傘と歯車
『かつて人は少年のようなロボットに夢を託し
動物のようなロボットに未来を見た』
博物館の資料はどれもリィリにとっては退屈でしかなく、どれだけ価値のある映像も「つまらない」の一言であった。
未来のロボットが机の引き出しから出てくるなど馬鹿げている、そもそもあの丸く運動能力に欠けたボディーのどこが『未来』なのか。会話が成り立つことが売りのロボットも、実際に話している内容はてんでちぐはぐ、一方的な会話を続けているにすぎない。
そう退屈を隠すことなく呟けば、隣に立つ青いボディーのロボットが「当時はこれが未来だったんだろう」と少し低めの成人男性を模した音声で返してきた。頭上から降り注ぐその当たり障りのない答えに、更にリィリの退屈が増す。
目の前で流れる歴史的価値のある映像資料も、壁に沿って映し出される再現ホログラムも、隣のロボットも、どれも面白味がないのだ。ジョークの一つも返せないのね、とリィリが小さく溜息をついた。
「退屈だわ、レイン」
「君がここに来たいと言い出したんだ」
「レポートのためよ。来たかったわけじゃない」
ふんとそっぽを向いてリィリが歩き出せば、レインと呼ばれた青いロボットが同色のアイセンサーを灯らせてその後を追った。
人がロボットに夢を抱き、ロボットを作り、人に近付けていく時代を経て。
ロボットが自我を持ち、人に抗い、争いあう悲惨な時代を迎える。
長く陰惨な時代を続け双方共に疲弊し、数多の犠牲の果てに和解し、そうして共存の時代が幕を開けた。今では全て歴史として一括りにされるほど昔のことだ。
そんな共存の時代になってから数百年たてば当時を知る人間は居なくなり、ロボット達もまた戦争時代のデータを記憶回路の奥底にしまい込み人間と共に生きることを受け止めていた。もっとも、一部のロボットは未だ戦争時代から抜け出せず人間への憎しみを回路に刻み続けているのだが、共存を前提とした法律が定められた今は彼らも大人しく息を――呼吸などしていないが――潜めて生活していた。
「レイン、貴方も戦争時代を生きていたのよね」
「生きていた、というのは語弊がある。私達の場合は“稼働していた”と言う」
「どちらでも良いわ」
目の前に並ぶ陰惨なパネルを眺めつつ、リィリが眉間に皺を寄せる。
戦争時代の貴重な映像や写真はどれも顔を背けたくなるほど悲惨で、襲撃され足を失った人間の姿も、片腕を引きちぎられてケーブルを剥き出しにするロボットの姿も、どちらもリィリにとっては痛々しくて耐えられないのだ。見ていられないと顔を背けて、代わりに隣に立つレインを見上げる。
瞳代わりのアイセンサーを淡く灯らせる彼が、空よりも美しい青色の彼が、この戦場に居たとは到底思えない。ましてや人を殺したなんて……、と、そう浮かびかけた考えを小さく首を振るって掻き消し、青く巨体なボディーに流れる白いラインを指でなぞった。
――リィリはレインを“巨体”と言うが、2メートルを優に越えるとはいえ彼はロボットの中では平均的な寸法でしかない。用途によってロボットの体格や全長は大きく異なる。あくまで、人間の女性の平均的身長でしかないリィリにとって“巨体”なだけだ――
初動時は青一色だったと言うが、戦争時代が終わり出会った人達に「面白味がない」と細工されたという白いライン。ボディーの凹凸や形状に沿うように描かれたそのラインをレイン自信は『不要』と判断しているが、オーバーホールやパーツの交換をするときも消さずにいる。
鉄で出来た彼のボディーは、やろうと思えば白いラインを消すことも、それどころか全身をまったく別の色に塗り変えることも出来るのだ。
それでも消さないことを「それを思い出と言うのよ」と、そう説明したのはいつだったか。彼はアイセンサーの灯りを細めて「理解できない」と返してきた。記録と違い胸に刻むのだと、そう話しても再び「理解できない」としか言わなかったのを今でも覚えている。
そんなことをふと思いだし、リィリが目の前のホログラムに視線を止めた。
戦争時代に配られた回覧板の復元。そこには大きく『鉄の塊』と印字されており、リィリがその言葉の不快さに眉を潜めた。
『鉄の塊』とは、戦争時代に使われていた彼らを侮蔑する言葉だ。
堅く冷たい彼等の鉄のボディーのことであるのは言うまでもなく、ロボットには人間のような心が無いと決めつけ、鉄の塊と呼び嫌悪していた。『殺す』とも言わず『壊す』と言ってさえいたのだ。
もっとも、長い時間を経た今ではブラックジョークの一つとされ、中には自ら自虐的に使うロボットも居れば、人間に対して「肉の塊」と返すロボットすらいる。
いつだったか、レインがこの言葉を自虐的に使い、リィリが泣いて怒ったことがあった。
思い出せないほど幼い頃だ。あのときは泣き疲れて眠ってしまい、翌朝レインが好物のケーキを出すと共に謝ってきたのを覚えている。
そのときの彼の様子を思いだし小さく笑みをこぼし、リィリが彼の鉄の腕を軽く叩いた。
「帰りましょう、レイン」
「まだレポートを書くには資料が足らないと思うが」
「いいの、レポートなんてどうにでもなるわ。それに今夜は雨が降るでしょ、冷えるのは嫌」
だから、とリィリが返事も聞かずにさっさと歩き出せば、ホログラムで再現された文字にアイセンサーを向けていたレインが「そうだな」と変わらぬ音声で返して歩き出した。
人間の居住区には二種類ある。『ドーム区域』か『ドーム外』か、だ。
ドーム区域とはその名の通り、上空を透明な特殊素材で覆い、雨も風も雷さえも遮断する快適な天候が約束された区域である。空には常に穏やかな天候が映像として映しだされ、調節された心地よい日差しが決まった数値内で降り注ぐ。天候に左右されることなく快適な生活を保障されているのだ、その革命的な開発に発表直後から居住希望者が殺到し、主要都市は早々にドームに移った。
今では既に世界の半分以上がドームを採用しており、統計ではあと数十年で世界の四分の三がドームで覆われると言われていた。今や「人間の住む場所」と言えば説明するまでもなく、そして確認しあうでもなく、誰もが当然のように「ドーム区域」と考えるほどなのだ。
対して『ドーム外』とは、空を覆うものはなく雨風にさらされる区域のことである。突然の豪雨が降り注いだり、強い日の光に晒されたり、時には雷に怯えなければならない……と、ドームでの生活が当然となった今ではその不便さを想像すらできない者も少なくない。
元々人間はドームのない空の下で生活していたとはいえ今や不便でしかないその土地は、それでも懐古主義者や自然を愛する者、金のない者や一部の富豪が話のネタに別荘を買ったりと偏った需要を維持していた。
「雨は面倒ね」
とは、ドームを出た途端に降り注ぐ雨にうんざりとした口調で呟くリィリの言葉である。
バサッと軽快な音をたてピンクの布地に花柄が描かれた傘を開き、暗く陰鬱とした曇天にかざす。
ト、ト、ト、ト……と雨粒が撥水の布を叩く音を聞きながらリィリがレインに視線を向ければ、傍らで同様に傘をさした――さすがに彼は花柄の傘ではない。大振りの黒一色で飾り気のない傘である――彼が小さく機体をきしませた。
「雨が嫌なら、ドーム区域に引っ越せばいい」
「嫌よ」
「なぜだ?」
「傘をさせなくなるわ」
勿体ないでしょ、と小さく笑うリィリに、レインがアイセンサーを細めた。彼の癖、人間で言うならば眉間に皺を寄せて瞳を細めると言ったところか。
『無くて七癖』とは昔の人はよく言ったもので、癖は人に限らずロボットにもある。記憶回路を探る時に机を指で叩いたり、情報を誤魔化す時に稼働音が通常より高くなったり。とりわけレインのこのアイセンサーを細める癖はわかりやすく、リィリがさらに笑みをこぼした。
きっと彼は次いでいつもの言葉を言うのだ
「理解できない」
と。ほら、この通り。
「リィリ、君は傘が好きなのか?」
「嫌いよ。手がふさがるし、不便じゃない」
そうハッキリと答えてやると、レインが再びアイセンサーを細めた。
綺麗とさえ思えるその淡い灯り。この悪天候に負けて数メートル先しか見通せないリィリの瞳とは違い、視力ではなく性能の優れた彼のアイセンサーならばどこまで先でも見通せるのだろう。切り替えれば人の構造や建物内の人間までスキャンできると以前に話してくれたことがある。
――もっとも、当時のリィリは幼くロボットに対する知識も浅かった。だというのに子供の扱いに不慣れだったレインはやたらと小難しい単語を並べて説明するものだから、結果的に「レインの目はすごいのね」という一言で終わり、それ以降彼との隠れん坊が行われなくなっただけにすぎない――
「傘は不便だわ」
パシャン、と水溜まりを蹴飛ばし、リィリが呟く。
人口がドームに偏った現在、ドームを出れば人の姿は疎らになり、とりわけ雨が降っているとなれば周囲には誰もいない。
きっとドームの中では外のこの曇天とした空もジットリとした空気も知らず、快適な環境の中で多くの人やロボットが賑わいを見せているのだろう。勿論、誰も傘など持たず、それどころか傘を知らない者すらいるかもしれない。
シトシトと降り注ぐこの雨音も、彼等の耳には届かないのだ。
「傘は進化することをやめたのよ」
そう呟きながらリィリが手にしていた傘を傾ければ、雨がまるで誘導されるかのように一方向に流れ落ち、その先にあるレインの鉄の足を叩いた。
「あら失礼」と悪戯気に笑うリィリに、レインが「お構いなく」と答え、鉄の指で掴んだ傘の持ち手を軽く揺らす。
その瞬間リィリの傘を大量に水が叩き、ドドッという豪快な音に思わず目を丸くした。二メートルを優に越える高さからの集中豪雨はそれほどまでに勢いがあるのだ。
「やってくれたわね」とリィリが睨みつければ、頭上高くにあるレインの口元のパーツが僅かにゆるまり「傘はいつの時代も不便だな」と答えた。
いつの時代も、ロボットが夢の象徴であった時代も、ロボットと人が殺し合った時代も、傘は変わらず傘である。
骨組みや仕掛けにこそ多少の改良はあったとしても、差すためには片手が塞がる。豪雨の前では歯が立たず、足下までは守れない。現にリィリの靴は徐々に雨水を染み込ませ、ジンワリとした不快感と共に足先が冷えはじめてきた。
なんて不便、とドーム区域の人達は笑うだろう。だけど……
「だけど、この不便さが愛しいの」
そう呟きながらグルリと持ち手を回せば頭上で鮮やかな花が一回転し、自分を囲むように四方に雨水が飛び散っていく。勿論、隣にいるレインにもその飛び散った雨水がかかり、彼の青いボディーを水滴が伝っていく。
青く塗装された体、腰元の間接部、細かに組まれたパーツの隙間を雨水が伝い、滲むことなく鉄の肌を滑り落ちる。まるで舐めるようなそのゆっくりとした水滴の動きは艶めかしいとさえ思え、リィリが深く吐息を漏らした。
「リィリ、どうした?」
「……どうもしないわ」
「早く帰ろう。冷えてしまう」
「えぇ、そうね」
隣を歩く機体に促され、リィリも足を早める。
次第に強くなりつつある雨音が叩きつけるように傘を鳴らし、ドーム内ではけして聞くことのない雷が薄暗い空に唸り始めた。
ドーム区域から歩いて数十分。主要部から適度に離れつつも不便というわけでもなく、それでいて自然を感じられるそこはかつての条件であれば高値であっただろう。とりわけリィリとレインが駆け込んだ高層マンションは作りもよく値が張ったはずだ。
もっとも、空を覆う黒い雲と数分前から止まぬ稲光がこのマンションの価値をグッと下げている。ドーム外、それだけで土地も住まいも全ての価値が桁単位で変わってくるのだ。
「これだけ降られたら傘を差しても無駄ね」
びしょ濡れになり色が変わった上着を手で払い、リィリが傘立てに傘を差し込む。
足早に急いだが結局途中から大粒の雨に晒され、おまけに風まで吹いてきたのだ。まさに豪雨といったその天候に、頭上に撥水の布をかざすだけの傘が抵抗出来るわけがない。
「やっぱり傘は不便だわ」
レインからタオルを受け取り、手足を拭きながら廊下を歩く。
もとより水を通さぬ鉄のボディーを持つ彼はさっさと付着した水滴を拭うと、風呂を沸かしてくると浴室へと向かってしまった。一度タオルで拭けば済む彼と違い、リィリはいつまでも濡れ鼠だ。体内の回路を操作しボディーを暖めることも出来ず、体は徐々に冷えていくばかり。
ブルリ、と一度体を震わせ、腕をさすりながらレインを呼び寄せた。
「レイン、寒い」
「今風呂を沸かしている」
「待てないわ、レイン」
ねぇ、と強請るようにリィリがレインの名を呼び、両手を広げる。
それを見たレインが僅かにアイセンサーを揺らし「すぐに……」と言いかけ、出かけた音声を止めてリィリに歩み寄った。応えるようにゆっくりと腕を伸ばし、小さな彼女を鉄の手で抱き寄せる。
包み込まれるような感覚と、ヒンヤリとした鉄の肌の冷たさにリィリが目を細めた。
「あなたも冷たい」
「まだ暖めてなかったからな」
そんな会話を交わしていると、リィリの体を包むレインの腕からキュルル…と小さな音が響き始めた。体内の出力を上げて回路に熱を灯しているのだ。
次第に彼の鉄の肌が暖まっていく。冷えた自分の体にその熱が流れ込んでくるのがわかり、リィリが小さく息を吐いた。レインを見上げて彼の胸部に手を添えれば、中の微振動が手のひらを伝う。
心音とも違うその細かな動きは体内の動力が動いている音だと以前に聞いたことがある。心臓ではない、とレインは言うが、リィリからしてみれば同じようなものだ。
愛おしくて、堪らない。
肌を合わせ、体を重ね、心音を重ねたい。
例えそれが何一つまったく違う物質からなるものだとしても構わない。
「レイン、抱いて」
ポツリと漏らしたリィリの言葉に、レインが僅かに軋みをあげた。
キィ…と響く音は動揺か困惑か、嫌悪だったらどうしよう……そんな迷いが僅かに浮かび上がるが、全てを断ち切りリィリが再び彼の名を呼んだ。
徐々に彼の腕が離れていくのがわかり、それに縋るように手を添える。暖かくて、固い、鉄の肌。青い塗装にリィリの白く細長い指がよく映える。
「レイン、抱いて」
「もう十分抱きしめただろう。暖まったはずだ」
「違うの、そうじゃない。ねぇ、抱いて」
請うようなリィリの声に、レインのアイセンサーが揺れる。
そうしてその灯りがゆっくりと細まるのを見て、リィリが小さく息を呑んだ。次いで言われるのはきっと……
「理解できない」
そう、この言葉だ。
それを聞いた途端、雨に濡れた時よりも、冬の日のレインのボディーよりも冷たい何かが体の中を駆け抜け「そうね」と震える声で答えた。
そうしてゆっくりと彼の隣を通り過ぎバスルームへと入ると、後ろ手に鍵をしめ、脱衣所の暖かさに涙を流した。
効率性を高めたロボット達は、その性能・寸法・|ボディー|《機体》のカラーに問わず一度はこう考える。
「人間は情を捨てればより高みに昇れるのに」
なぜ彼等は情などというものを抱き、ましてやその情に振り回されて生きるのか。友情などと言う明確な契約のない関係を尊び、性行為の先に愛などという不確かなものを見る。効率と生産性だけを見れば人間はよりいっそうの繁栄を得られるというのに……。
と、感情はあくまでプログラムでしかないと考えるロボットには理解し難いものであった。
なにより、彼等は不要と感じれば『感情』を遮断することが出来るのだ。それを果たして感情と呼べるかは定かではないが。
シャワーを止め、タオルを体に巻き付ける。
髪から滴り落ちる水滴をタオルで押さえるように拭い、リィリが用意されていたパジャマに手を伸ばし……その手を扉へと向けた。
先程より幾分弱まった雨が窓を叩く。本来であれば夜景の見える窓も今夜は暗く、雨水で歪んだ景色はまるで溶けているかのように脆い。普段はドーム区域とドーム外の差が明確に見えるはずなのに、それすらも今夜は混ざり合って境目を失っていた。
そんな夜景をボンヤリと眺めつつ、リィリが寝室へと向かう。
今頃レインは布団を暖めているのだろう。いつだって「まだ早い」とリィリが文句を言いたくなる時間に彼は就寝の準備をし出すのだ。まるで親のよう、いや、事実彼はリィリの親代わりである。
多忙で一年の半分以上、ひどいときには一年間で一度たりとも帰ってこない親の変わり。
「雨の日に稼働した貴方が親代わりだなんて」
と、そう笑ったのは誰だったろうか。
「だけどレイン、私は一度たりとも、親に向ける感情を貴方に抱いたことはないの」
そう呟いて、寝室の扉に手をかける。旧式の扉はノブを捻らなくては開けることが出来ず、不便だとレインがよく訴えている。だがリィリにとって、ドアノブを回すというこの手間が堪らなく愛しいのだ。
もっとも、そのドアノブもとうの昔に生産を終了しており、最近では一部の懐古主義者が趣味で作っているのみである。
だがこの僅かに響くカチャンという音が、力加減しだいで細い光をもらす絶妙さが、リィリにとっては心地よく感じられた。
「リィリ、今日は疲れただろうから早く……」
寝た方が良い、と、そう振り向きながら告げるレインが出かけた音声を飲み込んだ。
彼のアイセンサーの灯りが強まる。普段は淡い青色に灯るのに、今は青みをましてボディーより深い色合いを放っている。ギチ…と一際大きく響いた軋みの音はどういう意味があるのだろうか。
そんなことを考えつつ、リィリが自分の体に巻き付けていたタオルをそっとほどき、パサと軽い音を立てて床に落とした。
ヒンヤリとした空気が肌に触れる。
部屋の隅に置かれた鏡に一糸纏わぬ自分の裸体が映る。
髪はいまだ湿り気を帯び、なだらかな曲線を描く胸元に添うように張りついている。
「……リィリ」
「レイン」
「早くパジャマを着た方が良い、体を冷やしてしまう」
『見てはいけない』という認識はあるのか、レインが顔を背ける。その動作にリィリの中で羞恥が沸き上がるが、それより勝るのは『期待』。
少なくとも彼は今『リィリの裸を見てはいけない』と判断したのだ。
子供相手であればそんなことはしなかっただろう、仕方ないなとタオルを拾って髪を拭いてくれたかもしれない。だが彼は顔を背けた、冷えた空気に体を晒すリィリを前に、それでも顔を背けた。
子守ではないレインの思考が、彼にそうさせたのだ。
願わくば、どうかそれが彼の『男』としての思考でありますように。
そんな僅かな可能性にリィリは小さく息を吐き、顔を背けるレインに歩み寄るとそっと彼の胸部に手を伸ばした。
カチカチと何かが動いている。自分の心臓とは違う、レインの動力部。例えそれが部品の組み合わせでしかないとしても、リィリにとっては何より愛おしく思える。
彼の心臓が部品の組み合わせだと言うのであれば、人間の心臓だって所詮は肉と筋の組み合わせなのだ。
「ねぇ、レイン」
「……早くパジャマを」
「最後に一度だけ言うわ」
「……リィリ?」
レインのアイセンサーがリィリに向けられる。
淡く灯る彼の視線に裸体を晒す羞恥が沸き上がるが、それを耐えきり、むしろ目をそらさないでと請うように見つめて返した。自分の体は彼のアイセンサーにどう映っているだろうか、せめて肉の塊ではありませんように……と、そんなことを考えつつ、リィリが彼の胸部に添わせた手をそっと滑らせる。
指先に固い鉄の感触が伝う。組み合わさったパーツの隙間を指でなぞり、その滑らかな感触に想いを馳せる。
人の肌とは違う、人間には有り得ない繋ぎ目。それらを確認するように指を滑らせ、リィリが小さく彼の名を口にした。
「最後に一度だけ言うわ。これがダメなら、私は……私は貴方の子供になる」
「子供に」
「そうよ、私の一生に貴方は私の子守として刻まれるの。親への情を貴方に抱くわ」
シトシトと聞こえてくる雨音に今日が最適ねと自虐的に笑い、リィリがレインを見上げる。
「愛してるの、レイン」
「リィリ……」
「寒いわ。ねぇ……抱いて」
そう、ジッと青い灯りを見つめてリィリが告げる。
そのまま数秒は見つめ合っていただろうか。二人の間には何の言葉もなく、ただ雨音が窓を叩く音だけが続いていた。
それを破ったのはゆっくりと細まるレインの淡いアイセンサーと、そして告げられる
「理解できない」
という言葉だった。
「そう……」とリィリが呟き、彼から視線を逸らす。
叶わなかった。それどころか気持ちが伝わりすらしなかった。その事実がリィリの胸に突き刺さり先程見た夜景のように視界が歪む。
ダメ、泣いちゃダメ……そう自分に言い聞かせ、徐々に熱くなる目頭と揺らぐ視界で床を睨みつけた。
この想いが実らなくても、レインは変わらずそばに居てくれる。
男と女になれなくても、きっと親子のように接して、最期の瞬間まで隣にいてくれるから……。
それでも、いつまでもこの想いが胸に残るのなら、いっそ感情など全て削除してしまえたらいいのに。
そう歪む視界で考えつつ、リィリが床に落としたタオルを拾おうとし……
グルリ、と回った世界に小さく声を上げた。
次いで背中に受けるのは柔らかく暖かい感触。そして視界には天井。
ベッドだと、そう判断するより先にレインの顔が視界に移り込んできた。押し倒されたのだと状況を理解すれば、それとほぼ同時に彼のアイセンサーが瞬く。
「レイン?」
「理解できない」
普段通りの彼の言葉は、それでも今だけはどこか不安定でノイズが混じる。
「レイン、どうしたの?」
「理解できない……どうしてこんな、削除しても、押しつぶしても、処理できない程にプログラムが沸き上がる」
「……それは」
「リィリを両親から預かった。傷つけないよう、大事に守り育てるのが私の役目だ。それなのに、理解しているのに、どうして……!」
アイセンサーの灯りが揺らぐのは動揺のあらわれか。それを見たリィリがそっと両手を伸ばし彼の頬に触れた。固い鉄の肌。指先に微振動が伝わるのは彼が混乱しているからだろう、ほのかに暖かいのは彼の回路がプログラムの処理に追いついていないからか。
なんて分かりやすくて、そしてなんて愛おしい。
揺らぐ光にリィリの胸が高鳴り、レインの頬に添えた手をそっと滑らせる。人間とは違う鉄の肌が心地よく、ゆっくりと指先でそれを堪能し、音声を発するパーツに触れた。
「レイン、それはきっと愛よ」
「そんなもの不必要だ」
「どうしてそんなことを言うの?」
「感情は人間の繁栄を妨げる。愛はその最たるものだ」
ノイズを混じらせつつ断言するレインの言葉に、そうねと小さく返し、両手でレインの頭を引き寄せて胸元で抱きしめる。
肌が直接触れる感触、ヒンヤリとした冷たさ。もう少し胸が大きかったら良かったのに……と、そんな場違いな考えが浮かんだ。
「でもね、情を捨てればその先にいけるなんて、私達はとっくの昔に気付いていたわ」
「それならどうして」
「それでも情に捕らわれて、振り回されていたいのよ」
「理解できない」
胸元から聞こえてくる声にリィリがクスリと笑って彼の頭部を撫でた。肌越しに伝わってくる微弱な振動、彼が生きている稼働音。キュル…と小さく響くこの音のなんと愛おしいことか。
「人間は情が叶う瞬間を知っているから、だからこそこの不便さが愛しいの」
そう囁くように彼に告げ、冷たい鉄の唇に己の唇を触れさせた。
カーテンの隙間から漏れてくる光は昨夜の大雨が嘘のように眩く、ドーム内とは違い調整されていない朝日は容赦なくリィリの顔を照らす。
ブルリと体が震える。寒いと呟きつつ腕をさすれば、ようやく自分が裸のままだということに気付いた。
「寒いはずよね……」
そう誰にでもなく口にし、脱衣所に起きっぱなしのパジャマを取りに行くためベッドから降りようと布団をめくる。が、僅かにあけた布団の隙間から足を出そうとした瞬間、延びてきた鉄の腕に再び布団の中に引き戻されてしまった。
ヒンヤリとした冷たさに思わず小さな悲鳴があがる。
「レイン冷たい!」
「すまない、直ぐに暖める」
「もう、とりあえずパジャマを着るから」
離して、と抱きしめてくる冷たい鉄の腕を軽く叩くも、更にギュウと締め付けが増す。
そうしてレインの言うとおり徐々に腕部が熱を持ち始めるのだから、これにはリィリも目を丸くし、半身捩るようにして背後の彼に視線を向けた。
青いアイセンサーが今朝は一段と柔らかく灯っているように見える。だがどういうわけか、その灯りはリィリの視線と交わされることなく、まるで人間が居心地悪く視線を逸らすように右へとそれた。
「レイン、どうしたの?」
「……直ぐに暖める」
「えぇそうね、暖かくなってきた」
抱きしめてくる腕はもちろん、背に触れる彼の体すべてに熱が灯る。
直に触れる愛しい相手の暖かさはこれ以上ないほどに心地よく、それでも裸という羞恥が勝りリィリが小さく「パジャマ」と呟いた。
昨夜あれだけ大胆に裸体を晒したというのに、今更恥ずかしくなるのもおかしな話だ。だが昨夜のことも含めて、そして体に残る名残がよりいっそう羞恥を掻き立てるのだ。
もっとも、その言葉を聞いてなおも逃がすまいとレインの腕は更に強くリィリを抱きしめ、それどころかパジャマの不必要さを訴えるように腕の熱を一段と高めた。
「リィリ」
「なぁに?」
体を包み込む暖かさにリィリが微睡むように柔らかく笑い、背後の不器用なロボットの腕を撫でた。
固い鉄の肌に指を滑らせ、もう一度「なぁに」とわざとらしく促す。
そうして聞こえてきた
「抱きたい」
という音声に、うっとりと瞳を細めて何度も請うように口にした言葉を告げた。
「抱いて、レイン」
と。
…END…