霧雨市怪奇譚 袋小路
実話怪談っぽさを意識して書いた作品です。ゆえに、劇的なことは何ひとつ起こりません。
日常に潜む「ちょっと怪奇なこと」が本作のテーマです。
石田美咲は暗い夜道を歩いていた。時折、湿気を孕んだ不快な風が肩口で切り揃えた髪や膝丈のスカートをなびかせる。
じっとりとした汗が額に浮かぶのを、美咲はハンカチで拭った。
黒いブレザーの制服は、彼女の決して大きいとはいえない身体を闇に同化させ、周囲の人々の視界から消し去ってしまう。
傍らの白い自転車がなければ、そこに人がいるとは気付かれないかもしれない。
「最悪だな……」
美咲の家までは自転車で三十分ほどかかる。自転車がパンクしていなければもう家に着いている頃だった。
両親のどちらかに迎えに来てもらっても良いのだが、美咲は自転車を押して歩いて帰ることにした。
美咲の家はコンビニで、ちょうど今頃は学校帰りの高校生たちで賑わっているはずだ。
そんな忙しい時にわざわざ店を空けて迎えに来てくれ、とは美咲は言えなかった。
「大丈夫、ちゃんと人通りの多い道を選ぶから」
家に電話して、歩いて帰ると伝えたとき、美咲はそう言って心配性の母を納得させた。とはいえ、実際にはそんなつもりはなかった。
人通りの多い道を選ぶと、どうしても遠回りになるからだ。
だが、美咲はその選択を少し後悔していた。
普段は気にも留めなかったような裏路地が、陽が沈むに従って、不気味なものに思えてきたからだ。
道の両側にはブロック塀が立ち、等間隔で電信柱が並んでいる。
ブロック塀越しに見える民家はどれも平屋建てで、これといって特徴といえるものがなかった。
路地に向けて門を作った家もなく、美咲の他には通行人もいない。恐ろしく無個性で、無機質な空間だった。
こうした通りの電柱やブロック塀にはよくポスターや広告が掲示されているものだが、ここは裏路地のせいかそういったものは一切ない。
そのせいか、美咲は同じところをぐるぐる回っているような印象を受けた。確かゲームでそんな迷宮があったような気もする。
「このままだとまずいや……。出口に辿り着けなかったらどうしよう……」
徐々に、美咲の心に不安が浮かんできた。それも、漠然としたものではない。
出られない、という不安が、まるで泡でも弾けたかのように突然心の中に現われたのだ。
「映画の観すぎ、なんだろうな。何かもっと違うことを考えないと」
美咲は必死になって明るいことを考えようとした。しかし、どうにも上手くいかない。
しばらく不安な気持ちで歩くうち、美咲は自分が今、ゲームの迷宮にでもいるような気分になってきた。
あの迷宮の石造りの壁と、両側のブロック塀が重なって見えたのだ。
美咲は、なんだか自分がゲームの主人公にでもなったような気がして、不安な気分が少し和らいだ。
とはいえ、やはり夜道を一人で歩くというのは心細いものだ。
そうやってしばらく歩き続けるうち、段々と闇が濃くなってきた。電柱に設置されている街灯もまばらになり、確実に闇がその支配領域を広げてくる。
美咲は、そのまま自分が闇に呑まれてしまうのではないかと考え、背筋がゾッとした。何かで読んだ神隠しの物語が頭をよぎる。
「こんな場所で隠し神に行き逢ったらどうしよう……?」
考えたくもないことだった。美咲だって、一応高校生だ。今の世の中にそんなモノがいるとは信じていない。
だが、理屈は抜きに、怖いものは怖いのだ。
そんな美咲の心を知ってか知らずか、闇はさらに濃度を増していく。
瞬く街灯を頼りに腕時計を見ると、まだ時間は六時半少し前だった。時期は五月上旬。明らかに暗くなるペースがおかしい。
「闇の侵蝕とか、ファンタジーだけにして欲しいな……。私は勇者じゃないんだから」
美咲は少しでも不安を紛らわせようと毒づきながら、路地の奥へ歩き続けた。
と、不意に行く手が塞がれた。袋小路になっていたのだ。
「はあー……。一本間違えたかな? ついてないや」
美咲は仕方なく引き返そうとして思わず立ち止まった。
ハンドルから手を離したことで支えを失った自転車が音を立てて路地に倒れ、カゴに入っていたスクールバッグが転がり出た。
美咲が立ち止まった理由は簡単だった。背後という、たった今歩いてきたその場所にもブロック塀が建っていたのだ。
美咲ははじめ、見間違いかと思った。しかし、何度見直しても塀は消えない。
手で触れてみると、それはしっかりとした感触があり、とても幻のようには思えなかった。
「さっき、確かにここを通ったよね……?」
誰にともなく訊ねながら、美咲は忽然と現われたブロック塀を眺めていた。
おかしい。
確かにさっきは通れたはずなのに、急に壁が現われるなどということが、あるはずがない。
しかし、現実として、美咲の目の前にはブロック塀が立ちはだかっているのだ。
「少しはしたないけど、誰もいないし……」
美咲は塀に手を掛けられるような場所がないか、手探りで探ってみた。しかし、そうしたものはまったくない。
飛び付こうと試みても、何故か塀の上端に手が届かない。
不思議なことに、上に手を掛けようと背伸びをしたり、跳ねたりすると、塀もそれに合わせて高くなるようだった。
この時、美咲の心の中では、閉じ込められたことに対する不安と、理解の範疇を超えた出来事に対する恐怖とが、この状況から抜け出そうという意志を押さえつつあった。
状況を冷静に判断しようとする意識など、とうにない。
壁に取り付くのが駄目ならと全力で塀にぶつかってみた。あるいは、思い切り蹴飛ばしてみた。
しかし、塀はびくともしない。そもそも、女子高生の体当たりでどうにかなるようなら、ここまで普及はしないだろう。
美咲はふと、スクールバッグに目を留めた。
バッグを振り回し、何度となく塀にぶつける。意味のない行為だが、何もしないよりはマシに思えた。
不意に、何かが落ちる音がした。
見ると、何かの拍子にポケットから落ちたのだろう。足元にスマートフォンが落ちている。
それを見た瞬間、美咲の脳裏に一人の後輩の顔が浮かんだ。
黒田孝美。歩く妖怪図鑑などと自称する、妖怪マニアだ。
「孝美なら何か知ってるかもしれない……」
美咲はスマートフォンを拾うと、すがるような気持ちで孝美に電話をかけた。
『もしもし、石田先輩? どうしたんですか?』
発信音が数回鳴った後、孝美は意外そうな声で電話に出た。
「孝美、聞いて! お化けに会っちゃったかもしれない!」
『お化け? 口裂け女でも出ましたか? ――ああ、それじゃあ電話なんかしてる余裕はないですね。早く逃げないと』
「そうじゃなくて、壁、壁があって!」
美咲は少し早口で今までのことを説明した。孝美は黙ってその話を聞いていたが、話が終わると、思案するような口振りでこう言った。
『大体はわかりました。今から調べますから、それまで落ち着いて、どこかに腰でも降ろして待っていてください』
それで、電話は切れた。
美咲は激しい徒労感に襲われ、その場にへたり込んでしまった。
「もう少し、頼りになると思ったのに。調べてる間に壁が迫ってきたらどうするの?」
美咲は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。
この状況はあまりにも厳しかった。最後の頼みの綱も切れ、万策尽きた、といったところだ。
真っ暗な空に浮かぶ月は、不気味に赤い。それが化け物に覗かれているようにに感じて、美咲は目を逸らした。
そうやって、どれほどの時間が経ったのか――。不意に、スマートフォンの着信音が鳴りだした。
着信画面はそれが孝美からの電話であることを示している。
「…………っ! も、もしもし!?」
『もしもし、石田先輩? わかりましたよ、そのお化け』
孝美は事も無げに言った。いや、実際に孝美にとってはなんということもないのかもしれない。
『で、教える前に聞きたいんですが、その壁さんはまだいますか?』
「え――――?」
美咲が塀の方を見ると、いつの間にか、塀は綺麗さっぱり消えていた。それに気付くと、変化は一瞬だった。
美咲は何の変哲もない小さな十字路の真ん中で膝を抱えていた。
そういえば、さっきまであれほど暗かったのに、なぜか今は薄ボンヤリとした明るさだ。
陽光の最後の残滓が人や物をシルエットのように浮かび上がらせている。こうした時間帯を、かつては逢魔刻、と呼んだ。
美咲は今までのことが夢だったのではないかと思ったが、繋がったままの電話が夢でないことを如実に示していた。
『その反応だと、やっぱりいないみたいですね』
「ど、どういうこと!?」
『塗り壁っていう妖怪の一種です。それより、時間は大丈夫ですか?』
美咲は腕時計に目を落とした。時刻は六時半ちょっと過ぎ。最後に時計を見たときから、ほんの数分しか経っていないのだった。
「うん、大丈夫みたい。ありがとう、孝美」
『どういたしまして。それじゃあまた明日、学校で』
美咲は電話を切ると、自転車を起こして再び歩き出した。家までは、まだ半分ほどの道のりが残っていた。
塗り壁(ぬりかべ)
夜道を歩いていると突然、眼前に壁が現われる。時には建物の入り口が塞がれることもあるという。
もし出会ったら慌てて押し通ろうとするのではなく、その場で腰を降ろして少し休むか、下のほうを棒状のもので払うと良いとされる。
近縁種に塗り坊、野衾。また、四国には同族ではないが、似たイタズラをする衝立狸というモノもいる。
――――十詠社刊『現代妖怪図会』より抜粋
本作は私の個人HPで掲載していた作品の転載です。
なにぶん、昔に書いたものなので、今としては少し未熟な部分も見えますが、訂正は主に時代にからむ部分(作品を書いた当初、まだスマートフォンは出始めたばかりで主流ではありませんでした)に留めました。
古い作品ではありますが、楽しんでいただけたのであれば幸いです。