ある不可能な恋の話
昔、ローゼンクランツに住む幼い娘が恋をした。
それは思慕というにはあまりにも微かで、初恋というにはあまりにも脆くて、憧れというにはあまりにも強い気持ちを向けていた。相手は彼女より二回りも年上の男性だった。彼女には父親がいなかった。ゆえに理想の父親像を彼に求めていたという可能性もある。けれど、今となってはただの可能性の話だ。
一人の男の前で、少女が立って見上げていた。男は母親の胎内に感情を忘れてきたような顔をして、少女を見下ろしていた。対する娘は、幾らか緊張したような顔だ。
「あなたを、お慕い申しております」
スヴェン=エリク・クレティアヌスは、幼い子供に対しても大人へのものと変わらぬ扱いをする人間だった。彼は誰にでも平等に接する男だった。自分自身に課す厳格さを他者にも求める、そういう平等さだった。子供を子供扱いしなかったために厳しいと見る者もいるだろう。
「あなたは何か勘違いをなさっているようだ。自分は誰かに親愛の情を抱かせるような事はしておりません」
スヴェン=エリクのローゼンクランツ国内での評判は真っ二つに分かれたものだった。ひとつには、救国の英雄。ひとつには、血をすする悪鬼。初陣より将軍になるまで一戦の敗退なし――強すぎる武人を前にして、人の反応は崇拝か畏怖に分かれるのだ。
戦場以外でもスヴェン=エリクは、人間らしさを欠片も見せずに他者に接した。というより彼は自分以外の人間に興味がないかのようだった。もしかすると自分自身にすら関心を抱いていないかもしれない。少しの気遣いで円滑に進むはずの会話を、なめらかにはしようとしないし、かといって不必要に他者を貶すというのでもない。知人は多くとも友人も恋人もなく、親族に対しても無関心さを隠さぬ態度で接する男だった。彼は人間には向いていないのだろう、そういう類の人間だった。
今やかなりの高い地位にある彼を指図出来る者は少ないが、お呼びがかかればこの時のような王宮での催しにも出向く。しかし誰とも打ち解けようとはしない、そんなスヴェン=エリクに誰かが想いを傾けるなんて――周囲の人間は愚か、本人さえも予想だにしない出来事だった。
「それはあなたがご自身をご存知ないからです」
娘はスヴェン=エリクの否定を否定した。しかし彼は眉一つ動かさず、小娘を排除しにかかった。
「ではお若い方。一時の感情に振り回され錯覚しているだけだとお教えしましょう。特にあなたは――幼い頃にお父上を亡くしておられる。年上の男性には、父親に捧げたかった親愛の情を、注ぎたくなるのでは?」
父の事を話されて、さすがに娘は気まずくなったようで視線を下げた。
「……そんな事はありません」
「そうですか。ではその件は関係がない事にしましょう。どちらにしろ、こちらにはあなたの言い分を忘れる心づもりがあります。そちらもそのつもりで」
聞かなかった事にしてやるとスヴェン=エリクは言った。つまりは拒絶。娘は一度、体の脇で握っていた拳を震わせた。
「……なぜ」
せめて、忘れるなどと言わないでくれ。娘の言いたい事が分かったのか、分からないのか。
「人の感情など些末で下らぬものです。そんなものに惑わされて人生を無駄にしてはいけない」
娘はこれまで、自分の感情と共に生きていたのだろう。それが間違いだと? それがない世界とは? 理解が出来なかったに違いない。
「なぜ、そんな事を思われるのです」
いっそ咎めるような口調だった。
たしかに彼女はまだ若い、幼いと言っていいほど――だが、スヴェン=エリクのような人間と一緒にするのは間違いだった。彼には人間らしさが欠如している。戦場で功績をあげ続けたゆえか――あるいは人間味を失ったからこそ戦場で連勝を続けられたのか。
恐らく、娘が彼を慕うに至った正当な理由を口にされても、彼には理解出来ないに違いない。
ああ面倒だ。だから人間は嫌なのだ。スヴェン=エリクは眦を潤ませ自分を睨むように見上げる子供に興醒めした。
「あなたも一度、一国の将にでもなってみるといい。戦場に出れば、人の感情など、あまりに取るに足らないものだと分かるでしょう」
この娘には、スヴェン=エリクは理解出来まい。いいや、理解など必要はない。当然だ、スヴェン=エリクは自身の内を悟る人間など欲していないのだから。
たとえ話だった。スヴェン=エリクが将軍ゆえに感情は些末、と。しかしそれは間違いであった。彼は、ただの一兵卒であったとしても、あるいは場末の職人だったとしても、他者を自身から排除し、他者を理解しようとはしないだろう。
「とにかく、若い時間を無駄にはなさらぬよう」
警告はした。
スヴェン=エリクはもう、この娘を視界にも入れないだろう。利害の一致を越えた場所で自身に興味を示す人間など、気味が悪くて仕方がないのだ。
そうしてスヴェン=エリクは過ちを犯したまま小さな娘を放置した。
彼女は手酷い初恋の終わりを迎えた。初恋は実らない、そういった教訓を手に入れるだけ。あの頃は愚かな事を思ったものだと、ただ振り返るだけ過去になるはずだった――。
***
長きに渡る戦乱の世――かといって毎日日課のように兵士たちが殺し合いをするのではない。戦場が展開するのは、時に季節毎に、時に一年近くもの小休止を経てから再開する事がある。一日や二日で決着する戦争ではなかった。一度や二度の敵対国間の会談で、和平が続くような戦争ではなかった。国の当主や将軍が変わったぐらいで、簡単に話がまとまるような戦争ではなかった。
二国間の会談が終わり、ローゼンクランツの将軍が敵対国ギルデンスターンの人間に声をかけられる――ありえない話ではなかったが、問題はその相手と発言の内容だった。
スヴェン=エリクの前に立ちふさがったのは、二十代の女性だった。
「あなたのおっしゃる通り一国の将になってみましたが、わたくしにはまだ“人の感情など、あまりに取るに足らないもの”だとは思えないのですが?」
この娘もまた、普段から感情表現豊かとはいえない娘だった。スヴェン=エリク程ではないが何を考えているのか、はた目には分かりにくい。
「スヴェン=エリク様」
娘はくっと口角を上げる。
男は四十手前にして自らの発言には気をつける必要性に駆られた。
“あれ”はたとえ話だった。無理な話、不可能な未来を“針の穴にラクダを通す”とたとえて言うのと同じだ。普通なら諦めよう、と誰もが思う話だ。誰が――誰が、ラクダを針の穴に通せと言った。そして誰が通していいと言った。ラクダが針の穴を通った後にぼやいてももう遅い。
アルヴァ・ゲトリクス。
この名を今や知らぬ者はないだろう。我が国においては裏切り者。しかし敵国においては救世主。
「……おや、クレティアヌス将軍はこの方とお知り合いでしたか」
スヴェン=エリク将軍補佐官ギュンターの、上官を見る目付きはまるでスヴェン=エリクを非難しているかのようだった。当たり前だろう、祖国ローゼンクランツを裏切った人間がそこにいて、それが祖国の将軍と通じているなら、眉を寄せたくもなる。
「……人違いではないか」
娘は幼い頃とは随分と様変わりしていた。そうでなくとも、人は年を重ねると容貌が変わるもの。スヴェン=エリクは人違いであってくれと望んでしまった。
「取るに足らぬ些末な事は記憶せぬと?」
表情の読みにくい顔に戻ったアルヴァの声は、平坦だった。しかし“簡単な事も記憶出来ない脳の持ち主か”とでも言いたげだ。
アルヴァ・ゲトリクス。
彼女はローゼンクランツに育ち、軍人として成果をあげながら、敵対国ギルデンスターンの貴族に養子になりギルデンスターンで功績を挙げた娘だ。ローゼンクランツ側からすれば、事実上の裏切り。そしてギルデンスターンは彼女を一国の将軍にまで仕立てあげた。
「……何か私に用事でも?」
スヴェン=エリクは彼女の言葉を取り合わない事にした。用があるなら言え、なければ去る。そういうつもりだった。
「ええ。あの日、あなたは偽りをおっしゃいましたね。一国の将ゆえに感情は些末に見える、と」
「自分はそのような言葉の使い方はしておりません」
「覚えているではありませんか」
あの日の事を。アルヴァの指摘に、スヴェン=エリクは内心では白けていた。顔には出さず。対照的に、アルヴァは少し得意になったようにわずか目元を細めた。
「とにかく、あなたがわたくしに告げた事は偽りだったと、わたくしは身をもって知りました。この件についての説明か撤回を賜りたく存じます」
なんて娘だ。たしかにスヴェン=エリク程の高い記憶力なら、遠い過去の記憶も昨日のように参照出来る。しかし過去の押しなべて些末であり、思い出すほどのものではない。それを今、ほじくり返されるのは何故だ。
アルヴァ・ゲトリクス。彼女はおそらく、まだ二十代前半のはず。いくら戦乱の世といえ、スヴェン=エリクとは立てた武功が、経験の多さが異なるはずだ。彼は口を開いた。
「あなたはまだお若い。少しの戦場を指揮したとて、将軍の心構えが簡単に生まれると自負するのは過信というものではないでしょうか?」
「お言葉ですがっ、アルヴァさまはもう二十五の戦闘を指揮しておられます。兵士にもアルヴァさまを慕う者は多く、立派な指揮官として認められていると断言できます!」
口を挟んだのはギルデンスターンの軍人で、アルヴァの直属の部下である男だった。
「余計な事は言わなくてよい、レイフ。スヴェン=エリク様には取るに足らない数でしょうに」
アルヴァはわずか怒ったかのようにレイフを睨んだ。相手は叱られた犬のような瞳になる。
「す、すみません……。でも、ローゼンクランツの将軍は、アルヴァさまの指揮官としてのお力をご存じないのではと感じて……」
「わたくしがいくつ手柄を立てれば、一国の将と認めていただけるのでしょうか?」
レイフを無視してアルヴァはスヴェン=エリクに問うた。まるで、どの程度の成績を取れば優等生と判断されるのか教師に問う子供のようだった。
「それを得て、何になる」
根幹は、アルヴァが真の将軍になる事ではないはずだ。この娘、何がしたいのだ。スヴェン=エリクの瞳は偽りを許さぬ厳格な審判者のごとき瞳だった。動かぬ表情で動かぬ証拠を探すかのように堂々としてさえ見えた。
アルヴァ・ゲトリクスは震えそうになる胸の内を隠すように、きゅっと自身の服を掴む。
「あなたに近づいて、あなたと同じものを見たい、そしてあなたのおっしゃった言葉が間違いであると証明したい」
「そうして、何になる」
ほぼ同じ言葉を繰り返したスヴェン=エリクは、この場で繰り広げられている会話の全てに一欠片の興味も持っていない。アルヴァの、かすかににじむ目前の相手への憧憬も、レイフのスヴェン=エリクへの敵意も、話についていけてないギュンターも、自身とは何の関わりもないと見なしていた。
「ですからっ、人の感情は些末でも下らぬものでもありません! それを証明するためにわたくしは今日まで生きてきたのです、あなたに、あなたに向けた感情は一時の感情に振り回されての事ではないと、証明するために!」
娘は激昂したのか語気をあらげた。頬もかすかに赤い。
ああこれでは、これではまるで――。
いくら何でもギュンターもうっすらと勘づいたようだ。
「……クレティアヌス将軍……あなた一体、過去に彼女に何を……」
この娘は、何を――まだ、過去を引きずるのか。一時的な錯覚を、亡き父へと向ける親愛の情を、無駄な行為を、繰り返すというのか。スヴェン=エリクは僅かだが思考を放棄したくなった。
「あなたが言ったのですよ、一国の将にでもなれと」
念を押すようにアルヴァは突きつける。
「――今後は発言には気をつけよう」
スヴェン=エリクは口調も表情も何一つ変えずに我が身の過ちを認めた。ただし、アルヴァの望む形によってではない。
アルヴァはスヴェン=エリクに言われたからギルデンスターンに行ってまで将軍になったというのか。他国に移ったのも、一国の将軍は一人しかなく、ローゼンクランツにはスヴェン=エリクが既にいたから、というのではないか。
スヴェン=エリクは、自身が過去に犯した罪を認めた。“たとえ話は絶対に不可能な話であってもするべきではない”と考えを改めた。それだけだった。誰にでも平等に厳しい彼は、平等さにも問題があると知った。思い込みの激しい子供相手に、たとえ話が実現可能な未来と映るのなら、もう誰にもたとえはいたすまい。
元来饒舌ではない彼は、こうして更に口をつぐむ事を心がけた――。
そして月日は流れる。
ローゼンクランツとギルデンスターンの二国が、幾度となく戦火を交える事になる。大きな戦でなければ将軍の出る幕はないが、どうやらギルデンスターンは将軍のやるままに任せているらしく、アルヴァの名前は小さな小競り合い程度でも欠かさず聞けた。
ギュンターは思慮深く、公私を分ける男だ。階級はスヴェン=エリクより下だが、スヴェン=エリクよりも年上で、自身の分をわきまえた男。余計な事には首をつっこまず、見て見ぬふりの出来る賢しくも堅実な男。しかしそんな彼でも、先達ての事があったので気にかかった。
「あのギルデンスターンの将軍は、クレティアヌス将軍の事を待っているのではないですかね」
小さな諍いであってもアルヴァ・ゲトリクスが――一国の将が都度姿を現すのは何か目的があるのではないか、という話題だ。ギュンターはその目的がスヴェン=エリクにあるのでは、と言いたいのだ。彼の推測ももっともだ。以前の会談の際のやり取りを見ていればアルヴァが何を望んでいるのか、分からないはずがない。
「……兵の士気が下がってると言えなくもないのですよ」
先を促すようにスヴェン=エリクはギュンターに横目で一瞥を与えた。
「いくら祖国を売った裏切り者でも、彼女に実力があるのは兵たちも認めているようです。敵として立ちはだかった時に大きすぎる力を持つと、実感するようになったのでしょう。確かに彼女の功績はただの運やまぐれなどではなさそうです。兵たちは自分より力ある者に間近に来られて、いい気がしませんでしょう」
あれ、お前呼んでるぜ、お前が何とかしろよ。そう言われているようなものだった。少なくともスヴェン=エリクの耳にはそう聞こえた。
かくてスヴェン=エリクはアルヴァの待つ戦場に引きずり出される。
「功名を立てるのに躍起になっているとか」
「……いいえ、あなたに近づくためには何が必要なのか、と模索している最中です」
騎馬兵たちを背に、スヴェン=エリクは敵国の将軍と対峙する。あちらも同様に騎馬隊を連れている。
噛み合わない会話。誰か通訳をくれと、スヴェン=エリクは傍らのギュンターに首を向けたくなった。視線を受けなくとも上官が部下に仕事をなすりつけようとしているのが気配で分かった。ついでとばかりにギュンターは素朴な疑問をぶつけてみる。
「……そもそも、何故貴女はローゼンクランツを出たのです?」
スヴェン=エリクが好きなら、そのまま彼の傍にいればよかったのではないか。ギュンターには分からない。
「ローゼンクランツに将軍は一人しかいませんから。スヴェン=エリク様と同じ目線に立つにはローゼンクランツにいては叶いませんでした。それに、スヴェン=エリク様と戦うのも一興、と思いまして」
アルヴァは不敵そうに目を輝かせた。
ギュンターとしてはいっその事スヴェン=エリクを将軍の座から引きずり下ろしてくれればよかったのに、と思ってしまった。彼はアルヴァの実力を認めてはいたので、自国の兵力になるのであればどんなによかったかと、冷静に判断した。
「つまりはアルヴァさまをここまでお強くさせたのはあのクレティアヌス将軍であって、敵に回したのもクレティアヌス将軍ということ……」
アルヴァのすぐ後ろに控えるレイフはこっそりとぼやいた。
ギュンターは、元は祖国ローゼンクランツのものであったはずの優秀なる人材が流れ出た事の原因が自分の上官にあると分かると、嘆息したくなった。
「余計な事を……」
しかしながら、スヴェン=エリクが余計な事を言わなければ、アルヴァはいいところのお嬢様のままで、自分の意外な才能を自覚も発揮もしないまま平凡な人生を歩んでいたのかもしれないのだから、皮肉な話だ。どちらがよりローゼンクランツの利益になったかなどと、今更考えても仕方がない事。
「――本当に発言には気をつけよう」
スヴェン=エリクが言えるのはそれだけだ。
彼の意識は変わらない。茶番は二度で充分だ。自分の行動の愚かさを知るのも、二度繰り返せば事足りる。
ローゼンクランツの将軍がスヴェン=エリク・クレティアヌスである事。ギルデンスターンの将軍がアルヴァ・ゲトリクスである事。それは変わらぬ事実なのだから。スヴェン=エリクの立ち位置も変わらない、彼の思想も思考も自戒も変わらない。口に出す言葉には気をつけても、彼の脳みその中はずっと変わらない。アルヴァを取るに足らない小娘だという認識は不動のままなのだ。
今後はいたいけな少女が想いを打ち上げてきても、全て耳に貸さない事。
ただ一つ心にそう決めて。
何も変わらず何も伝わらず戦闘は開始された――。
実際、アルヴァ・ゲトリクスは戦争の才能があったと、スヴェン=エリクも認めなければならなかった。戦場での正確な判断力、組み立ててきた戦略に臨機応変に変更出来る柔軟さ、それを可能とさせる采配と統率力。そしてスヴェン=エリクは僅か垣間見た程度だが、武人としてもそれなりに使えるようだ。
かといって、スヴェン=エリクが本当の意味で彼女を理解する事はないだろう。何故自分に執着するのか、まったくもって納得出来ない。理解したくもない――考えながら、これまでに経験のなかった奇妙な事実に、スヴェン=エリクは頭を抱えたくなった。
だが彼ははたと気づいた。相手が誰であろうと何であろうと、ローゼンクランツに敵対する人間であれば討つだけ。それがスヴェン=エリクの真実だ。
「……最初から簡単な話だったな」
たとえ血のつながった家族であろうと反旗を翻せば彼は討つ。それがスヴェン=エリクだった。
まったく異なる思想の交わらない二人の将軍の思いは届かない平行線のまま――二度二人が同じ戦場で見えてもそれは変わらず、ある日突然、事態は転回した。
あのスヴェン=エリク・クレティアヌスが捕らえられた。
ただ、それだけ――。
神はこの娘に味方をしたのだ。あのスヴェン=エリクを捕らえるとは、敵も味方もアルヴァを尊敬と畏怖の念で見上げたに違いない。
「ああこれでやっと落ち着いて話が出来ますね」
アルヴァはかすかに嬉しそうに口にした。敵といえど将軍への扱いは厚遇だ。スヴェン=エリクは手枷もされずに、広い部屋を与えられていた。別室に待機しているアルヴァの元へと連れてこられたのがつい先程。アルヴァはこれまた広い部屋の、書き物机の前に立っていた。
「交渉であれば、何なりとおっしゃるがいい」
戦争において高い地位の人間の身柄引き渡しは、よい交渉の材料となる。つまり現在のスヴェン=エリクの立場は手厚く保護された人質、という訳だ。一国の将とまでなれば、ギルデンスターンはローゼンクランツから莫大な身代金を要求出来る。要求するのは金貨じゃなくとも、領土や他の人間や、物資でもいい。スヴェン=エリクは自分が一体何と交換されるのか、いくつか考えられる可能性を脳内で数え上げていた。
自身が捕らわれ、戦に負けたという事実こそが彼を打ちのめしたが、それを欠片でもアルヴァの前で――誰の前でも――見せるつもりはなかった。
「違います、例の“たとえ話”の件についてです」
淡々とした表情と声だが、アルヴァはそれでもこの場で気を楽にしているようだ。
ああ面倒だ。人間は理解出来ない。理解したくもない。スヴェン=エリクは相変わらずそこから動かない。彼は音もなく嘆息したかと思うと吐き出した。
「……“一国の将になれば”。では認めましょう。あれはたとえ話としてふさわしくなかったと」
あまりにあっけなく告げたので、アルヴァは思わず口を開けたままスヴェン=エリクを眺めた。アルヴァが何度も瞬きを繰り返しても、目の前の男の姿は変わらない。耳を澄ましてみても前言を撤回する声はやってこない。
「そ、そうですか……」
「問題は自分にありました。自分は人間の感情を理解出来ない。これならお分かりいただけますかな?」
表情一つ変えないスヴェン=エリク。戦場であっても怪我をしたのではない限り、彼の表情が変わる事はほとんどない。彼が他者の感情を理解出来ないのもそのせいだろう。自分自身の中に感情らしきものはないのだ。最初から人間ではないのだから、スヴェン=エリクに人間らしさを求めるな――ほとんどそう告げたつもりだった。
「……そんなはず、そんなはずがありません」
「何故? あなたの判断材料をお聞かせ願いたい」
本当はアルヴァの事情などどうだってよかった。だが、スヴェン=エリクの中の中にある“納得いかない”という物事を白黒はっきりさせたがる性質が働いた。
「わたくしはあなたの戦場での活躍を全て知っております。どの戦でも被害は最小限にとどめ、また無駄な時間もかけない」
「無駄は好きません。兵の死も補充には手間がかかり、面倒が増えるゆえ」
一刀に切り捨てたスヴェン=エリクの言も、アルヴァにはあまり届いていない。何故なら彼女は目前のスヴェン=エリクではなく彼方を向き懐かしむ瞳をしていたからだ。
「はじめはあなたの武功に魅せられました。けれど……あの日」
将軍同士として再会するよりも以前に、そして“一国の将になれ”とつきつけた日の他に、アルヴァと会話をした事はあったろうか――スヴェン=エリクは脳内で記憶をたぐる。
「あなたはわたくしにとても真摯な言葉をくださいました」
覚えがない――スヴェン=エリクは内心で疑問になった。人違いかとも。
「あの日、まだ子供のわたくしは愚かにも、大勢の集まる催し物の最中に、テラスで泣いていました。もちろん由縁はありましたけど、人の通らぬ場所とはいえ、幾らか人気のある場でそうしていたのは、子供らしい打算がありました。通りかかった誰かに慰めてもらえるのでは、と」
嫌な予感がした。ある貴族の屋敷の、ある宴、テラスにてうずくまる小さな子供の背中に、スヴェン=エリクは覚えがあった。
「それをあなたは、なだめるでもなく、一人の人間としてわたくしを扱ってくれました。小さなわたくしはどうしてこの方は他の大人たちのようにわたくしを甘やかしてくれないのだと怪訝にさえ思いましたけど、あなたはわたくしに子供でも女でもない一つの個として接してくれたのです」
『慰めがほしいなら、もっと人のいるところで泣け』
彼はそう言った。顔を膝に埋めて泣く小さな少女を相手に。
『納得のいかない事があるなら、解決策を探せ。目を乾燥から守る以外のところでの涙は無駄だ。泣く暇があれば先へ進め』
あの時はたしか、少し酔っていた。スヴェン=エリクは酒には強いが、しかし飲めばある程度の外壁がはがれ落ちる。ただ軍人としての自分が出てくるだけであるが、とにかく。
スヴェン=エリクは内省した。幼いアルヴァに対等な人間扱いをしたのは、間違いだった。スヴェン=エリクの過ちは、“将になれ”発言よりもっと前にあったようだ。
「わたくしはいかに自分が甘やかされて育ったかをあの時知ったのです」
「要は誰でもよかったのでは?」
泣いているところに寄ってくる人間であれば、誰でも。それがスヴェン=エリクである必要性はどこにもない。それに、スヴェン=エリク程じゃなくとも貴族のお嬢様相手に厳しい言葉をかける人物くらい、いずれ他にも現れただろう。
「わたくしはそれなりに目立つ場にいましたけれど、声をかけてくださったのはあなただけでしたわ!」
最早、根源を問うような問題ではないらしい。
スヴェン=エリクはまたも愚かな行為を繰り返してしまったらしい。三度目はあっても、四度目などあってはならない――。
この娘の何をしようと何を言おうと何を思おうと、スヴェン=エリクには何一つ関係はないのだ。最初から分かっていただろうに。
我が事ながら、スヴェン=エリクは問題を多数自覚する。この頃のスヴェン=エリクは失敗続きだ。
「では、総括してお伝えしましょう。あなたのやってきた事は理解出来ないし、これからもそうでしょう。よって話をする事はいたずらに時間を無駄にする事で、無意味です」
「そんな事ありません」
否定するアルヴァに対し、スヴェン=エリクはいい加減に将軍という立場で話を進めてほしいと考えていた。こんな私的な話しか出来ない小娘が将軍では、ギルデンスターンの斜陽も近い。
「すっ、す、好きなんです! あなたが!」
突然娘は両手を机に叩きつけた。書き物机は僅かに振動し、その事がスヴェン=エリクを苛立たせる。
「だから、何故いつまでも私にこだわる?」
根源が何であろうと、向けられる気持ちがどんなものであろうと、途切れぬ事がスヴェン=エリクには忌々しい。左の目の端を微かに引き攣らせて、スヴェン=エリクは聞きたくもない事を問うてしまった。彼女が何を理由にしようとも、スヴェン=エリクにはそれを受け入れるつもりなどないというのに。
怒りからかアルヴァの耳は赤くなっていた。眉もつり上がり眼差しも鋭い。
「あなた自身はお気づきではないでしょうけど、あなたは優しい人です!」
普段は感情の薄い、すました顔をしているアルヴァでも感情が高まると顔を赤くし声を荒らげる、というのは以前の事で分かっていた。だが、彼女と会話を重ねる毎にスヴェン=エリクには理解不能な単語が飛び出してくる。スヴェン=エリクと優しさ――これ程までに、正反対なものはないだろうに。
「何を――また、理解出来ない事を」
不満を隠さぬ顔をして、アルヴァはきっとスヴェン=エリクを睨んだ。
「あなたはどんな小さな事にもすぐ気がついて対処する。あの時わたくしは見ました。誰もが見逃していた体調不良の男性を、あなたがさりげなく退室させるのを。それから、床の濡れた場所を使用人に伝えて掃除をさせ――誰かが転ぶ事のないように気遣った」
「大勢の兵を率いて戦うようになれば、他者の行動もある程度予想出来なければならない。誰がどんな因子でどうなるか。推測して対処するためには小さな事にも目を配らなければならないのですよ」
「感情は些末なのに?」
「そこに他者や私の感情は関係ない。体調不良な人間がいれば、後々倒れる可能性がある。床が濡れていれば自分が転ぶ可能性だってある。ただそれを指摘したまで――」
そこで、何故か娘は勝ち誇ったかのように目を細めた。
「あなたはどこまでも無自覚な優しさを持っているだけなのです」
「勝手な事を」
「ええ、勝手な事です。でも、優しさなんて、された方が感じるものです。本人にそのつもりがあっても優しさと受け取ってもらえない事もある」
もうそろそろ、スヴェン=エリクにはこの娘の言語がこの大陸のものとは思えなくなってきた。
本当にこの辺りが幕引きだ。文字通り、アルヴァとの間に幕を引いて、スヴェン=エリクの世界と遮断しなければならない。
「……結論を聞こう」
「ですから、わたくしにはあなたを好きになる理由がきちんとあるって事です」
宣戦布告をするような瞳の娘の声音が、満足気に聞こえてしまったので、スヴェン=エリクはつくづく嫌になった。
戦場でもないのに、スヴェン=エリクは深く眉を寄せた。恐らくはアルヴァの前で見せたはじめての表情の変化。それを引き出したのは自分だと知ってよろこぶかのように、アルヴァはそっと微笑んだ。
スヴェン=エリクは敵には死神や悪鬼、味方には英雄扱いをされても恐れられてもいる自分を知っている。他者の感情が理解出来ない自分を、普通の人間とも思っていない。変わり者だと言える。
そんな自分に関わりたがる人間などあるはずもなく、いてもよっぽどの変人だろうと思っていたが――そんな変人がこの世にはいた。
これ以上関わるべきではないと、あのスヴェン=エリクが判断するような人間が。
スヴェン=エリクはアルヴァ・ゲトリクスを苦手だと見なした。スヴェン=エリクの言葉が通じない。普通ではないたとえ話を鵜呑みにし、実行までしてしまう。何よりどんな事を口にしようとも、スヴェン=エリク・クレティアヌスから離れていかない――
スヴェン=エリクは心に決めた。ローゼンクランツに戻る事が叶えば、将軍を辞してどことも知れぬ場所へと隠遁しようと。それは彼にしてはかなり珍しい一種の現実逃避のようなものだったが、そんな未来はやってはこない。
スヴェン=エリクは生まれて初めて信じてなかったはずの神を恨んだ。あんな変人に才を与えた神を。あんな変人を自分に近づけさせた神を。あんな変人に味方する神を。
彼の嘆きは、アルヴァの有利を知っての事かもしれなかった――。
スヴェン=エリクは知らない――この戦争の先行きが決まりそうだという事を。ローゼンクランツが軍のトップである将を失い、和平を申し入れようとしている事も。
そのために“たとえば”ギルデンスターンの将軍とローゼンクランツの将軍が政略結婚をする事で和平の証とするのはどうかという話が持ち上がっている事も、知らない。
誰がその話を持ちかけたかも、彼は知らない。
***
それは“たとえばの話”。
もし実現してしまったら――その場合は?
不可能は、可能に変わるかもしれない――
アルヴァ・ゲトリクス(13)→(23)
くそ真面目型天然。恋につっ走る。無自覚ファザコン。隠れどえす。
スヴェン=エリク・クレティアヌス(30)→(40)
真面目型根暗。世間とは距離を置いてる。頭がきれる、戦争の天才。万人を平等に扱うどえす。人間らしさって何。
一年半ほど前に書いたものを加筆修正して投稿しました。