『夏は春を演じる』
「ねえねえ」
「ん?」
「私がいなかった間に、彼女とかいた?」
窓の外に広がる景色を眺める千春が、視線をそちらに向けたままそんな質問を投げかけてくる。
「どうでしょうね」
周は敢えて前を向いたまま、言葉を口にする。同じく窓の方を向いてしまえば、窓の反射越しに千春と目が合ってしまいそうだと思ったからだ。
「教えてくれてもいいじゃん。幼馴染なんだし」
今度は窓の景色ではなく周の方に顔を向けて、覗き込むような形で千春が先程の質問の答えを追求してきた。
「いないよ」
周がそう淡々としたトーンで答えると、千春はつまらなそうに「ふーん」と窓の方へ視線を戻した。
「そう言う千春は、どうなんだ? 彼氏のひとりやふたりいたのか?」
言いながら、周は千春の方を向いてしまい、
「どっちだと思う?」
案の定、千春と窓の反射越しに目が合ってしまった。楽しそうな表情を浮かべ、にんまりと口角を上げる千春。
そんな千春を何かにたとえるならば、それは小悪魔以外にはなかった。
だが、その表情と瞳は、何故だかまた違った懐かしさを思い出させた。
「……まあ、いたんじゃないのか?」
視線を元に戻しながら周は答える。
「いなかったよ。今まで、ずっと」
「そうか……」
「あれ? もしかして今、安心した?」
「してない」
「え~、そうかな~?」と千春は若干俯く周の顔を覗き込む形で見詰める。
満足げな表情で煽ってくる千春は、目に見えて楽しげな様子だった。かと思えば、再び窓の方へと顔を戻した千春は安堵の表情を一瞬だけ浮かべた。
「……」
その一連の流れを横目の窓の反射越しに見てしまった周は、その仕草を不思議に感じた。何故、安堵したのだろうか。一瞬だけに加え、見えたのは窓の反射越し。見間違えの可能性は十分に考えられるのだが。
すると車内にアナウンスが流れ、周と千春を乗せたバスはアナウンスが終わった数秒後、目的地のアクアート前のバス停に到着した。
バス停から港方向に進むと見えてくる大きな建物が、新しく出来た今日の到着地である、都市型水族館『アクアート』だ。
周と千春は一度アクアートの目の前で足を止め、アート作品を想わせるまるで現代美術館のような外観をしたその建物を見上げる。
洞窟をイメージさせる建物の入口の左側には、おしゃれなテラスがあった。
「なんか、すごいね」
横で目を輝かせる千春に「そうだな」と、微笑み交じりで返す。
アクアートの受付口と館内入口へ繋がる大きな階段を上ると、受付口で千春が予約番号を受付の女性に使え、その女性から入館許可チケットを二枚受け取る。
受付口の反対側にある入館ゲートの側に する男性スタッフに今度はそれぞれ入館許可チケットを見せ、周と千春は無事、アクアートの館内に入場した。
「入場料金いくらだった?」
「いーよいーよ。それぐらいしないと、だめだから」
「だめって、何が?」
「ほら、見えてきたよ」
入館ゲートから続く渡廊下を進むと、黒のカーテンが目の前に現れた。それをくぐった先にあったのは、青く光る幻想的で綺麗な空間。かと思いきや、青く光るその照明は、赤色に変化し、今度は黄色に、そのまた次は緑色に変化するなど、そこは虹色に光輝く煌びやかな空間だった。
『CAVE-はじまりの洞窟』
それがこのゾーンの名前らしい。
たしかに、洞窟に潜り込んだような多面形の鏡造作物と水槽に、キラキラと光る壁と床に魚群型の照明が乱反射し、洞窟の奥に光が流れているかのような煌びやかな空間が繰り広げられてあった。色とりどりの光はまるで万華鏡のような美しさがある。
疎らに配置された水槽には、小さくてかわいらしい魚が優雅にダンスを披露している。
「綺麗だね」
「ああ。なんか水族館じゃないみたいだな」
アクアートのホームページの説明にあった通りまさしく、アクアリウムを核に舞台美術やデジタルアートが融合する劇場型新感覚水族館その物だった。
「次行こっか」
全体を見終わった周と千春は洞窟を歩いているかのような気分で奥へと進み、次なるゾーンへ向かった。
幻想的な洞窟を抜けた先に広がってあったは『MARINE NOTE-生命のゆらぎ』と名のゾーン。全体的にゆったりとした円柱型の水槽が配置され、中央の大きな水槽には小さな魚たちに加え、サメやエイの姿が見られた。
そのフロアを見終え、周と千春は次なるゾーンへ向かったのだが、
「ごめん周。私、無理」
千春はそう言って周の手を掴み、そのまま早足でそのゾーンを突き抜けた。
『ELEMENTS-精霊の森』と名のフロアに滞在した時間は、およそ十秒ほど。途中、大きなカメや、かわいらしいワラビーなどの姿があったがそれを拝見できたのは一瞬だけだった。
『精霊の森』を抜けたあと、周と千春は次なるゾーンを求め、エスカレーターで三階へ向かった。
やわらかな光が射すやすらぎの空間が広がる『FOYER-探究の室』、伝統的で幻想的な和空間が広がる『MIYABI-和と灯の間』を楽しんだあと、周と千春は『和と灯の間』のおとなりにある、『PLANETS-奇跡の惑星』を訪れた。
「おお……一番綺麗だね」
そんな感想を漏らす千春の目の前には、大きな球体型の水槽があった。その球体水層を中心に、床に埋め込まれた光ファイバーと、天井から降りそそぐレーザーとミストが織り成す光のベールが周囲の人達を包み込み、非日常的な体験をさせてくれた。
「ねえ、周」
水槽に目を向けたままの千春からの呼びかけに、周は横目だけをちらりと右隣の千春に向けた。
「周は学校に友達はいる?」
「なんだよ急に」
周は視線を水槽に戻す。
「ただ単に気になったの」
「ふたりいるよ」
「え⁉ たったふたりだけ⁉」
声のボリュームはしっかりと押さえつつ目を丸くし、最大限瞳に驚愕の色を滲ませる千春は、そっと左手を周の肩に乗せると「可哀想に……」と、求めてもない励ましの言葉をかけた。
周はその手を払い除けながら「誰がかわいそうだ」と抗議の言葉を返す。
「友達なんて、ふたりいれば十分だろ」
「ま、明日からは私がいるし、三人になるね」
「やっぱり同じ高校なんだな」
「周は嬉しい?」
「はいはい、嬉しい嬉しい」
「そう言う、素直じゃないところも変わらないね」
若干、千春のその言葉に疑問を抱いた周が、それを追及する前に「ほら、次行こ?」と、千春に手を握られてしまった。
『奇跡の惑星』のゾーンを出たあと、三階フロア最後のゾーンである『GALLERY-探求の回廊』を見終えた周と千春は、アクアート最後のゾーンである屋上フロアの『SKYSHORE-空辺の庭』を訪れた。
屋上フロアにはカフェが設備され、雰囲気が今までと違い水族館らしかった。近辺に港があるため、爽やかな潮風を肌で感じられる、開放感が溢れるゾーンとなっている。
生き物に関しては、カワウソやペンギン、ゴマフアザラシ、カピバラなど癒しを与えてくれる生き物たちが揃い、屋上にやって来た人達を迎えてくれた。
そして、その全てを見て回った周と千春は、港を一望することが出来る展望テラスまでやって来た。見慣れたはずの街の景色が、夕方の時間帯や展望テラスの高さによって印象が全然違った。
「楽しかったね」
「ああ」
「そろそろ帰ろっか」
そう言って階段へ足を向けた千春に、周は「ちょっと待ってくれ」と言葉をかけた。すると千春はきょとんとした顔を浮かべて振り返る。
「どうしたの? お腹でも空いた?」
「いや、帰る前に——ひとつ聞きたいことがあるんだ」
「何? 聞きたいことって」
不思議そうに首を傾げる彼女に、周はずっとそうではないかと思っていたことをついに口にする。
「やっぱりお前——千夏、だよな?」
その周の訊ねに、目の前の彼女の瞳が一瞬だけ大きく揺れた。そのあと、彼女は柔らかなやさしい笑みを浮かべ周を見詰める。
そんな彼女は、何故だか少し嬉しそうだった。