秘恋宿
湯ヶ島温泉は、のどかでひなびた山里だった。
夜遊びをするような店はなく、日が暮れた町を歩く人もいなかった。
愛里紗が選んだ宿は、湯ヶ島でいちばんの老舗旅館だった。
通された和室は古びていたが、しつらえは上品に整えられていた。
雨音をかき消すほどの瀬音に惹かれて窓を開けると、宿のすぐ下を狩野川が流れていた。
湯舟を満たす温泉は、さらりとした肌触りだった。
雨に打たれて凍えた身体が、芯から暖まるようだった。
湯から上がり、三人で夕食の膳を囲む。
先付や造里に椀物などが出そろったあと、食卓には湯気のあがる猪鍋が供された。天然ものは珍しいんですよと言い残して、仲居は部屋を出て行った。
愛里紗は鍋から豆腐と野菜を小鉢に取って、ハンバーグをつついている彩花里の前に置いた。それからビールを章仁のグラスに注ぐ。
「まるで家族だんらんね」
章仁の手が揺れて、グラスが瓶の口に当たり、かちんと音がした。その視線は愛里紗をさけるように、床の間と縁側をさまよった。
夕食を終えると、彩花里は敷かれた布団にもぐりこんで、すぐにすやすやと寝息をたてはじめた。
愛里紗はそれを見届けてから、章仁を追って河原の露天風呂に向かった。
雨はあがっていて、空気はしんと冷えていた。
庭園を抜けた先の露天風呂は、すぐ横に狩野川のせせらぎがあった。
瀬音は絶え間なく聞こえるが川面は見えず、人目をさけて黒い闇の底を流れているようだった。
湯から上がると、談話室で章仁が雑誌に目を落としていた。浴衣の前合わせがすこしはだけて、たくましい太腿がのぞいている。
愛里紗は章仁に気づかれないように、壁際のピアノに向かうと、色浴衣の袖をすこしまくって鍵盤に指を落とした。
ぽろんと、くぐもった音が談話室に響いた。
章仁が雑誌から目を上げて、愛里紗を見た。
「なにか弾いてくれ」
「わたしはピアニストじゃないわ」
「わかっている」
愛里紗はため息をつくと、章仁を軽くにらんだ。そして短い序奏に続けて、甘酸っぱい追憶とともに、その歌を唇にのせた。
章仁の表情がわずかに乱れたことを、愛里紗は見逃さなかった。
それは、七年前の同窓会でのことだった。
旧友たちとのつまらない会話に疲れた愛里紗は、皆からひとり離れて、ワインを飲みながらピアノで弾き語りをしていた。
そのとき不意に、間近で章仁の声がしたのだった。
「レオン・ラッセルだね」
胸が高鳴って、わずかに音が乱れた。
だが、愛里紗はピアノを弾く手を停めずに、答えた。
「いいえ、カレン・カーペンターよ」
「同じだろう」
「ちがうわ」
愛里紗が拗ねたように歌ったのは、恋人への思いのたけを歌にして贈る、という告白めいた曲だった。
章仁はふっとため息をついた。
「君には似合わない歌だ」
「そうでもないわ。わたしにも人に言えない恋の経験くらい、あるもの」
「知らなかった」
「親友の彼氏への、片思いのことも?」
そして、冗談めかした口調で、愛里紗は章仁に尋ねたのだった。
「ねえ。茜のどこが、わたしよりいいの?」
章仁は、弾かれたように愛里紗を見た。けれどすぐに目を逸らせると、水割りを飲み干した。
「比べるようなことじゃないよ。それに君は僕のことなんて、眼中にないじゃないか」
「そうかしら。ためしに今、口説いてみたら?」
章仁は息をのんだ。
そのまなざしが会場をさまよい、女友達と談笑する茜を捉える。その目が愛里紗に向けられることは、もうなかった。
「僕と君じゃあ、釣り合わないよ」
「意気地なし」
章仁は、なにも言い返さなかった。
ただ、自分を嘲ってでもいるかのように、口元をわずかに歪めて笑った。
あのときの章仁の辛そうな笑顔が、目の前の憂いをおびた笑顔に重なる。
けれど、あのときとは違って、いま章仁はまちがいなく愛里紗だけを見ていた。だから、思いのすべてをその歌に込めた。
七年の、いやそれ以前からの長い歳月、あなたを愛していたのだと。
胸が震えて、声が途切れそうになった。けれど愛里紗は、章仁を見つめ続け、そして歌い続けた。
章仁の表情は、重苦しく沈んでいった。けれど章仁も、愛里紗から目をそむけることも、歌に耳を塞ぐことも、しなかった。
ピアノの上のキャンドルの炎が、じっと音を立てて揺れた。
ひと眠りして目覚めた愛里紗は、絶え間ない瀬音と娘の寝息の合間に、かすかなため息がまじっていることに気づいた。
「眠れないの?」
ささやくような問いかけに、章仁からかすれた小さな声が返ってきた。
「起こしてしまったか」
「眠りが浅いのよ、わたし」
そうか、と答えた章仁は、ふっと息を吐いた。
「くだらないことばかり、考えてしまってね」
「どんなこと?」
「もし、あのとき……いや、やはりやめておこう。今さら、どうにもならないことだ」
あのとき、という章仁の言葉の続きは、聞くまでもなかった。
温泉に浸かった身体はまだたっぷりとぬくもりを残していて、うっすらと汗ばんでいた。
その熱は、愛里紗の欲望に火をつけた。
「……ばか」
愛里紗は寝返りをうって、章仁の布団にもぐりこんだ。
厚みのある章仁の胸に顔をうずめる。かすかな腋臭があることを、このときはじめて知った。
顔をあげて、章仁の唇に自分のそれを重ねる。そして、章仁の手をとって、浴衣の上から胸のふくらみに触れさせた。
「欲しいのなら、欲しいって言って……」
章仁は、うめくように、応えた。
「君が欲しい」
愛里紗の手が章仁の浴衣の下に滑り込むと、それに応じるように章仁の手が愛里紗の浴衣をかき分けた。
章仁の耳元に唇を寄せ、吐息を吹きかけるように愛里紗はささやいた。
「茜のことなんて、忘れさせてあげる」
二つの炎が、一瞬で燃え上がった。それは、離れてはお互いを焦がし、合わさっては火柱を吹きあげた。その熱で、二人の心と身体は、ひとつに溶け合った。
けれど。
愛里紗のなかに熱を注ぎ込んだあと、章仁は押し殺した声で告げた。
「すまなかった」
その謝罪を耳にしたのは愛里紗だったが、それが向けられていたのは、まぎれもなく茜だった。
まだたっぷりと熱を残していた愛里紗の心は、いきなり浴びせかけられた冷水で、音を立ててひび割れた。
愛里紗は、唇をぎゅっと噛んだ。
砕けそうな心をつなぎ合わせてくれるはずの、章仁のぬくもりも、彩花里のぬくもりも、すぐ近くにあるのにふれられないものだった。
なにも言えなかった。涙すら出なかった。
夜の闇に響く狩野川の水音を、愛里紗は、まるで自分のなかから零れ落ちるもののように聞いていた。