隠し沢
章仁から紅葉狩りに誘われたのは、十一月も終わりのころだった。
愛里紗は、半年ぶりの章仁との再会に、洗い張りを終えたばかりの結城紬を着て行こうと思った。
銀杏を思わせる黄色の着物は、天城越えの紅葉にも鮮やかに映えるにちがいない。合わせる帯は市松模様の名古屋にして、あの帯留めを付けよう……。
「彩花里ちゃんも、ぜひいっしょに」
自分の装いに気を取られていた愛里紗は、章仁の言葉に不意を突かれて口ごもった。
「えっ、でも……」
壁の暦に目を走らせる。誘われたのは、平日だった。曜日の下にちいさな文字で、小雪という節季が書き添えられていた。
「せっかくだけど、娘は幼稚園があるわ」
「天城を越えるとなると、帰りは遅くなる。連れて行った方がいい」
章仁の言うとおりだった。
それなら、お揃いで仕立てた結城紬をあの子にも着せよう、と愛里紗は思いついた。
約束した日は、秋の空に薄雲が流れる、行楽日和だった。
三島駅で待ち合わせ、修善寺からのバスを湯ヶ島でタクシーに乗り換えた愛里紗たちは、筏場のわさび沢に着いた。
紅葉の山懐に抱かれたわさび田は、大きな箱庭のようだった。
屏風のように峰を並べた天城山地を仰ぐ谷間に、わさびを植え付けた棚田が緑色の階段のように整然と幾重にも連なっている。
棚田のあちこちに植えられた広葉樹は、真夏の日差しを遮るという役割を終えて、すっかり葉を落としていた。
わさびを潤し育てて流れる湧水の音が、風の合間からかすかに耳に届く。
章仁は、陽射しに目を細めた。
「日本の秋は、やはりいいな」
彫の深い顔に日焼けが染みついて、いちだんと精悍さを増していた。
引き締まっているが筋肉質の体には、既成のツィードジャケットは窮屈そうだった。
「休暇が終わったら、また海外に派遣されることになったよ」
「今度はどこに行くの?」
「インド洋だ。補給艦で友軍を支援する任務でね。帰ってくるのは、来年の四月になるだろう」
三人は足をそろえて、わさび沢をめぐる歩道を歩きだした。
足元は悪く、いたるところにぬかるみがあった。愛里紗の草履の足元に目をやった章仁は、わずかに足を緩めた。弾むように歩く彩花里の背中が、すこしずつ離れていった。
それを待っていたかのように、章仁は咳ばらいをひとつした。
「昨日、茜の墓参りに行ってきたよ」
「そう」
「花を供えてくれたのは、君だろう?」
「命日だったから……茜がいなくなって、もう五年ね」
章仁が足を止めたので、愛里紗もそれに倣った。
わさび沢の奥を見据えたままで、章仁は口を開いた。
「もう、じゃなくて、まだ、だよ。僕にはね」
ひとことずつ区切る話し方は、まるで誰かに言い聞かせているかのようだった。
愛里紗は、「まだ?」と聞き返した。
章仁は、ああ、と応じた。
「五年といっても、茜の墓が見つかって、彼女が死んだとわかってからは、まだ二年だ。気持ちの整理なんて、できるものじゃない。病気のことを負い目に感じたんだろうが、それにしても、どうしてなにも言わずに僕たちの前から姿を消したりしたのか」
愛里紗は、そうね、と相槌を打って章仁の視線の先を追う。
緑の棚田は、終りが見えないほど深く遠くまで、続いていた。
「茜がどうしてあんな選択をしたのかは、わたしにもわからないわ。でも、不治の病だと知っての、覚悟のうえでの失踪だったのは、確かだと思う」
「ああ、そうだな。それでも納得はできないが。それと、もうひとつ気がかりなことが残っている。こっちはもっと大事なことだ……」
章仁は、愛里紗の視界を遮るように、正面に立った。そして、有無を言わせない厳しいまなざしとともに、その言葉を突き付けてきた。
「茜が産んだという、僕の娘の行方だ。君は、なにか知っているんじゃないのか」
雲が流れてきて、わさび沢に差し込んでいた陽が陰った。沢をわたる風が、節季を思い出したように冷気をまとう。
愛里紗は、言いかけた言葉を飲み込んで、首を横に振った。
章仁の表情が、曇り空を写し取ったように、陰りを帯びた。
だが、それはほんの一時のことだった。
「つめたぁい」
重苦しい空気を、彩花里の声が吹き払った。
わさび田の縁に立った彩花里は、両手をひらひらと振った。飛び散った飛沫が、雲間から漏れた薄日に鈍く光る。
愛里紗は紬の裾を持ち上げ、細い溝を飛び越えて彩花里のそばに行った。そしてバッグからハンカチを取り出すと、水に濡れた娘の手をそっと包み込むように拭った。
追いついてきた章仁が、しゃがみこんで彩花里に笑いかける。
「元気だね。いくつになったんだい?」
その声には、優しさがたっぷりと込められた、まろやかな響きがあった。
彩花里は、紅葉のように小さな指をぜんぶ広げて、満面の笑みで答えた。
「五歳」