女の子の存在に気づいたことからだった。彼女の白のワンピースが印象的で、海人は可憐な女性だなと第一印象だった。ちなみに、二人の通う大学は、転籍が認められており、専攻科を二年続ければそれが可能でもあった。
講義が終わると、普通は皆退室して行くのだが、その日は違った。その少し距離を空けた女の子が話し掛けて来たからだ。
「あの…海人君ですよね?」
海人の苗字は、夏目であり、いきなり下の名前で呼ばれてビックリし、驚きと胸が爆発しそうなくらいにドキドキしたのを思い出す。
「そうだけど…君は?」
「あの、私、和泉桜です。覚えて…いませんよね?」
「え!?、和泉…さん?」
海人は、目の前の女の子の姿と様子を見ながら思い出すのだが、当時は記憶に無かった。
返答に困り果てていると、そんな海人をフォローするように「中学校の同級生だったのですが、覚えて…いませんよね?」
彼女の方から話しを切り出してくれた。
そんな昔のことを普通覚えているのだろうかと、海人は考えていた。中学生から大学生になれば、色々と変わるものなのは普通である。身長から顔から、子どもが大人へと成長する時期でもあるからだ。
話しは続き、海人は、いきなり爆弾発言を聞くことにもなった。
「海人君、女の子に人気があって、私もファンの一人でした」
とんでもない爆弾発言であった。
海人には、男女を問わずに当時は友人がいたが、特別に好かれているといった経験や話しは聞いたことはなかった。
心臓はドクドクと聞こえない音を鳴らすように、その音が目の前の彼女に聞かれるのではと焦ったくらいだった。
そして、思ってもみなかった提案が彼女から出された。
「良かったら、この後、お昼ご飯ご一緒しませんか?」
海人に断るという選択肢は無かった。
これが桜との出会いだった。
母は気楽にウィンクしている。思いに耽っている場合でもなかった。映画を観る約束をしていた。
気合を入れて電話に出る。
「もしもし、海人君。スマホに出ないから、おうちに電話しちゃった」
電話からは、桜の透き通った声が聞こえて来た。海人にとっては、天使の声といってもいい、今では聞き慣れた心地の良い声だった。
そうだ。バイトが夜遅くまであるので、桜に念のために電話で起こしてもらう予定だった。スマホは自室に置いて来たから、通じるはずもない。
「おはよう…違う。こんにちは、桜ちゃん」
今日の予定を確認しないといけない。
「今日もいつもの場所でいい?時間だけど、変更は無しでいいよね?」
「うん、大丈夫。映画、楽しみにしてる。いつもの場所で待ってるね」
「俺も楽しみだよ。じゃあ、また後で」
「うん、またね」
電話を終え、急いで朝食を食べて、食器を片付け自室に戻り、事前に決めておいた服装に着替え、出掛ける支度をしたのだった。
忘れ物は…無いな。桜を待たすわけにはいかない。
桜に会えるかと思うと、自然と気持ちが弾んだ。
「母さん、行って来ます」
「行ってらっしゃい。楽しんでね」
家の玄関を出て、急ぎ待ち合わせ場所を目指した。