九十九折
天城峠への九十九折は、氷室をすぎたところから登り坂が急になった。
雨で湿った道は、土と枯葉のかび臭い匂いに満ちていて、愛里紗の足の運びを鈍らせた。
どこに向かおうとしていたのか、なにをしようとしていたのか、もうわからなくなっていた。
それでも愛里紗は、ただ黙々と足を運んだ。
すこし先を歩く章仁は、彩花里の手をひいていた。
その足取りは、漂白された布のように清々しく見えた。
山から吹き下ろしてくる木枯らしの冷たさも、ぴったりと合わさった二人の掌の間には入り込めないようだった。
愛里紗は、まるで自分ひとりが、冷たい風のなかに置いてきぼりにされているような気がして、章仁の背中を睨んだ。
けれど、肌襦袢の下で触れ合う両足のあいだには、章仁の甘美なぬくもりがまだ残っていた。
足を出すたびに、冷たさとぬくもりに、責めたてられるようだった。
ふと目をやった森の斜面には、転がり落ちてきた石が、あちこちに散らばっていた。道の反対側は深く険しい崖で、踏み外せばどこまで堕ちるのかわからなかった。
そのとき、愛里紗の中に、青くて冷たい火が点った。
このまま盗られるくらいなら、と愛里紗は思った。わたしのものにならないのなら、いっそ……。
「ママ……」
不意に聞こえた娘の声で、愛里紗はわれにかえった。
章仁の手を離した彩花里が、駆け寄ってきた。昨夜からずっと、この子の声が心に届いていなかったことに、愛里紗は思い至った。
そのとたんに、青白い炎はすっかり消えた。
「なあに?」
「お花、寂しそう」
彩花里の視線の先には、早咲きの紅白の椿が二輪、花を咲かせていた。
それぞれが向い合いながらも、まるで引き離されたつがいのように、心細げに首を垂れていた。
愛里紗は、そうね、と答えた。身につまされるような心持だった。
椿の枝をすこしずつたわめて、花が寄り添うように形をととのえる。くすんだ山道に、ぽつんとほのかな灯がともったように見えた。
ほう、という穏やかな感嘆の声が、背後から聞こえた。
「これは、お見事。さすがは、花心流二代目お家元ですな」
振り向くと、僧衣の男が章仁と並んで立っていた。背筋がぴんと伸びて姿勢はよかったが、年齢は八十に近く見えた。
ありがとうございます、とお辞儀をした愛里紗に、老僧は人懐こい笑顔を返した。
「しかし奇縁なことだ。天城峠で踊り子ではなく、椿姫に出会うとはな」
「わたしのその呼び名をご存知とは……どこかでお会いしましたか?」
いや、と老僧は首を横に振った。
「当代きっての天才華道家なれば、その名は老いぼれの耳にも、入ってくるというもの」
「そして、花心流の名声を地に堕とした女だという評判も、ですか」
老僧は軽やかに笑った。
「さて、それはどうですかな。だが、その才色兼備ぶりなら、他者から妬まれても致し方ないというもの」
そう言いながら、老僧は三人を見回し、なるほど、とうなづいた。
そして、愛里紗に向かって問いかけた。
「歩き疲れなさったか?」
老僧のまなざしは、愛里紗を透かして、登ってきた九十九折を見通しているようだった。
はい、と愛里紗が答えると、老僧は小春日和の日向のように微笑んだ。
「天城越えは、行きつ戻りつの九十九折。歩きがいはあるが、長く険しい道のりなれば、無理に急げばくたびれるだけ。道中に咲く花を愉しみながら、ゆるりと行かれるがよろしかろう」
愛里紗は、目を閉じて空を仰いだ。
そして、なにかを飲み込むように、白く細い喉をこくんと鳴らす。
ひとすじの涙を最後に、その顔から、険しさが引いていった。口元がゆるみ、それから目元へと広がった笑みが、やがてその顔を覆いつくした。
「お教え、しかと心得えました」
うむ、と老僧は、目を細める。
「わしは、千葉の田舎で住職をしておる。茶くらいなら進ぜようほどに、いつでもお立ち寄りくだされ」
老僧は、合掌して目を閉じた。
つぶやくように何かを念じ、ではな、と言って背を向けると、後ろも見ずにすたすたと坂を下っていった。
曲がり角のむこうに消える老僧を見送ると、愛里紗はわずかなためらいもなく振り向いた。
踏み出したその足取りに、もう迷いはなかった。
まもなく道は、峠を登りつめた。
大きく左に曲ると、岩肌にぽっかりと黒い穴が口を開いていた。
天城山隧道だ。
アーチ状に組み上げられた玄武岩の切り石は、およそ百年の歳月を経て、緑の苔がむしていた。
下田街道は、この隧道を境にして、河津に向けて下り坂になる。
章仁が、入口に埋め込まれた切石の銘板を仰ぎ見た。
「やっと、ここまで来られたな」
愛里紗は、首を振った。
そして、一言ずつ言い聞かせるように、言葉を紡いだ。
「ここまで来られた、ではなくて、まだここまでしか来ていない、よ。わたしにとってはね……」
章仁は、「まだ?」と問い返した。
愛里紗は答えた。
「ええ。まだ、よ」
微笑む愛里紗の肩の向こうで、山が燃え上がった。
雲間から日が差して秋錦の木々を照らし、折からの風に紅葉が舞い上がりゆれ落ちる。
それは、空に吹きあげ、地を這い、すべてを焼き焦がす紅蓮の炎だった。
隧道を抜けてきた冷たい風のひと群れが、ひゅうと音をたてて愛里紗に吹きつけた。けれど、愛里紗はすこしも寒さを感じなかった。
そう、天城越えは、まだ道なかばなのだ。
愛里紗は、彩花里の手をとった。
見下ろす愛里紗と見上げる彩花里のまなざしが、ひとときぶつかり合い、そしてやさしく絡まり合った。
「いきましょう」
愛里紗は彩花里の手を引いて、章仁とともに、隧道に足を踏み入れた。
ゆく先に、目を凝らす。
けれど。
闇のむこうにあるはずの出口は果てしなく遠く、ひとすじの光明も見えない。
(了)