第12話
父が呼ぶ声が聞こえる。その父の声は、悲鳴にも近いものだった。
「海人、大丈夫か?」
海人は桜が時空の鏡に吸い込まれたことで、放心状態にも近く、頭の中は真っ白だった。目の前で起こったことが信じられなかった。
父の何度目かの呼ぶ声で、やっと我に返る。
「父さん、俺はどうしたら…桜ちゃんが…桜ちゃんが時空の鏡に吸い込まれ…桜ちゃんを助けないといけない。俺は桜ちゃんを連れ戻すよ。どうしたらいいんだ?」
父の悲痛な声が部屋中に響いたが、それは後悔に満ちたものだった。そして、はっきりと告げた。
「ここに二人を呼んだのは、完全な私のミスだ。海人、すまない」
海人の父は、こう付け加えて言った。
「海人、確証はないが、時空の鏡に入ることは可能で出来るだろう。ただ、鏡の中に入って、何がどうなって待ち受けているのかは、私には…いや、誰にもわからない。だが、桜ちゃんは鏡から現れた腕によって、鏡の中へと連れ去られたのはわかる。あれは一体何だったのだろうか」
父は苦悩のような表情で、何かに押し潰されるかのような顔をしていた。
海人には選択肢は一つしかなかった。
「父さん、俺は桜ちゃんを連れ戻すよ。必ず助け出してみせる。だから、鏡の中へ入る方法を教えて欲しい」
悲鳴にも近い父の声が聞こえた。
「この時空の鏡に大電力を加えることで、道は開かれる。鏡の中へ入ることは出来ると思う。だが、先にも言ったが、その先に何があり、何が待ち受けているかは、全くわからない。安全とも言えず、危険とも言えず、しかし、全くの未知の領域であり、楽ではなく、危険が待っていると思った方がいいだろう」
海人はこうやって考えている時間も今は惜しかった。桜を救う、それだけだ。
「父さん、俺が時空の鏡に入るから。桜ちゃんは俺にとって大切で、特別な人だから、俺が必ず連れ戻してみせる」
海人の決心を聞き父の心も決まったようだった。父の声が響いた。
「わかった。海人、それでは時間が惜しいな。時空の鏡に大電力を加えてみよう。海人は時空の鏡の正面に立っていてくれ。私が操作をする。そして、時空の鏡が鏡のように姿を映すようになったら、時空の鏡に飛び込んでくれ」
海人の気持ちは焦るばかりだった。
「俺はいつでもいいから、早く頼むよ。こうして待っているのも惜しい」
父は「うむ」と頷くと、時空の鏡の周りにある装置を次々に操作して起動させて行った。
あれから何分経ったのだろう。海人には、それが分なのか秒なのか時間なのかもわからなかった。ただ、気が急いたのを薄っすらと感じていた。それが永遠の時間のようにも感じられたくらいだ。
そして、父の宣言にも近い声が聞こえた。これから先の運命を宣言するかのような…。
「海人、準備は無事に出来た。問題はないはずだ。本当にすまない、私は操作をしなければならないので、ここで待つ。お前が桜ちゃんを連れ戻せるのを信じているよ。無事を祈る」
ここまで来ては、海人に心配することはなかった。桜が連れ去られた瞬間に自分で救おうを思ったのもあった。自分の大切な女性だから、自分が何とかしてみせるとも思っていたからだ。
「始めるぞ」父の声が大きな部屋に響いた。
海人は自分が引き返せない何かに引き入れられるような気もしていたが「わかった」と言うと、父が装置を操作するのを待った。海人の目には、父が何かの装置をスタートさせるのが遠目に見えた。そして、大電力を加えるためだろう。部屋の灯が何度と点滅したが、それ以外の変化はなかった。時空の鏡を除けばだが。
時空の鏡を見ると、鏡は淡い光を放ち始め、海人自身の姿を鏡のように映し始めた。
「父さん、行って来るよ」と近所に出掛けるみたいに言い、海人は時空の鏡に手を差し入れた。
鏡は差し入れた手を中心に波紋を打ち、それが同心円状に広がった。
そして、海人は意を決し、時空の鏡に飛び込んだ。
後ろで父の声が聞こえ「海人、頼んだぞ。必ず、桜ちゃんを連れて生きて戻れ」それを最後に海人は鏡の中へと吸い込まれるように入った。
残された海人の父は、喉を絞り出すように声を発した。
「二人とも本当にすまない。無事に戻って来てくれ」
それは祈りにも近い声だった。




