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時雨の滝

 下田街道に戻って、蕎麦屋で遅めの昼食にした。

 愛里紗と彩花里はあたたかい蕎麦を、章仁はざる蕎麦とわさび丼を注文した。

 彩花里はわさび丼を欲しがったが、章仁が箸の先に乗せた数粒を口にすると、顔をしかめて目に涙を浮かべた。

 愛里紗と章仁がそろって笑うと、彩花里は拗ねたように頬を膨らませた。


 食事を終えて浄蓮の滝に着いたのは、午後三時をまわったころだった。

 晩秋の陽光は、早くもその勢いをなくしかけていた。


 バスの停留所から、滝のある渓谷の底までは、森の中を長い石段が下っている。

 数多の観光客に踏まれ続けた石段は、あちこちがすり減っていた。その上に濡れ落ち葉が散り敷かれていて、気を抜くと足を滑らせそうだった。


 道が折り返すたびに、章仁は立ち位置を変えて、愛里紗の崖側を歩いた。

 石段は幅が狭く、二人は寄り添うように下る。

 愛里紗と章仁の手がなんどか触れ合い、三度目のとき、愛里紗はそのまま章仁の手を握った。章仁がぎこちなく、愛里紗の手を握りかえす。

 顔を見合わせて、微笑み合ったあと、ふたりは手をつないだまま歩き出した。

 章仁からは、ほのかに香水の匂いがした。一昨年のクリスマスに愛里紗が贈ったものだった。


 浄蓮の滝は有名な観光地だから、すれ違う人も多かった。明るい色の結城紬を着こなした愛里紗は、注目の的だった。


「わたしの相手ばかりしてたら、いいひともできないわね」

「僕のことより、君の方こそどうなんだ。相手なら、いくらでもいるんだろう?」

「遊びの相手なら、不自由はしていないわ。でもね……」


 愛里紗は、空いている左手でさりげなく帯留めに触れる。白い珊瑚で椿を象った帯留めは、香水のお礼にと、章仁が贈ってくれたものだった。


「本気になれる人は、いないの」


 そうか、と章仁は答えた。

 気のなさそうな章仁の返事に、愛里紗はため息を落とした。



 階段を降りきったところは、行き止まりの滝見台だった。

 玄武岩の柱状節理がゆるやかな弧を描く断崖に、浄蓮の滝が白い反物のようにかかっていた。

 滝口から落下した水は、ざあざあと音をたてて緑玉色の滝壺をかき乱し、急流となって岩で砕けながら流れ下る。


 ふと足元を見ると、岩のくぼみにはまり込んだ楓の一葉が、くるくると流れに翻弄されていた。

 愛里紗は、しばらくその様子を見守っていたが、楓の葉はそこから流れ出すことはなかった。

 隣で同じように目を落とす章仁に、愛里紗は、ねえと声をかけた。


「いつまでも過去に立ち止まっていないで、未来に向かって歩き出した方がいいわ」

「茜のことか?」


 問い返した章仁に、愛里紗は否とも応とも答えなかった。答えるまでも、ないことだった。

 章仁はわずかに顔を歪めて、だめだ、と首を振った。


「そんなことはできない。せめて、娘への責任は果たさないと」

「どうしてそうなるのよ。その子が、見ず知らずといっていいあなたに、そんなことを望んでいると、本気で思っているの?」

「当然だ」

「あなたは、いつもそうだわ……」


 頬にぽつりと冷たい雫が落ちてきた。けれど、それにはお構いなしに、愛里紗は言葉を続けた。


「自分の気持ちばかり、相手におしつけて。茜のことだって、ちゃんと見ていなかった。だから……」


 詰る愛里紗の言葉を、途中で章仁が遮った。


「自分の価値観を他者に押し付けているのは、君も同じじゃないか。誰もが君のように、自由に生きられるわけじゃない」

「自由ってなによ。あなたにわたしの、何がわかるというの。わたしだって……」


 ぱらぱらと木々の葉を叩く音がして、雨粒が愛里紗たちの髪や顔に落ちてきた。

 天城は『雨木』が語源だと言われるほど、年間を通して降雨が多いところだ。あっというまに、あたりは一面の雨景色になった。

 さすがに、口喧嘩も中断するしかなかった。

 傘の用意は、していなかった。帰り道を急いだが、長い石段を登ってバス停にたどり着くころには、三人ともずぶぬれになっていた。


 時計の針は午後四時をまわっていて、あたりはひっそりとしていた。

 土産物屋も食堂もすでに店じまいをしていて、雨宿りができそうなのはバス停の屋根の下くらいだった。

 標柱に掲げられた時刻表を見ると、次のバスまで一時間ちかく待たなければならなかった。

 章仁はすぐに、携帯電話でタクシーを呼んだ。

 タクシーを待つあいだ、誰も言葉を口にしなかった。ビニールの屋根をたたく雨音だけが、バス停を包み込んでいた。


「ねえ……」


 かぼそい、けれどはっきりとした声が、低いところから聞こえてきた。


「けんかしたの?」


 愛里紗と章仁は、そろって「あっ」と声をあげて、膝を折った。


「けんかしたら、なかなおり、しないとだめだよ」


 彩花里が、ふがいない大人たちを叱責するように、愛里紗と章仁の顔を見据えていた。髪の先から雨粒がひとつ、ほんのりと上気した彼女の頬に滴り落ちた。


「ごめんなさい。でも、ママたちはけんかしたわけじゃないの。だから安心してね」

「ああ、そうだよ。びっくりさせてすまなかったね」


 章仁と愛里紗は、かわるがわる彩花里の頭を撫でる。彩花里は嬉しそうに、目を細めた。

 愛里紗はなにかに気づいたように、あっ、と声を上げて、彩花里の額に手を押し当てた。


「熱があるわ」


 よく見ると、彩花里の身体は、小刻みに震えていた。結城紬の四つ身から、ぽたぽたと雫が落ちている。

 章仁はあわててジャケットを脱ぐと、彩花里に着せかけた。ジャケットの裾は、彩花里の膝のあたりまであった。

 愛里紗は、ジャケットの上から、娘の身体を抱きしめた。


 やってきたタクシーの運転手に頼んで、いちばん近い湯ヶ島のクリニックに連れて行ってもらった。

 受付時間は終わっていたが、インターホンを押し続けた。

 やがて、面倒くさそうな声で返事があった。応答した医師は、はじめのうちは診察を渋ったが、五歳の子どもだと告げるとすぐに玄関を開けた。

 診察を終えて、一時間ほど休ませてもらうと、彩花里の震えはすっかり収まった。

 クリニックを出たときには、秋の日はすでに暮れかかっていた。


「もう天城峠は無理だ。あきらめて、帰ろう」


 章仁の提案に、愛里紗は首を振った。

 愛里紗と彩花里の紬はまだしっとりと湿っていて、長い黒髪は何本かが束になって鈍い光を放っていた。


「これから寒くなるばかりだわ。このままだと、みんな風邪をひくわよ。この子を温かいお風呂に入れてあげたいし、今夜は湯ヶ島に泊まりましょう。そして、明日ゆっくりと、天城峠を越えましょうよ」


 章仁はすこしだけ迷ったようだったが、愛里紗の提案を承諾した。

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