その8
"滝"に対して一定の結論を得た二人は、ひとまず階下へ降りることにした。
防火扉の付近にいた男達と情報共有を図るためだ。
「つまり、当面は凌ぎきれるってことか?」
「たぶんな」
司はリーダー格の熊のように大柄な男に頷いてみせる。
当初こそ"滝"の勢いに文字通り呑まれかけたものの、発生する水量はあくまで一定だ。講堂内の貯水量増加に伴い水圧が増したことで、各所の扉や窓が押し流され、外部へ排出される量も増えた。危ぶまれていた建物の倒壊についても、現在はぎりぎりで均衡を保っているようだった。
「俺達も何もしなかったわけじゃないからな」
御柱大志と名乗ったその男によれば、彼らは仲間内で手分けしてある試みをしていたのだという。
なるほど、彼が指差す方を見れば、たしかに──
「壁がぶち抜かれてるな」
「豪快だろ?」
御柱ががははと笑う。
講堂の一部の壁は、彼の仲間たちの手によるものなのだろう、綺麗に取り払われて支柱を露わにしていた。無論、排水量を増やすための方策だろうが、この"滝"の暴威のさなかでどのようにしてそれを成したのかについては、どこかで話を聞きたいものだと司は思う。
「ついでに支柱の強度も向上させてる。ダイヤモンドとまではいかないが、まあ滅多なことじゃ倒れないから安心していい」
「大した連携だな」
御柱が口にしたことを成すためには、最低でも3種の『異能』が必要となるはずだ。それらの能力の保持者を統括し、実行する。分析してばかりの自分では出来ない話だった。
「なに、こういう荒事には慣れてただけだ。逆に言えば、今以上のことは出来ん。『先』を考えるのは、あんたみたいな奴だろう」
「どうも」
強く肩を叩かれ、取りあえずはそう返す。
(『先』か──)
たしかに、一つ推測していることがある。けれどそれを口にすることに躊躇いを持っていた。なんとなれば──わざわざ恐怖を煽るようなことを口走っても仕方なかったからだ。
けれど、この場には頼りにすべき能力者たちが多数いる。であれば連携して現状を打開すべきなのだろう。それこそ御歌土の狙い通りで多少癪だったが。
とにかく、と司は口を開きかけた。自分の予想する『先』について皆に説明し、協力を得ようとした。
だが、
「きゃあっ」
突如襲ってきた打ち下ろしの水を後頭部に受け、かいなが大きく倒れこんだ。
「かいな!」
咄嗟に司が手を伸ばすも間に合わない。そればかりか自身も別の水流に晒され、床に突っ伏してしまう。
「な、なんだ!? 急に水の勢いが増したぞ!」
辛うじて耐えたのは体格の良い御柱だけだった。他は全員が這い蹲り床を舐めている。
「何事だ!?」
司は御柱に助け起こされながら、その疑問に答えた。
「……多分、"滝"が気付いたんだと思う」
「どういうことだ?」
「さっき、俺はこの"滝"を巨人に喩えただろ。で、今は奴の体の一部だけがこの講堂内にある。多分それは、奴の本体がいる場所とこの講堂を繋ぐ"穴"がどこかにあって、一部がそれを通ってこちらに出てきているせいだと思うんだ」
「ふむ」
「でもってさっきまでは、奴はその穴の存在に気付いてすらいなかった。だから水量も一定だった。けど、もし奴が穴の存在に気付いたら? みか──壇上にいた小さな子のことだ──が云うには、奴は随分と攻撃的な性格らしい。そんなのが、穴の先に標的がたくさんいると知ったら、どう動くと思う?」
「……そりゃあ、なんとかしてこっちに来ようと考えるわな」
「つまり、今そうやって足掻いてるってことだ」
「……まずくないかそれ」
「いや」
そうでもない、と司は首を振った。
予想では、今の水量が"上限"だ。いくら奴が暴れようと、穴は今以上の大きさにはならない。もし際限なく"滝"がこちらに来れるようになれば──先ほど考えたことと同じ理屈だ──それこそ世界が破綻する。御歌土をはじめとしたこの事態を予期していた人間が、手をこまねいているはずがない。
後ろ向きな考えだった。小賢しいとすら云える。"非力な自分たちに用意されたものが強大であるはずがない"という甘えた論理。だが恐らく御歌土は、自分がこう考えることまで見越しているのだろう。
今はあいつの手のひらに乗せられてやるしかないか──司は頭を掻きながら振り向く。すると、なぜかぷんすかと怒った顔のかいなと目が合った。
「司ちゃん」
「は、はい」
なんとなく敬語になってしまう。
「さっき嘘云ったね?」
「ん?」
なんのことだか本気でわからなかった。
「だって司ちゃん、この滝のことを怖るるに足らず、って云ったよ。でも、それがはっきりしたのは今なんでしょ?」
「あー……そのことか」
「さっきまでは、どれだけ危険になるかわからなかった。なのにあんなこと云って。それって、私を安心させるためでしょ」
「いや、それはだな」
「私も馬鹿だった。不安な時は自信満々。それが司ちゃんの癖だってわかってたはずなのに。うー」
うううー、と唸り声が続く。どうも悪いところを刺激してしまったようだ。司がどうしたものかと慌てていると、横合いから御柱が遠慮がちに割って入ってきた。
「あー、その、なんだ。すまんが、痴話喧嘩は二人だけの時にしてくれると助かるんだが……」
「わ、悪い。それと別に俺とかいなは恋人じゃないぞ」
「そうなのか?」
「うん、違うよ。司ちゃんの恋人はみかちゃんだもん」
「それも違う!」
余計なことを口走るかいなのおでこをぺちんと叩き、司が喚いた。
「……なんだか複雑な関係みたいだな」
「いいから、話を戻すぞ。御柱、お前の方で自由になる人員はどの程度用意出来る?」
「それは、この拠点を確保し続けることが前提か?」
「話が早くて助かる。講堂内は文字通り流動的な状況だからな。怪我人やら不測の事態に備えるためにはここは削れない」
「となると……悪いが全員が出張っちまってることになる」
「お前もか?」
「俺がただここで突っ立ってるだけだと思ったか? 俺の『力』は、他の奴らの土台になってるんだよ。この場を離れるわけにはいかないんだ」
「どんな力か少し気になるが……今は後回しか。とにかく、お前らは身動き取れないと」
「ああ」
「となると、俺達だけで行くしかないのか」
「全員で建物の外へ逃げ出す選択はないのか?」
「本当に全員ならそれでもいいんだが、取り残された人間がいるだろうからな」
「それもそうか。しかし、お前ら二人だけで何とかなるのか?」
「多分」司はそこで、ひょいと背後のかいなに振り向いてみせた。「俺達はずっと前からそういう役回りなんだよな」
「だねえ」
それからついつい、二人で苦笑してしまう。
結局、振り出しに戻った感があった。どんな要素が周りに出現しようと、最後に御歌土と向き合うのはやっぱり自分達二人なのだ。
とはいえ──頼りになりそうな人間を味方に出来たし、"滝"に対して均衡状態を保つことが可能であることも判明した。となれば、もはや必要以上に焦る必要はない。
「だから、俺達は持久戦を選ぶ」
「というと?」
「"滝"もいつかは諦めるはず、ってことだ。その時、水の勢いが弱まった瞬間を狙って、一気にみかとの距離を詰める」
「それから?」
「なんとかする」
「おいおい」
御柱が盛大にずっこけた。司は赤面しつつも、仕方ないだろ、と言い返す。
実際、御歌土を相手にして思い通りにいくことはまずなかった。むしろ行き当たりばったりで挑んだ方が上手くいく場合が多いのだ。万事を計画立てて進めることを旨とする司だが、こと御歌土についてだけは例外だった。
ただ、いずれにせよ一つの事実がある。
自分たちがそれで失敗したことはないのだ。
「だから、そこは俺たちを信用して、取りあえずひたすら粘ってくれ」
司は御柱の肩を叩き、頼んだぜ、と続けた。こう云われれば、目の前の愚直そうな男が拒絶することはないと踏んだのだ。
「お、おう……わかった」
そして案の定、御柱は渋々ながらも承諾の意を表す。助かる、とそれに返した司は、『持久戦』に備えて敵──滝の中心部に目を向けた。これ以降は、水勢が弱まる瞬間を見逃さぬよう、片時たりとも注意をおろそかにすべきではない。
だが──
「え?」
そのとき、視界を掠めて飛来するものがあった。
予期せぬ出来事に司の反応も一瞬遅れる。
"それ"は瞬きの間に講堂の後部壁へ到達すると、派手な音を蹴立てて停止した。そこでようやく、司はその姿を視界に捉えることに成功する。
はじめは、球状の光が飛んでいったように見えた。
だが位置が定まると共に光は薄れ、その中に隠れていた実体を露わにする。
それは、明らかに人間の男性の姿をしていた。
(何者だ?)
司は目を眇める。一瞬自分達のお仲間かと思ったが、すぐに考えを改めた。
男の年齢は少なくとも四十を越えているように見えた。頭部には白髪も混じっている。端々に刻まれた皺の深さからしても、壮年であることは疑いようがない。この場に集められた人間はすべて十代後半であったはずだから、この男性が該当しないことは明白だ。
(だとすれば──)
司の思考を遮るように、男性が壁につけた足を蹴った。そう、男性は壁に垂直に立っていたのだ。その大陸風の装束とあいまって、あたかも雑技団の所属員が己の技を誇るかのように。
「──なんだ!?」
驚愕の声を放ったのは御柱か。そう理解が及んだ頃、壁を蹴った男性の身はすでに遥か前方に移動していた。
「……なに、今の速さ」
かいなが呆然と声を発する。
彼女の空中浮揚能力は、最大時速50キロメートルを記録する。ちょっとした車並みだと言える。しかしそのかいなですら唖然とする速度で、あの男性は宙を翔けた。それは人類の埒外と言っていい能力であるはずなのだ。
つまり──
「……最悪だ」
司は早々と男性の正体に見当をつけていた。
そもそも、思い当たる可能性は一つしかないのだ。早晩他の者も同じ結論に至るだろう。
しかし──これはどうすればいいのか。
にわかには判断が付かなかった。
「是、是」
司の動揺をよそに、男性はその後幾度も宙を蹴り、周囲を飛び回っていた。その度ごとに何かを確かめるように頷きを繰り返し、やがて満足するに至ったのか、動きを止める。
「呀呀」
呟く彼は今、講堂の天井に足をつけていた。二重底の木靴をぴたりと揃え、ごく自然体で──しかし逆さ釣りとなっている。
「な、なんなんだあんた」
御柱が呻くように問うた。すると男性は『ん?』と首を傾げ、それから唇を捻じ曲げるようにして笑んだ。
「對不起(悪いが)」
お前達の言葉はわからないのだとでも云うように、腕を組む。
その音の響きからして大陸の出自のように思えた。しかし映画などで耳にするものとはどこか違いを感じる。訛りの強い地方なのか、あるいは──あるいは現代語ですらないのか。
「叫什公名字(あなたの名は)?」
司がなけなしの中国語知識でもって誰何した。すると男性はおお、と嬉しげに唇をすぼめ、しかしすぐに眉尻を下げて首を振る。まるで劇中の人物のような大げさな素振りである。
だが、なんとなく云いたいことは伝わってきた。
「知らない方が良いってか」
かもしれないな、と司は思う。名を聞いて何者かがわかれば、対抗するヒントが得られる可能性はある。しかし、"滝"の例を鑑みれば、目の前の男性もおそらくはまともな存在では有り得ない。
御歌土は"滝"のことを創作物内の存在だと断言した。
もし、この人物も同類であるならば──どのような力を持つか下手に類推することは危険というほかない。
(事実上、なんでもあり、ってことだよな)
人類史が始まってより、いったい世にどれほどの創作物が生まれてきただろうか。もし男性がそれらの一員であるとしても、特定はまったくの無意味だ。
ある書物では物乞いだった人物が、別のある書物では将軍となっている例もある。いずれの創作物であるかを特定することが可能であればともかく、司の知らない創作物が無数にある以上、非現実的な話というほかなかった。
(つまり、まずは出方を見るしかない)
どんな力を持っているかは不明だが、何でも出来るというわけではない。というか──そうとでも仮定しないとやってられなかった。
(それにしても)
改めて男性の身なりを見る。
たった今自分達はとんでもない体術を見せ付けられたわけだが、そのくせ男性の服装は武官のものには思えなかった。鎧めいたものは一切含まれない布地中心の衣服で、その装飾は絢爛華美。敵を威圧するよりも味方に向けて権威を誇示するかのような体裁は、明らかに僚幕の裏で纏うために設えられたものだ。
だが男性の精悍な顔立ちは、彼の生きた場が宮廷内のような平穏な空間でなかったことも同時に示している。
(文官でもない……とすると、軍師か?)
司は無意味とわかっていながらも、ついつい男性の正体に考えを巡らせてしまう。
と、あらぬ方を向いていた男性がぐるりと首を回し、ぴたりと司に視線を合わせてきた。
「な、なんだ?」
男性の視線は僅かたりとも動かない。周囲の空気が硬質なものに変じた。司は身構える。何が起きても避けられるようにしつつ、背後にいたかいなを脇へと退避させる。
「来る、のか?」
御柱も何がしかの構えを取っていた。いざとなれば司の身を掻っ攫って逃げるつもりもあるようだ。これには正直有り難い、と司は思う。相手も肉体派ではないようだが、自分だって大概だ。拳で殴りあうような展開は勘弁願いたい。
益体ないことを考えている間に、男性が動きを見せた。
逆さ吊りのまま腕を差し上げ、指先を司に向けて突き出したのだ。
(──来る)
空気が一段と濃度を増した。
時間の流れが緩慢になったように感じる。
集中しているのだ、と司は自分を評価する。自分は正しく敵に備え、集中出来ているのだと。
男性が突き出した指を奇妙な形に捻った。見たことの無いような動きだった。
その先から何らかの術式が発せられるのか。ともすれば、男性は妖術師のようなものなのか。
幾つかの憶測が脳裏を飛び交う中、男性はかすかに笑むと。
その瞳をかっと見開き。
大きく口を開き。
その舌先から──
一条の光線を発射した。
ちゅん、と音を立てて照射された光線が、司の頬を掠めた。それは背後の壁に到達し、表面をぶすぶすと焼け焦げさせる。
「──ちょ」
司の額を冷や汗が伝った。
にやりと男性が笑った。
ひどく愉快げだった。
それから彼は再度口を開き──
「ちょっと待てええええええ!」
司は、横っ飛びで続く光線を避けた。
周囲の人間も蜂の子を散らすように逃げ惑う。
予想外だった。
予期できるはずがなかった。
「その見た目で」
たまらず叫んだ。
「口からビーム吐くとかありかーーーーー!?」
男性は珂々と大笑した。それから今度は四方八方へとビームを乱射し始める。
「嘘だろおおおおお!?」
誰かが叫んだ。応じるように、ちゅん、ちゅん、と光線の音が乱舞する。あちこちで焦げつく匂いが立ち込める。それはただちに滝に飲み込まれて消え去るが、その流れを貫くようにまたビームが飛び交う。
講堂内はしっちゃかめっちゃかの大混乱となっていた。ほんの少し前まではじりじりとした緊張感が漂っていたのに、今は別の騒ぎに取って代わられていた。
「なんだろう、これ」
かいなが柱の影に隠れながら、対面の司に苦笑いを向けた。
「ドリフみたい」
「ああああまったくだ!」
司もヤケクソになっていた。
これまで、突っ込みどころは多々あれど、自分なりにシリアスに現状に立ち向かおうとしてきていたのだ。
現われた滝を分析し、対抗手段を協議し、暴挙に出た御歌土への当面の立ち位置も定める。そうして──格好つけた物言いとなるが──かつての自分達を取り戻していこうとも考えていたのだ。
だというのに──それが口から怪光線を放つ男にぶち壊される展開になるなんて。
すっぱりと、酷いと思う。
「誰が納得するんだこの展開!」
「おお、騒いどる騒いどる」
けらけらと笑う声に目を向ければ、遠くで御歌土がこちらを指差して腹を抱えていた。
「みか! てめえ!」
「なんだ、つかさよ。普段の冷静さが嘘のようではないか。いい気味だわ」
「やかましいわ! ったく、なんなんだあいつは!? いくらなんでもトンデモすぎるぞ!」
「知らぬ」
「は?」
「だから私も知らぬと申した」
「どういうことだ!?」
「"穴"より生じるものが何者であるかは、私とて与り知らぬところでな。一体目の"滝"の素性とて、かねて読み解いた書物より得た類推に過ぎぬ。ましてこれほど突飛な輩となれば、なおのことよ」
「いったん何なんだ、その"穴"ってやつは!」
「さての。だが今はそんなことを気にしている場合でもなかろ? ほれ、また来るぞ」
御歌土の声に応じるように、飛来するビームの頻度が増した。見れば男はいつのまにか講堂の真っ只中に立ち、滝の流れをものともせずに踊り狂っている。激しく緊張感に欠く姿だが、脅威であることに違いはない。しかし繰り返すようだが緊張感がない。
「どうしてみかちゃん相手だとこうなるんだろうね」
「あいつが"ずれてる"のは生まれつきだろ。死んでも直らねえよ」
だから自分達もそれに死ぬまで付き合わされるということだ。救いといえば、この場で二百人以上のお仲間が出来たことくらいだろうか。皆には同情はするが、諦めてくれとも思う。
「とはいえ、まずいな」
もはやビンタですら生ぬるかった。事が済んだら御歌土には尻を叩いてお仕置きするとして、怪人が巻き起こした騒ぎは皆の混乱に拍車をかけ、収拾がつかないレベルまで達しようとしていた。逃げ惑う者達を安全な場所に誘導しようと声を枯らしても、大半が聞き入れる余裕を失っている。何より、その安全な場所自体の維持が難しくなっている現実がある。
「御柱! 状況はどうだ!?」
「すまんが、もう長くは保たん! こう頻繁にビームが飛んでくると、まともに隊列を組むことも出来んのだ!」
「やっぱりか」
御柱は自分の力を『土台』と表現した。つまり複数人で事にあたることを前提とした能力だということだ。しかし怪人のビームにより今は各員が散り散りとなっている。限界は見えていると言っていいのだろう。
(では、どうする──?)
次の一手を探した司は、そのとき、視界の一角で奇妙な現象が発生していることに気付いた。
(なんだ?)
まるで、そこだけが静寂に包まれているかのようだった。
周囲では水の轟く音や悲鳴が行き交っているにも関わらず、ある一定のスペースだけは、別の空間が割って入ったかのように静かなのだ。
そして、それが錯覚であることを司は遅れて自覚する。
静かに思えたのは、その空間内で動きがまったく見られないからだった。
講堂の一隅。何があるというわけでもないのに──そこは滝が生み出す水流の暴威からも逃れていた。あたかも見えないドームが存在しているかのように、水は周囲を巡るばかりで一滴たりとも浸食している様子がないのだ。
そしてドームの中には、床に倒れ伏す幾人もの人間がいた。
一目見て攻撃された後なのかと肝を冷やすが、すぐに違うと悟る。彼らに苦悶の気配はなく、口元から漏れ出ているのが静かな寝息だということが見て取れたからだ。
混乱のさなかに突如発生した静寂の空間。
目を凝らした司は、その丁度中心に当たる位置に倒れている──眠っている少女が、薄い光を身に纏っていることに気付いた。
「あの子は?」
口をついて出た問い。
しかし近くにいた誰もが知らないと首を振る。どうやら御柱の友人というわけでもないらしい。
誰もが名を知らぬ少女。
それは当然といえば当然であった。
少女はこの島に連れられてきてより、他者と一切の口を利かなかった。四六時中襲い来る"眠気"と戦っていたために、そうした余裕がなかったのだ。
今、彼女はあらゆる外圧をよそに、安らかに眠り続ける。結界とでも呼ぶべき絶対的な障壁を周囲に築き、近くにいた幾人もの人間を巻き込んで、口元に笑みすら浮かべて眠りの世界に耽溺する。
名も知らぬ少女。
やがて司達も知ることとなる彼女の名は、葛根先子と云う。