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不思議の国の紫苑  作者: 青波零也
コンバラリアの行方
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不思議の国のアリス:II

不思議の国のアリス【Alice's Adventures in Wonderland】

 魔法の力を生み出す世界樹に見下ろされた、平和で幸福に満ちた世界。そこに住まうのは、御伽話の住人である小人族や妖精族、それに多種多様な獣の姿をした人々。空には伝説の生物である竜が舞い、海には巨大な魔物が潜んでいる。

 そんな、遠い日の少女の幻想、もしくは妄想が、今、私の目の前に広がっている。全てが終わったあの日から、いつ醒めるともわからない少女のまどろみの中、私は妙に醒めた意識で立ちつくしている。きっと、これからも。

 

 *   *   *

 

 魔女アリスは、塔が好きだった。

 高い場所が好き、と言い換えてもよいかもしれない。

 出来る限り高く、空に近い場所へ。人間の手の届かない空を目指す『空狂い』ではないが、刻一刻と色を変える楽園の空を、誰よりも――そう、誰よりも愛していたから。

 

 だから、今日もアリスは塔の上に立つ。

 西の大国、ライブラ国首都ワイズ。中央広場に聳える時計塔は、灰の町の歪な塔とは比べ物にならないくらい立派で、今日も観光客がひっきりなしに行き交っている。

 そこから見下ろす風景も、もちろん灰の町とは全くの別物だ。沈みかけの夕日に照らされた町は見事な真紅に染まり、深い陰影に時が止まったようにも見えた。

 人の邪魔にならぬよう、片隅で欄干に身を預けていたアリスは、不意に、自分を呼ぶ声を聞いた。

「よう、アリス」

 どこかで聞いた声に、アリスはふと紫苑の瞳をそちらに向ける。

「お久しぶり、鋼鉄狂」

 この頃の鋼鉄狂は、稲穂色の髪をした女だった。最初の鋼鉄狂とよく似た目をした女は、どこか歪な笑みを浮かべてみせた。

 ただ、アリスの知る最初の鋼鉄狂と違い、この鋼鉄狂からは、本物の錆の臭いこそ感じられても、血の臭いは全く感じられなかった。こざっぱりとした男物の服装をした鋼鉄狂は、分厚い眼鏡の下で凍れる色の目を瞬かせる。

「お前は、いつ見ても変わらねえな」

「あなたは、随分変わったみたいね。柔らかい、優しい顔をしてる」

 鋼鉄狂と呼ばれるよりもずっと前に戻ったみたいだ、と思いはしたが、その言葉は飲み込んだ。

 彼女は、異端の中の異端――『鋼鉄狂』と呼ばれる存在に、なりたくてなったわけではない。最初の鋼鉄狂がそうであったように、この世界を支配する流れに飲み込まれ、踊らされ、その結果『鋼鉄狂』という枠組みに収まらざるを得なかったに過ぎない。

 その結果、彼女は本来の名前と、本来あるべき「かたち」を奪われて、今に至っている。そんな彼女に、失ってしまった過去をあえて思い出させるのは酷というものだろう。

 かくして鋼鉄狂は、薄い笑顔を湛えたまま眼鏡を押し上げて空を見上げる。夕焼け空を、一羽の鴉が横切った。

「……しかし、平和なもんだねえ。つい一ヶ月前まで『砂礫の魔女』だ、第二次世界樹大戦だ、なんて話をしてたのが、嘘みてえだ」

「そうね。でも、サンド・ルナイトの企みを挫いたのはあなたよ、鋼鉄狂」

「まさか。俺様は何もしてねえよ」

 苦笑する鋼鉄狂だが、それは買いかぶりというものだ。この女は、楽園に真実を知らしめるため、世界樹大戦の再開を目論んでいた『砂礫の魔女』サンド・ルナイトの狙いを、ことごとく潰しにかかった。直接的にサンドを止めたのは、名も無き一人の勇者だったが、そもそも彼をサンドにけしかけたのもこの女だったことを、アリスはよく知っている。

 そして、それは楽園の真実を握る立場にいる、異端研究者らしからぬ行動でもある。本来、サンドの望みとは、女神の嘘を暴き、神殿が隠し通そうとしている楽園の本来の姿を知らしめるための「聖戦」であったのだから。

 だが、鋼鉄狂は、争いを望まなかった。女神の嘘と楽園の真実を知ってはいても、それを、あえて広めようとは思わなかった。

 それによって、痛みを背負う者が増えていく限りは――自分の目の届く場所にいる誰かが傷つく限りは、絶対に。

『このくそったれな世界に生まれて、くそったれな連中と出会って、そいつらと過ごす日々が何よりも幸せだって思っちまう程度には、俺様もくそったれなんでねえ』

 そう言った最初の鋼鉄狂を、思い出す。女神ユーリスの教えに背を向けて、異端の名を背負い、それでも楽園という世界を愛し続けた男は、そう言って、確かに笑っていたのだ。

 その男そっくりの横顔で、紅の空と燃えるような町並みをいとおしげに見つめて。鋼鉄狂は、ぽつりと言った。

「いい景色だな」

「ええ」

「なあ、アリス」

 鋼鉄狂は、ポケットから一枚の銀貨を取り出して、機巧仕掛けの親指で弾いた。銀貨は、鈍い輝きと共に、アリスの手に収まる。

「折角会ったんだ、歌ってくれよ。親父が、好きだった歌」

「ええ、いいわよ」

 鱗を隠すために包帯を巻いた腕で、背負っていた八弦琵琶を抱える。軽く弦の音を確かめて、それから、欄干に寄りかかって弦を弾く。目の前にいる、一人の女のために。

 

 それは、最初の鋼鉄狂が好きだった歌。

 鐘の音、消えた少女、風に舞う花びら。

 歌の本来の意味を、あの男が知っていたとも思えなかったけれど。

 それでも、いつも、何処にもいない少女を探すように、灰色の空を見上げていた。

 

 口を閉じ、弦の響きを止める。

 周囲の観光客からまばらな拍手。けれど、アリスの歌が終われば、すぐに己の物語に戻っていく。本来の聴き手である鋼鉄狂だけが、手袋を嵌めた手で、ずっと、拍手を続けていた。

「いつ聞いても、いい歌だな」

 この女に聞かせたのは初めてだったはずだが、鋼鉄狂は確かにそう言った。アリスは、紅を引いた口の端を上げて、紫苑の瞳で微笑んだ。

「ありがとう」

 日は、もうほとんど地平線の下に隠れようとしていた。アリスは八弦琵琶を抱えなおして、そろそろ宿に戻る旨を鋼鉄狂に告げた。鋼鉄狂は小さく一つ頷いて、それから問うてきた。

「お前は、これから何処に行くんだ?」

「私は魔女である以前に吟遊詩人。私の知らない物語がある場所に、私の歌を求める人がいる場所に、ゆらゆら流れていくだけよ」

「そうか」

「あなたは?」

「……わからねえな。俺様のやりたいことは、全部、終わっちまったし」

 欄干に寄りかかり、俯きがちに首を振る鋼鉄狂。確かに、彼女の物語は、既に一度終わっている。それを知っているだけに、アリスは、それ以上何も言えなくなる。

 しばしの、沈黙。何か言葉をかけるべきだろうか、とアリスが思い始めた時、鋼鉄狂の唇が動いた。

「でも、そうだな」

 ふ、と。息を吐いて、

「親父が届かなかった場所を目指すのは、悪くなさそうだ」

 そう言った鋼鉄狂は、はにかむように、しかし確かに笑っていた。

 遥か灰色の雲の先を見据えていた、かつての男の背中を思い出す。その思いは、きっとこれから先も受け継がれていくだろう。『鋼鉄狂』という名と、呪われた記憶と共に、一陣の希望の風として。

 その行く末に待つものを、この時のアリスはまだ知らない。それでも、今ここにいる鋼鉄狂の幸福を祈り、八弦琵琶の弦をちいさく鳴らした。

 鐘が鳴る。

 あの日と同じ、夜の訪れを告げる、鐘が鳴る。

「じゃあな、アリス」

 だからアリスは、今度こそ笑顔で、

 

「さようなら、鋼鉄狂」

 

 あの日言えなかった、とびきりの別れを告げた。

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