その6
「なん、で?」
御歌土は、叩かれたばかりの頬に手をあてた。
その目は呆然と見開かれ、ぴくりとも動かない。
まるで理解出来ないという顔だった。
たった今、自分が怒られたのだということすら、少女は自覚出来ていない。
(……みか?)
その様子に、司は眉を顰めた。
10年前とあまりにも反応が違ったためだ。
御歌土を叱るのは、昔から彼の役割だった。はじめは口で嗜めようとしていたのだが、やんちゃの盛りだった少女は一筋縄でいく性格ではない。時には"力"で反抗されてしまい、双方がヒートアップした結果、取っ組み合いの喧嘩になったことも一度や二度ではなかった。
なのに──
(軽く叩いた程度で、"あの"みかがこんな顔をするなんて)
司は言いようのない胸の疼きを覚えた。
だから、すぐに言葉をかけようとした。
なぜ叩いたのか、大人が子供にするように諭そうとした。
けれど、今彼らがいるのは"滝"の真っ只中だ。御歌土は自失状態にあり、障壁を再度展開する気配もない。結果、それぞれが降り注ぐ水に打ち据えられ、ばらばらの方向へと流されてしまう。
「えい、こら、しょ!」
かいなが気勢を張り、押し寄せる波の中でぎりぎり踏み止まってみせた。けれど水の圧力は絶大だ。耐え切れないと判断した少女は、蛇のようにうねり絡み合う水流の中から講堂の後方へ向かって流れていく一本を見定め、残った力を振り絞ってそちらに移動した。
そのまま、二人の体は水の流れに従う。ステージから離れ、講堂の最後尾へと押し流されていく。
講堂は縦に長い長方形をしている。最後尾の水の流れは、滝の中心がある前方と比べれば僅かに緩やかだ。力を使い果たしたかいなに変わり、今度は司が踏ん張ってみせる番だった。彼はかいなの手を掴んで引っ張りながら、後方脇の階段へとその身を滑り込ませる。
階段部には何人かの若者がいて、防火シャッターを利用して水勢の弱いスペースを作り出していた。そこに相乗りさせてもらった形だった。
「長くは保たないけどな!」
そう言いながらも、出来るだけ他の者を助けるつもりなのだろう、扉横に陣取った恰幅の良い男が快活に笑う。
それに親指を立ててみせてから、司はかいなを伴って再び階上のキャットウォークへと移動した。
「──ふう」
二人、示し合わせたように息を吐く。
すると、かいながぺこりと頭を下げた。
「ごめん、司ちゃん」
「え?」
「みかちゃんも連れてきたかったんだけど、無理だった」
「俺に謝る必要はないだろ?」
「えー」
こんな状況下にも関わらず、くすくすとかいなが笑った。対する司は苦虫を噛み潰したような顔になる。
わかってはいた、昔から自覚もしていた。自分達三人のうち、誰が"中心"なのかは。
「頑張ってね、お父さん」
「誰が父親だ」
口をつくのは憎まれ口、軽口。
互いの心を軽くする、言葉のキャッチボール。
ややあって、次は司から口を開いた。
「みかに」
「うん?」
「久しぶり、の一言でも言ってやらないとな」
「だね。私達、そこを間違えてた」
そういうことなんだろうな、と司は思う。
自分達は、御歌土のこの10年を軽く見ていたのだと。
きっと、あんまりにも相変わらずだった御歌土の様子を見て、自分達は安心してしまったのだろう。10年のブランクなんてないようなもので、自分達はあの頃と変わっていないと思い込んで、だからつい、同じように振舞ってしまった。同じように、御歌土を叱ってしまった。
けれど──10年振りなのだ。その10年の間の御歌土を、自分達は何も知らないのだ。
こちらは二人だったからまだ良かった。けれど御歌土はたった一人だったのだ。少女がどんな気持ちで今日という日を迎えたのか──もう少しだけでも慮るべきだった。
「甘えてたのは俺達の方か」
「だね」
かいなが眉尻を下げて、少し困ったように笑みを見せた。
「私もみかちゃんに会えて、嬉しくて、甘えたくて、間違えちゃった。──ねえ、司ちゃん?」
「なんだ?」
「あとで、落ち着いたらさ。三人で一緒にお菓子作ろうね」
それからかいなは材料の名前を一つずつ声に出して並べていく。すぐに司も気付いた。卵、和三盆、みりんにハチミツ、薄力粉と強力粉──御歌土の好物の和風カステラの材料達だ。昔からお菓子作りが好きなかいなにつられて、三人でよく作ったものだ。始めのうちは要領を掴めず失敗続きだったが、最後には安定してそれなりの出来栄えのものを作れるようになっていた。
「そうだな」
幼馴染の提案に賛同しながら、司は再びステージの方角へと目を遣った。かいなもまた、同じ方を向く。
今はまだ、"滝"がカーテンとなって御歌土の姿も見えない。
けれどあの先にいるはずだ。久しぶりだと言葉を交わすべき相手が。
「そんじゃ、まずはもう一度」
「みかちゃんと、お話を」
頷き合った二人は、次に取るべきアクションを相談し始める。
まずは、この邪魔な"滝"にどう対処するか──
◇
一方、御歌土の姿は講堂の端にあった。
壁に激突する寸前でとっさに障壁を張り直し、負傷する事態は避けていた。
特に意識しての行為ではなかった。長年の"訓練"が身についていただけの話だろうと少女は思う。
[お嬢、ご無事で?]
そのとき、脳に直接響いてくる声があった。
だが今は煩わしさが勝ち、返事をする気になれない。
[ありゃ、まだ駄目ですか]
声の主はしつこかった。
[よほどあの坊主に引っ叩かれたのがショックだったようで]
──……黙れ。
ちり、と電流が周囲の空間を走る。
[おお、怖い怖い。では俺は元の仕事に戻るとします]
──怪我人はいないか?
[そこは抜かりなく。取り決めですからね、一体目だけはボーナスステージ扱いでフォローさせてもらいますよ]
──ならば良い。
それで会話を打ち切った。
最低限必要となる、事務的なやり取り。
それ以上は、考える気力がなかった。
下を向き、また頬に手をあてる。
ぐ、と唇を噛み締める。
喉の奥がえずき始めた。
えぐ、と声が漏れる。
けれど、それが泣き声となる前に、少女はふいに顔を上げた。
「……なんだ?」
疑問が口をついて出た。
いつのまにか、講堂内で新たな動きが生まれていたためだ。
それは御歌土の視界の正面付近、"滝"の暴虐の真っ只中で、突如として起こった。
はじめはぼんやりとした数メートル規模の光の円。それが次第に収束し、人間大のサイズとなったところで、中心部に一つの影が現われる。
人型の影。
それは、ゆらりとこちらの方を向き──
「……は、はは」
戸惑いに開かれていた御歌土の口が、そのとき、笑みの形に変わった。
「よもや、"二人目"が来るとはな。やはりこの"滝程度では役者不足か"? いいだろう、俄かに愉快な流れになってきたではないか」