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エマが神殿に着いたという。
もう私物は全て片付けた巫女の部屋の中から、窓の外へと足を踏み出す。
綺麗に着飾って貰った巫女の姿もこれが最後。
重たい位に沢山付けられた宝石も、金糸や銀糸の刺繍が施された巫女の正装も。
紅竜の名に恥じない紅色の衣を身に纏い、空へと両手を伸ばす。
手を伸ばした先には、優雅に空を舞うリンの姿が見える。
くるっと旋回して急降下し、リンが目の前に降り立つ。
視線が合い、リンが短い咆哮を上げるを合図に、リンの身体に飛びつく。
「これが最期だ、サーシャ。共に空を飛んでみないか」
「うん」
短い返事を返すと、リンは翼を広げ、空へと一気に舞い上がる。
乗りなれたリンの右前足。
数時間後にはこの場所はエマの場所になる。
胸にこみ上げてくる沢山の思いがあるけれど、決して哀しい別れなんかじゃない。
けれど、どうしてだろう。
喉が詰まって、胸が一杯で、色々言いたいことがあるのに何も言えなくなってしまう。
眼下に見える沢山の人。街。森。
リンが見せてくれる、非日常の風景。
一緒に空を飛べて楽しかったよ。リン。
ぐんぐん加速して幾つもの峰を越え、そして大河の流れに沿って下流へ下流へとリンが進む。
どこへ行こうとしているんだろう。
声を掛けようにも、ものすごい風圧に掴まっているだけで精一杯だった。
トンとリンが降り立った場所。そこはもう二度と訪れないだろうと思っていた場所だった。
「リン」
問いかけるとリンがトンと前足で背を押す。
「我はここでそちを受け取った。そちと我との始まりの場所はここであろう」
寄せては返す海。
三年前に、レツと別れた場所。
どうしてこの場所を、最期の場所に選んだのだろう。始まりの場所だからなの。
「我は、巫女など欲しておらなかった。今でも別に必要ないのではないかと思う時がある。それでも、我は巫女と共に生きていこうと思う」
リンの目を見つめると、リンがふわりと笑う。
「ここでそちを預からねば、我は自由だったかもしれん。しかし同時に人と共存する事など不可能であったろう」
「どうして共存してもいいと思ったの?」
「ん? 簡単な事だ。人間の命の味は他の命よりも美味だ。無益な刈りをするよりも、この方が効率が良い」
やっぱり食事事情が妥協点になるわけね。
そうだよね。鎖に繋がれたレツはともかく、リンは自由に何でも出来るんだもの。自分を殺してまで共存する必要なんて無い。
「サーシャ」
呼ばれて瞳を覗きこむ。
「最期だ。たんまり食べても構わないか」
嫌だって言ったって食べるくせに。
「いいよ。その代わり、食べ過ぎないでね」
「食べすぎたら戻しておくから、気にするな」
そういう問題じゃないと思う。
けれど言われるがままに、リンの首に両手を回す。そうするとリンがペロっと首筋を撫でる。
くすぐったくて温かいリンの舌は食事が終わるまで動きまわり、容赦してくれないのでやっぱり食べ過ぎたらしい。
リンの身体にもたれかかってリンの気を入れて貰っていると、リンがぐるぐる喉を鳴らす。
「そちはやはり美味いな。だが、今なお水の味がするのがいけ好かんな」
べろりと長い舌で舌なめずりし、リンが海を眺める。
本来は海水浴シーズンで人が溢れているはずなのに、リンの姿に恐れおののいたのか、それとも時間が早いからなのか人気が無い。
「試しに少し食べてみた神官長もやはり水の味がした。執念深くて嫌になるな、水のは」
そうは言っているけれど、どことなく寂しそうにも見える。
やっぱりリンにとってはわかりあえる相手はレツしかいないのかもしれない。
ここで消えてしまったレツの事、リンはどんな風に思っているんだろう。
「好きでは無いな。同属というだけの事だ」
心を読んでいたリンが呟く。
けど他には誰もいない同属なら、一緒に同じ時間を過ごせるようになればいいのに。
それは不可能なのかな。
前に共存は出来ないって言っていたから、やっぱり無理なのかな。
竜同士なら、無尽蔵に生命力はありそうだし、お互いの命を食べたとしても問題なさそうなのに。
「人間とて共食いはしないだろう。我は水のは喰わんよ。ただそちが竜になったら喰ってもいい」
それって矛盾してない?
「えー。どうして?」
「我はそちを水のに渡す気など無い。例え竜になっても、ならなかったとしても、そちが生まれ変わる度に傍に行こう」
「食べに?」
くすくすとリンが笑う。
「そうだな。食べに、だな。水のは言っていなかったか? 最愛のものを食すのは竜にとっては愛情表現だと」
言ってたかもしれない。そんな事。
「でもさ、竜になったら共食いになっちゃうんじゃないの?」
「些細な事は気にするな」
って、言ってる事おかしいよ、リン。
思わず笑みが零れると、リンがポンと頭の上に顔を乗せる。
「喰わずとも、こうやって傍にいるだけで心地良い。傍にいるのは、ずっとそちがいい。だから竜になって戻って来い。ああ、いつでもいいぞ、我は気が長いからな」
「リン」
目線を頭上に向けると、頭の上でリンが甘えた声を出す。
「すまなかったな。人間の生で考えれば、随分長いこと付き合わせた。我はそちの幸せを祈っている」
首を横に振ろうとしたら、リンが重すぎて動かなかった。
「そんな事無いよ。リンといたの3年だよ。長いって言うほどじゃないよ」
「しかし我はそちの命の灯火が本来なら消えかかっているというのに、ずっとずっと無理をさせていた。本来なら健康であったはずのそちの身体に病が蝕んでいるのは我のせいだ」
「大げさだよ。病気って程じゃないよ。ちょっと体質が弱くなっただけで。風邪ひきやすいとか、その程度だもん」
半分はレツのせいだし。
レツがいる頃に一度無理をしたのが、一番の原因だと思うの。
「それにね、私がリンの傍にいたかったの。3年も傍に置いてくれてありがとう、リン」
微笑み返すと、リンがゴロゴロ喉を鳴らす。
私もリンの傍にいたかったし、リンも私を傍に置きたかった。それで十分じゃない。
「幸せな時間をありがとう。リンのおかげで私は色んな体験も出来たし、たくさんの人たちと楽しい時間を過ごせたわ」
空を飛ぶなんて、したいと思っても出来ない経験だもの。
それにリンがいてくれたから、私は神官たちとも神官長様とも、もう一度やり直す事が出来た。
私が捨ててきた沢山のものを、手に戻してくれたのはリンだった。
二度と出来ない稀有な体験をする事が出来た。かけがえの無い大切な人たちだった事を思い出させてくれた。
「我も、最初の巫女がそちで良かったと思う」
呟くように告げるリンを見上げると、瞳から涙が一滴零れ落ちる。
零れ落ちた涙が手のひらの中で、紅玉のついた指輪へと姿を変える。
「これをエマが指に嵌める時、そちは我の巫女で無くなる」
手のひらの中の指輪を握り締め、リンの瞳を覗きこむ。
「ありがとう」
どうしてもそれだけはちゃんと伝えたくて、リンの頬に頬を寄せる。
「我がそちを食べに行く日まで、その生を謳歌しろ。我が返さなければ良かったと思うほどに」
「うん」
涙が零れ落ちる。
リンの涙と、私の涙が、ぽつりぽつりと砂浜に落ちていく。
「大切な事を忘れていた。顔をこちらに向けろ」
なんだろう。
頬を離し、リンを正面から見つめると、リンがベロリと頬をなで上げる。
「女が顔に傷なんてつけたままでは、見栄えが悪い」
撫でられた後を指で触れると、ケロイド状になっていたレツの爪痕がすっかり消えている。
「ありがとう」
「ああ、それからな、もしそちが消して欲しいなら竜の刻印も消してやるが?」
消せる? 竜の刻印を?
「来世まで竜に捕らわれる事はなかろう。もし本当に縁があるのなら、刻印など無くとも我らは巡りあえるはずだ。そういう奇跡は嫌いか? 奇跡の巫女」
初めてリンに奇跡の巫女なんて呼ばれたわ。
ただそんな軽口を叩いている場合ではなく、リンは本気で消そうと思っているみたい。
瞳が、本気だと告げている。
「……レツが」
けど、そうしたらレツと巡りあえなくなるかもしれない。
この海で、またいつか会おうってレツと約束したのに。
煩いとレツが言っていた波の音が、胸のざわめきのように耳につく。
深い溜息をついたリンが、ポンっと尻尾で頭を叩く。
「いつまでも捕らわれていても仕方なかろう」
そうは言われても。3年経っても、まだ心の中のレツは鮮やかだよ。
たまに夢に見るんだもの。そして思い出すのはレツとの幸せだった日々のこと。
「過去に捕らわれていては前には進めんよ。じゃあまた喰ってやろうか、その想いを」
ふるふると首を横に振ると、リンが呆れたように溜息を吐き出す。
「それでそちは幸せになったのか? 無益に月日だけを費やし、老いさばらえていくというのか?」
「じゃあどうしたらいいの? 私はレツを忘れる事なんて出来ないもの。ずっとずっとレツが好き。それじゃいけないの?」
にやりとリンが笑みを浮かべる。
「悪いとは言っておらぬだろう。が、そちは前に進もうとしないではないか。折角水のがお膳立てしてくれたのにも関わらず」
「ウィズの事を言っているの?」
「ああ、あの祭宮はウィズという名なのか?」
クスクスと笑うリンに、何故か無性に腹が立つ。
「リンには関係ないじゃない! 私がこの先の人生をどうやって歩こうとも」
「関係ない。ただ、そちは我の友だ。友が不幸になるのをみすみす見逃すわけにもいかないだろう」
「不幸?」
「そうだ。過去に捕らわれて生きていては、何も生まれはしない。そろそろ過去の自分に決別してやれ」
言い切るよりも早く、リンの唇が首元に触れる。竜の刻印のある場所に。
嫌だ。レツとの絆が切れるなんて嫌だよ。
暴れる私のことをたやすくその体で拘束し、リンは長い間柔らかな唇を押し付ける。
約束したのに。また会おうって。
必ず私のことを見つけてくれるって言っていたのに。
酷いよ、リン。
今はダメでも、遠い未来でまたレツに会えると思っていたのに。
流れる涙をリンが舌で拭いさり、リンの目的が達成されたとわかる。
「泣くな。きっと未来で会える。そう信じたらどうだ」
「でも」
「大丈夫だ。願いはきっと叶う。もっとも我が邪魔はするぞ。覚悟しておけ」
ペロペロと涙を舐めるリンに抱きつくと、リンがポンポンと尻尾で頭を撫でる。
リンが言うのなら、きっとまたレツにもリンにも会えるんだろう。
当ての無い願いだけれど、どうかまた二頭の竜に会えますように。
紅色の衣を風になびかせ、来るべき時を迎える為に山の麓に立って待っている。
背後にはリンがいて、巨大な影が神殿まで伸びている。
左翼からも右翼からも、きっと沢山の神官たちがこの光景を見つめている。
今まで誰も見ることが無かった巫女交代の瞬間を、大勢の神官たちが目にする事になる。
ふーっと大きく息を吐くと、頭上のリンが咆哮を上げる。
--怖いか?
問いかけられてリンを見つめる。
「ううん。怖くないよ」
答えてまた視線を前へと向ける。
いつ来るのだろう。エマは。神殿に着いたという連絡を受けてからかなり経っているのに。
もしかして水竜の神殿ではやらなかったけれど、色々儀式とかしているのかな。
私は私のやる事しか神官たちから聞いていなかったから、よくわからないけれど。
「怖くないけど、この待っている間って嫌な時間ね」
呟いた私に、リンが首だけを下げて顔を覗き込んでくる。
にっと笑いを浮かべ、リンは頬を舐める。
「ちょっと。折角お化粧しなおしてもらったのに、崩れちゃうじゃない」
くすくす笑うリンを睨みつけると、リンは首を元に戻す。
--別に化粧してなくともサーシャは十分魅力的だが。
「そんなお世辞いらないもん」
ぷいっとリンに背を向けて立つ。
背後に竜を従えているなんて、いかにも竜の巫女っぽい。
そんな事を考える余裕があるなんて、自分でもちょっと意外だわ。
もっと切羽詰った感じがあるのかと思っていたけれど。そうでもないのかな。
それとも現実感が無いだけで、後からじわじわと喪失感に蝕まれたりするんだろうか。
--サーシャ。我はそちに人としての幸福な人生を与えてはやれん。巫女であった時そうであったように、己の力で切り開いていけ。
振り返りリンを見ると、リンが微笑む。
--やり忘れた事がもう一つあったな。
リンがぐいっと衣を引っ張り、口元まで引きずる。
ああ、この姿絶対みっともない。巫女っぽくないよ。
「本来のそちの瞳の色は何色であったか」
「え? 多分茶色とかじゃないかな。黒っぽい色だった位にしか記憶してないよ」
急に問われても、自分の目の色が何色だったかなんて詳細に覚えていないよ。このところは、蒼と紅だったし。
蒼になる前の自分の目の色はどんな色だったのだろう。
「じゃあ適当でいいな」
適当って?
「何をしようとしているの?」
「その瞳の色では生きにくかろうと思ってな。誤魔化そうかと」
両目に唇を落とし、ベロンと舐め上げる。
「瞳の色を茶にした。しかしあくまでも誤魔化してあるだけに過ぎない。一度剥がれてしまえば、もう二度と茶には戻せんぞ。巫女でないそちの身体を自在に操る事は出来ぬゆえ」
「リン」
「なんだ」
こみ上げてくる思いを上手く言葉に出来ず、涙があとからあとから流れ落ちてくる。
どうしてこんなに優しいんだろう。
離れていってしまう私の為に、色々考えてくれる。手を尽くしてくれる。どうしてそんなにリンは優しいの。
「優しくなんかないぞ。そちが人間と上手いこといって、十人でも二十人でも子供を生んでくれないと、我が困る」
「そんなに産めないよ」
「産め。そしてそちの血が国中に散らばると良い。誰もが竜の声を聴くことが出来るような世界になればいいと思う。その時こそ真の共存が出来よう」
ありがとうという思いを籠めてリンに抱きつくと、頭上からくすくす笑い声が降ってくる。
「愛しい娘。どうか幸せに」
見上げたリンの顔はとても優しい。
人を喰らう生き物とは思えないほど慈愛に満ちている。
心の底から思う。リンの巫女になれて良かったって。リンの声が聴こえて良かった、傍らにいられて幸せだった。
涙で歪む視界の中、リンが咆哮をあげる。
天にまで届くような咆哮が、私たちの時間の終わりが来たことを告げる。
「しゃんとしろ」
言うとリンが身体を離していってしまう。
もう二度と触れる事が出来ない。
寂しいよ。リン。本当は離れたくないよ、私も。
幸せな時間をありがとう。私の心を救ってくれてありがとう。
唇を噛み締めて、前から歩いてくるエマを見つめる。涙が流れていようとも、気にせずそのままにしている。
だって、哀しいのは嘘じゃない。離れるのが切ないのは隠しようが無い。
リンと過ごした時間。
水竜の巫女として過ごした時間。
神官たちと共に悩み、歩んできた時間。
本来ならかけ離れた世界だった水竜の神殿。そして紅竜の神殿。
この全てが、私の手からすり抜けていく。
目の前に緊張の面持ちで立つエマを憎いとは思わない。
ただ、これで全てが終わり、全てを本当に失うという事が寂しくて仕方ない。
「今巫女様?」
眉をひそめて問いかけてくるエマに手の中に握り締めていた指輪を見せる。
「これを着けたら、あなたが紅竜の巫女よ。次代の紅竜の巫女に幸多からん事を」
言い切ると、一気にエマの指に指輪を嵌める。
指の根元まで入れると姿を消し、エマが目を瞬く。
驚いた表情のまま立ち尽くすエマから視線を逸らし、リンを仰ぎ見る。
「ありがとう」
咆哮が山に轟き渡る。
もう、リンの声は聴こえてこない。
リンと入れ替わりに巫女の部屋に戻ると、シレルを筆頭に傭兵、熊、助手、片目が立っている。
巫女付き扱いではない司書はこの部屋には断り無く入る事は出来ないし、カカシと長老は水竜の神殿にいる。支えてくれた神官たち全てがここにいるわけではない。
それでも、一番身近で支えてくれた神官たちを前に、涙が止まらなくなる。
「今までありがとうございました」
深々と頭を下げると、神官たちが困惑の表情を浮かべる。
「不甲斐ない私の世話は大変だったと思います。本当に長い間、どうもありがとうございました」
もう一度頭を下げると、誰かの大きな溜息が聞こえてくる。
「平身低頭しすぎですわよ。例え竜の声が聴こえなくなったとしても、あなたが奇跡の巫女であるという事には変わりはありませんわ」
冷淡な口調で話したかと思うと、神官長様が微笑んで私の手を取る。
「お疲れ様でした。色々辛いこともあったでしょう。これからはゆっくり休みなさいな」
「はい。神官長様」
神官長様に手を取られたままで、涙が止め処なく流れ落ちる。
居心地が良すぎて、ここを離れるのが辛い。
七年間。
私にとって、神殿と神官たちが生活を支えてくれていた。
守られて怒られて、共に困難に立ち向かった事もある。そんな日々が、今は思い出にするにはまだ鮮やか過ぎる。
もう二度とこの場所には戻れない。この人たちに会うことも出来ない。
嗚咽が零れると、神官長様もまた瞳を涙で濡らす。
「ありがとうございました」
それしか、今の私には言えなかった。
涙が引くと、より中央の区画に近い場所に用意された部屋に移り、巫女の正装を脱いで予め用意しておいた服に着替える。
前にレツが選んでくれたワンピース。
それに着替えて化粧を落とし、宝石も外し、巫女ではないただの村娘に戻る。
重たかった宝石も、華やかな衣装も無い。巫女になった日と同じように、ただのサーシャとして神殿の門をくぐる。
引き止める神官長様に挨拶をして、たった一人だけを伴って紅竜の神殿を後にする。
巫女付きの最期の仕事は、巫女だった人を送り届ける事だそうだ。
巫女になった日に一緒に歩いてきたのがシレルで、最期の別れの挨拶をするのもまたシレルになる。
篝火が灯される頃、用意されていた馬車に乗って紅竜の神殿を後にする。
神殿は大祭で賑わい、左翼と右翼では新巫女の誕生祝いが、祭宮と神官長様の主催で行われている。
そんな喧騒の中にいるのも落ち着かないし、巫女でないのなら居場所も無いので、裏口からそっと神殿を出る。
シレルは紅竜の神殿から水竜の神殿に移るという。
巫女付きではない本来の彼の業務は、神殿の経理だそうだ。
水竜の神殿の経理担当の神官は四人。そのうちの二人は紅竜の神殿に移ってしまった。残った一人だけでは負担が大きすぎるという事で、戻ることになったようだ。
馬車の中で、大祭を楽しんだり他の神官たちと挨拶をしたりしなくて良かったのかと聞くと、挨拶は済ませましたと短い返答が返ってきた。
紅竜の神殿から水竜の神殿までの約3週間の移動の間、シレルは殆ど口を利く事が無く、会話も殆どしないままだった。
「本当に、こちらでよろしいのですか」
水竜の神殿の正門の前でシレルに問いかけられる。
「うん。前にレツと一緒に歩いた道を、一人で歩いて帰りたいの。ワガママ言ってごめんなさい」
謝るとシレルが微笑を浮かべる。
「いいえ。わたしが別れを惜しんでいるに過ぎませんから」
さらりと告げるシレルが、穏やかな表情で言葉を続ける。
「敢えて巫女様とお呼びさせて頂きます。巫女様、わたしは巫女様にお仕え出来幸せでございました。わたしの力不足により、御身を危険に晒した事、今なお後悔の念が絶えません」
「……シレル?」
「出来る事なら、巫女様のお傍仕えとして一生を終えたいと思っております。しかしそれは出来ない規則。巫女様がお幸せになることを、毎日こちらで祈っております」
優しい微笑みに涙が零れる。
「迷惑をかけたのは私のほうなのに。巫女になった日からずっと困らせてばかりでごめんなさい」
ポロポロと流れ落ちる涙を、シレルがそっと拭ってくれる。
初めて至近距離で見上げたシレルは、とても鉄仮面だとかと影で言われるような冷たい感じではなく、包み込むように温かい笑顔を向けてくれる。
「ありがとう」
「わたしのほうこそ、ありがとうございました」
止め処なく溢れる涙を、何度も何度もシレルが拭ってくれる。
いつも傍で支えてくれた。シレルがいるから強くなれた。
どんなにダメダメ巫女でも、シレルだけは見捨てないと信じていた。
「あなたがいたから、私は頑張れたの。今までありがとう」
笑顔のままでシレルが首を横に振る。
「全ては巫女様自身のお力で為した事。わたしは何も致してはおりません。ただ……」
「ただ?」
「少しでも巫女様のお力になれたようでしたら、わたしの役目は十二分に果たせたと言えるかもしれません。七年間、お傍仕えさせていただき、光栄でした」
微笑みを崩さずに頭を下げると、シレルはふいっと視線をずらす。
その視線の先には奥殿が見える。
水竜。そして水竜の神殿。水竜の巫女。
私とシレルを繋いだものは、全部ここにあったんだわ。
ここが本当の始まりと終わりの場所。
視線を戻したシレルが深々と頭を下げる。
「どうかお幸せに、巫女様」
それは別れの合図。
「シレルも元気で」
離れがたい気持ちを振り切って、水竜の神殿に、シレルに背を向けて歩き出す。
巫女になった日からずっと隣にいたシレルはもういない。巫女じゃない私には、シレルに一緒にいてもらう資格なんて無い。傅かれる理由も無い。
一歩一歩街路樹の並ぶ道を歩み始めると、ふいに背後から声を掛けられる。
「もし行かれるのなら、三本目と四本目の間ですよ」
振り返るとシレルがペコリと頭を下げて、水竜の神殿へと消えていく。
何も言わなくとも、シレルには何もかもお見通しなのね。それだけずっと一緒にいたから。
今まで本当にありがとう。あなたが私の巫女付きで良かった。