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大祭も終わり、秋になり、王暦の新年も越えて、冬の一番寒い時期になった。
水竜の神殿ほど雪深い場所ではないので、去年に比べると暖かく感じる。
火山の傍にあるからなのか、地脈にも熱が伝わり、温かい泉が神殿の敷地内にも湧き出ていると聞く。
神官たちの入浴や沐浴などに活用できないかと、司書が文献を漁っているらしい。
水竜の神殿と比べると蔵書の量はかなり少ないけれど、カカシが水竜の神殿に残ってしまった為、一人で管理するのは大変そう。
しかもお目当ての書物を一人で見つけるとなると、なかなか難しいらしい。
それぞれ神官たちは新しい住まいを快適にする為に、そして紅竜の神殿を形作る為に奔走している。
水竜とは全く異なった紅竜。
水竜の神殿とは違い、常にその姿を見ることの出来る紅竜の神殿。
より身近に竜を感じる事は、神官たちにとっても良い意味で刺激があるみたい。
以前よりも神官希望者が増えたともいうし、御世が変わったことは良かった部分も多いみたい。
「我といる時に、他の事を考えるな」
ぐるぐるに巻かれた身体の中に抱き込まれていて、外なのに寒さなんて感じない。
むしろぬくぬくとして気持ちがいいのに、リンがするするとその身体を離していく。
ひゅーっと冷たい風が身体を撫でていくので、寒さで体が震える。
ついつい温もりが欲しくて身体を寄せると、ついっとリンが身体を離す。
「寒いよ」
「煩い。そちが我だけを見ていないのが悪い」
ふんっと横を向いたリンに見えないように、こっそり溜息をつく。
もう身体も心も成長して大人になっているはずなのに、リンってどうしてこう子供っぽいんだろう。
独占欲の塊みたいな感じで。
別に紅竜の神殿について考えていたんだから、そんなにヘソ曲げなくてもいいのに。
あ、そういえば竜のオヘソってどこにあるんだろう。
そんなことを考えながら少し離れたリンの身体を覗き込んでいると、尻尾で思いっきり頭をはたかれる。
「いったーい!」
頭を抑えながら涙目で抗議すると、リンが冷たい視線を投げかけてくる。
お互いに目を逸らさずに見詰め合っていると、ついっとリンが視線をずらす。
なんだろうと思って視線の先を追うと、カチャンと窓の一つが開いてエマが顔を出す。
「今巫女様ー! 今お時間いいですかぁ!?」
それは減点ものなんじゃ……。
リンを見上げると、くすりと微笑んだように見える。
神官や私なんかから見ると、それはどうなんだろうと思うようなことでも、リンにとっては他愛のないことみたい。
寧ろ、微笑ましいと思っているのかもしれない。
「後で来る」
短い言葉を残してリンが飛び立ち、その姿が見えなくなるのを確認すると、エマが顔を出している窓へと近付く。
中には渋い顔をした神官が立っているのが見える。
ああ、やっぱり後でお小言コースだわ。
けどエマはそんな事全く気にしていないみたい。どこ吹く風っていうニコニコ笑っている。
神官長様はそれこそ「巫女らしい立ち居振る舞い」を叩き込むべく意気込んでいるけれど、エマには全く通用しないみたいでカリカリしていることが多い。
どんなに小言を言っても「はぁい。わかりましたぁ」なエマに頭を抱えている姿は、申し訳ないけれど笑みを誘う。
それは悪い意味ではなく、二人の遣り取りがどことなく微笑ましくて頬が緩んでしまうから。
エマが来て、人間らしい神官長様を見ることが出来たのは、私にとっても収穫だったように思える。以前よりも近寄りがたい雰囲気も感じないし。
神官たちもエマのことは「しょうがない」と言いつつも、温かい目で見守っているように見える。
苦言も言う。あれこれ指導もする。
けれど決してエマのことを苦々しく思っていたりはしない。
それも彼女の人柄ゆえの事かもしれない。
「どうしたの?」
窓越しに話しかけると、エマがにっこりと微笑む。
「明日には、あた……えっと、私も故郷に帰るんでぇ、ご挨拶した方がいいって神官が」
「そう。じゃあ部屋に戻るから、私の部屋に来てもらえる?」
「はいっ! すぐに行きます!!」
満面の笑みで答えるエマに軽く手を上げて、背を向けて自室に向けて歩き出す。
色々頑張っているのがわかるし、すごく慕ってくれるのも嬉しくて、ついついエマには甘くなっているかもしれない。
この間そんなことを神官長様に言われ、そんなに言うほどでもと思ったけれど、こういう場面で小言を言う気にもならないので、そうなのかもしれない。
すごく人懐っこいエマを、妹のように思う気持ちが強いし。
部屋に戻るとシレルに声を掛け、エマが部屋に来ることを告げると、お茶の準備の為に部屋の外へと出て行く。
入れ違いにエマが部屋を訪れ、ちょこんとソファに腰を下ろす。
一つ一つの仕草も、どことなく可愛らしい。そして型に嵌まっていない。
きっとリンがエマを選んだのは、そんなところが魅力だったからじゃないのかなって思う。私みたいに頭でガッチガチに考えるタイプではないみたいだし。
「ねえねえ、今巫女様」
手招きするようにするエマに首を傾げると、エマが神妙な顔で両手で口を覆うように顔を寄せてくる。
ひそひそ話でもしたいのかなって思って耳を寄せると、ごにょごにょと何かを言ったのがわかる。
「え?」
聞き取れなくて聞き返すと、さっきよりも少し大きな声で囁く。
「神官長様って怖くないですか」
思わずぷっと吹き出してしまうと、エマがきょとんとした顔をする。
笑いを堪えようとしても、ついつい顔が笑みで歪んでしまう。
「怖いの?」
そう聞き返すのが精一杯で、ごほんごほんと咳払いをして誤魔化す。
「怖いですよー。だってぇ、超怒るんですよぉ。エマ、別に何もしてないのにですよぉ。酷くないですかぁ」
ごめん、私は神官長様が怒る理由がわかる気がする。
「ぶっちゃけ、あんだけ美人な人が怒ると、超凄みがあるっていうかー。っていうかあんなに怒ることないのにと思いませんかぁ? あたし、巫女になっても毎日怒られっぱなしなのかな。それだったら、嫌だなぁ。超怖いんだもん」
笑いを堪えて横を向くと、助手が肩を震わせている。意外に笑い上戸なんだよね、助手って。
ぱちっと目線が合うと、助手が気にするなと言わんばかりに手をひらひらと振る。
ちょっと、この場面で私に何を言えって言うのよ。フォローしてよ。
「怖いかもしれないけれど、決して悪気があって怒っていらっしゃるわけではないと思うので、そんなに構えなくても大丈夫だと思うの。だから大丈夫よ」
根拠なんて何もないけれど、多分巫女になったらおおっぴらには怒られなくなるような気がする。私がそうだったように。
でも、あの時とは何もかも違うし、もしかしたら神官長様は今と同じペースで小言を言いまくるのかもしれない。
「そうですかぁー。今巫女様が言うなら、そうなのかなぁ。そうならいいなー」
うーん。とりあえず語尾は延ばさないほうがいいかもしれない。
でも私が注意するのも立場上あまり好ましく無い気がする。どうしたらいいのかな。怒られなくなるようにするには。
「あとぉ。あたし、本当に竜の声が聴こえるようになるのか、超心配なんですよぉ。本当に大祭が来たら聴こえるようになるんですかぁ?」
不安げに眉をひそめるエマに、かつての自分の姿が重なる。次代様と呼ばれている時は、その不安が絶えず胸の中にあったもの。本当に聴こえるようになるその瞬間まで、疑念は消えなかった。
「大丈夫よ。ちゃんと聴こえるようになるから。私も巫女になる前はそうやって不安に思っていたけれど、聴こえるようになったもの」
疑いいっぱいの目を向けられ、何か不味いことを言ったかな? と思ってエマを見つめていると、エマが自分の服の裾を握り締めて俯く。
珍しい。こんな風に黙ってしまうなんて。
何か言ったほうがいいのかなと思いつつも、何て声を掛けたほうがいいのかわからなくて、ただ見つめるしか出来ない。
長い沈黙の後、シレルが目の前に湯気が立ったティーカップを置きにやってくる。
目が合うと小さく頭を下げるので、「ありがとうございます」と短くお礼を付け足す。
「……そうやって」
「え?」
ボソっと言った言葉が聞き取れずに聞き返すと、エマは頬を膨らませてまるで怒っているかのような顔をしている。
「今巫女様は何でも持っているから、あたしの気持ちなんてわからないんですっ。奇跡の巫女って呼ばれている人の後に巫女になるなんて、あたしには無理ですぅ」
突然うわーんと泣き出してしまったエマにどうしていいかわからず周囲を見回すと、神官たちも女官たちも困ったような顔をしている。
どうしよう。
どうしたらいいのかわからず、泣きじゃくるエマの前にしゃがみこんで、その頭を撫でる。
レツもリンも、落ち込んでいる時にはそうしてくれるから。
ポロポロと涙を流すエマを少しでも慰めたくてそうしていると、エマが真っ赤に腫らした涙を沢山溜めた顔を上げる。
「今巫女様ぁ。あたしには無理ですぅ。今巫女様みたいに出来ません」
泣きじゃくるエマの手を握り、涙に濡れた瞳を覗きこむ。
「多分、私が何を言っても今のエマには伝わらないかもしれないけれど、これだけは伝えておくね」
首を傾げ、唇を噛み締めるエマからは堪えきれない不安があふれ出しているように見える。
「あなたを選んだのは、紅竜自身なの。他の誰でもない。私でも、神官長様でも、神官たちでもないの。だから、他の誰がなんと言おうとも、あなたが次代の巫女なのよ」
「でもぉ」
エマの頬を流れる涙を、指で拭う。
「大丈夫。もし信じられないなら、私が保証する。あなたは巫女になる、必ず。だって紅竜はあなたの事を手許におきたいと思っているんだから」
それでも信じられないといった表情をしているので、更に言葉を付け足す。
「私の前の巫女様は、王族でとてもお綺麗で気品の溢れる方で、まるで物語から出てきたかのような完璧な巫女様だったわ。だからとても不安だったの、私が巫女になれるのか。水竜の声を聴くその瞬間まで」
笑顔を付け足して、それからエマの手を取って窓際まで移動する。
視線の先にはリンが寝そべって横目でこちらを見ている。
きっとエマのことが心配だったのだろう。
他の誰もが出てはいけない、リンの下へと行くための窓の鍵を開くと、風が部屋の中に入ってくる。
風にエマの髪が煽られ、俯いていた顔をリンへと向ける。
リンは小さく咆哮を上げる。
私の意図が伝わっているようで、それは同意の返事だ。
「来て」
エマの手を引いて、広場に寝そべるリンの傍へと向かう。
窓の外へと足を踏み出そうとした時、エマがその足を止める。
「い、行けません。あたし、巫女じゃないし」
「大丈夫よ」
微笑むと、心配そうな顔のままエマが恐る恐る一歩を踏み出す。
リンの傍へと行こうとしている時に視線を感じて神殿の方を振り返ると、神官長様が窓辺でこちらを見ている。
エマに「待ってて」と声を掛けて、神官長様の私室の窓へと近付く。
近付くと、神官長様が窓を開けて声を掛けてくる。
「どうなさいましたの。巫女以外が紅竜様のお傍に寄るなど許しがたい事ですわよ」
思わず笑みが零れてしまうと、神官長様がキっと睨み返す。
「神官長様、私の部屋にいらしてください。神官長様にもこちら側に来て貰いたいんです。それともこの窓枠越えます?」
はーっと思いっきり溜息をついて、神官長様が頭を抱えるような仕草をする。
「本当にあなたって人は。……わかりました。すぐに参りますわ」
嫌そうに言っているけれど、やけに足取りが軽い気がしますよ、神官長様。
そんな言葉を心の中で呟いて、リンの傍に寄ろうにも寄れずにいるエマの肩を叩く。
はっとした表情で振り返るエマに笑いかけ、自室のほうを指差す。
「もう一人来るから。ちょっと待っててね」
戸惑いの表情を浮かべているエマが、指差された方を見つめる。
「もしかして神官長様ですかぁ」
「そう」
短い返答を返すと、エマが俯いてしまう。
よっぽど苦手なんだろうな。その気持ちはすごくよくわかるけれど。
神官長様も堅苦しいところがおありになるし、それにとても気位が高くていらっしゃるから、どうしても庶民な私たちは萎縮してしまうのよね。
しばらくすると神官長様がそそくさと部屋に入ってくるのが見えるので、窓の傍まで神官長様を迎えに行く。
「本当によろしいのかしら」
「ええ。お待ちしてました、神官長様」
不安げな神官長様に微笑み返し、エマの待つ場所まで行く。左に神官長様、右にエマと三人並んでリンの下へと行くと、リンがにたっと笑う。
その笑みに神官長様はほっとしたような顔をする。
「ごめんなさいね。わたくしまでこんなところに来てしまいましたわ」
謝罪する神官長様に気にするなとでもいわんばかりに、リンは神官長様に頬を寄せる。
ベロンとリンが神官長様の顔を舐めあげると、短い悲鳴を上げる。
その様子を目を丸くしてエマが見つめている。言葉もないといった風情で。
悲鳴を上げた割には、神官長様は目を細めてリンの首を撫でている。
「きっとこんな型破りな事、最初で最後でしょうね」
「すみません」
咄嗟に謝ると、神官長様が微笑む。
「いいえ、怒っていないわ。わたくしも一度紅竜様に触れてみたいと思っていましたの。ありがとう、巫女」
ほっとしてリンを見上げると、リンの瞳がじーっとエマを見つめている。
見つめられたほうのリンは固まって動けないといった様子で、目を見開いたまま立ち尽くしている。
「リ……紅竜、次の巫女のエマよ」
名前を口にしようとした瞬間にギリっと睨まれたので言い直す。
何故かわからないけれど、リンはその名を決して他の人に告げないようにと言っていた。それはどうやら次の巫女も例外ではないらしい。
--名を知られれば、この身が縛られる。巫女であろうがなんだろうが、我は縛られるのは勘弁だ。
頭の中に響くリンの声に頷き返し、それからエマに微笑む。
「可愛いでしょ。紅竜」
「可愛い?」
聞き返したのは神官長様だった。
「わたくし、あなたのおっしゃる意味がわかりませんわ。正直に申し上げて、この大きな身体をお持ちの紅竜様を可愛いと言ってのける、その神経がわかりませんわ」
「え? じゃあ神官長様はどう思っていらっしゃるんですか」
「偉大なる方として尊敬しておりますわ」
胸を張る神官長様は、愛おしげな瞳をリンに向けている。それは尊敬とは違う感情に思えるけれど、尊敬なんだろうか。
「わたくしはこの方に救われましたの。行き先を見失ったわたくしたちに行く道を示して下さった事を感謝しておりますわ」
それは二年半前の、レツを失った時の事を言っているのかもしれない。
もしくはレツと私がいなくなった数ヶ月の事かもしれない。
「それにわたくしたち端々の者にまで気を配って頂いていて、とても嬉しいんですの。毎日そのお姿を見られるだけで、とても幸せですわ」
リンはその神官長様の言葉を受け止めて、またベロンと顔を舐め上げ、尻尾で己の身体の傍へと神官長様を引き込む。
神官長様は驚いたように目を見開き、そして嬉しそうに微笑む。
「わたくしにまで心を砕いて下さってありがとうございます。紅竜様」
リンは嬉しそうな顔で神官長様を見、それからエマに目を向ける。
目が合ったエマは俯いて、自分の服の裾を握り締めてしまう。
「エマ」
声を掛けると、涙が溢れ出しそうな目をこちらに向ける。
「どうして」
呟くように言うと、一気にエマの瞳から涙が零れ落ちる。
「どうして次代の巫女のあたしにはそんな事しないのに、神官長様にはするの。本当にあたしが次の巫女なの?」
ボロボロと涙を流してしゃくり上げるエマの肩をポンと叩く。
肩を叩かれたエマは大声で泣きながら抱きついてくる。
何度も背を叩き、そして髪を撫でる。
「大丈夫。大丈夫よ」
不安に押しつぶされそうなんだなって思う。かつて自分がそうだったように、誰か一人でも大丈夫って言ってくれたら気持ちが楽になるんじゃないかなって思って、何度も何度も大丈夫と言い続ける。
こんな風に素直に泣けるなら、大丈夫。それにリンは全てを受け止めてくれるはず。
困惑顔の神官長様に視線を送り、何も言わないように首を横に振ると、神官長様はこくんと頷く。
巫女になった者にしかわからない不安。
神官長様もこんな風に思い悩んだりしたんだろうか。
きっと不安に駆られた日もあったから、何も言わずにリンの事を心配そうに見守っているのだろう。
今、私が出来る事は何なんだろう。紅竜の巫女として、次の巫女と、神殿を守りゆく神官長様に。
私が遺せるもの。
「ねえ、エマ。顔を上げて。紅竜を見てみて」
言われたエマが肩から顔を上げて、リンのほうへ目を向ける。
涙でぐちゃぐちゃになったエマの顔に、リンはぬっと顔を近づける。
至近距離で見つめあう一人と一頭は、まるで二人だけの会話をしているように互いの目を見ている。
「紅竜。あなたが選んだ次の巫女のエマよ。あなたの声が聴こえるようになるか不安なの。そんな事無いよって、あなたからもエマに伝えてあげて」
視線を一瞬だけ私のほうに向けた後、リンはエマの額に自分の額をくっ付ける。
その瞬間エマはびくっと身体を動かしたけれど、されるがままに目を瞑ってリンと額をつけたままでいる。
何か伝わればいい。
そう思っていると、リンの傍から離れ神官長様が私の横に来る。
何も言わず、目の前で繰り広げられている光景を見つめている。時折何かを思うかのように、視線を空へと向けて。
落ち着いたエマを部屋に送り届け、その足で神官長様の私室を訪れる。
神官長様付きの神官が、既にお茶の用意をしておいてくれたようだ。
「私が来るとわかっていらっしゃったんですか」
聞くと、神官長様が呆れたような顔をする。
「白々しい事。今日は目新しいお菓子はありませんわよ」
「人を食いしん坊みたいに言わないで下さい」
苦笑しながらソファに座ると、神官長様が苦笑する。
「何で、わたくしがあなたとこんな風にお茶をする仲になっているのかしら。信じられませんわ」
「いつも誘うのは神官長様じゃないですか。毎日部屋を通るたびに」
「だって、わたくし一人では食べきれないんですもの。それに一人で食べても美味しくないわ。どうせなら誰かと食べた方が楽しいでしょう」
嘘ばっかり。食べきれないから誘うんじゃなくて、一人で食べきれない程用意して待っていてくれているのに。そう言おうとしたけれど、口にはしなかった。
「じゃあ、エマが巫女になった後もそうしてあげてくださいね。エマが神官長様が怖いって嘆いてましたよ」
「んまぁっ。それは心外ですわっ」
大げさに驚いて見せるので、思わず笑みが零れる。
「精一杯、巫女らしくなるように教育しようと思っておりますのに」
「わかっています。ただエマが少し不安に思っているようですから、言いたい気持ちをぐっと抑えて、たまには褒めてあげてくださいね」
「考えておきますわ」
苦々しそうな顔をする神官長様に「お願いします」と付け加えて、出されたお菓子を一つ手に取る。
手の込んだクッキーは、神官長様が好きそうな上品な味がする。
更に出されたお茶を一口飲むと、ほわっと花の香りが広がっていく。
こういう上流階級のお茶タイムもあと半年ね。
明日にはエマは故郷に旅立ち、三ヶ月かけて故郷に戻って儀式をして、同じように三ヶ月かけて大祭の日に神殿に戻ってくる。
エマが戻ってきたら、私の役目は全ておしまい。そしてこういう優雅な一時も、もう二度と味わう事はなくなる。
「紅竜様は、わたくしに巫女の守護者になれとおっしゃりたいのかしら」
神官長様の問いかけに、にっこりと微笑み返す。
「神官長様がそう感じられたのなら、そうなのだと思いますよ」
ふふっと微笑んで神官長様が窓の外を見つめる。
かつて水竜の神殿でそうしていた時には、どこか悲壮感が漂っていたけれど、今はとても優しい視線を窓の外へと向けている。
私にとっても、神官長様にとっても、竜の御世が変わったというのは良い方に働いたのかもしれない。
リンの自由さは、神官長様はもとより神官たち、そして神殿全てに自由を与えたように思う。
私同様に捕らわれていた神官長様の心も、堅苦しい神官たちの態度も、リンに感化されたかのように解けて和らいだように思う。
束縛されない竜は、私たち全員の心も束縛せず、それぞれを呪縛から解き放ってくれたに違いない。
そしてきっと、エマはまた新しい紅竜の神殿を築き上げていくのだろう。