やらかし王女、眼鏡を外す~追放された傲慢王女は本日も外交部(ただし庶務)で淡々と~
学園での不祥事の責を負い、ズラタは名を変え、外交部に配属された。
初めて「外交部庶務室」の扉を開けた日、室内にいた三人の職員は一瞬だけ顔を上げ、すぐに書類へ視線を戻した。
それだけだった。
「本日よりお世話になります。タマラ・シェレメトと申します」
「あー、新しい子ね」
窓際の席から声がした。四十がらみの女性が煙草を指に挟んだまま、顎でひとつの机を示す。
「そこ使って。引き出しにゴミが入ってたら捨てといて」
「……はい」
ズラタは頭を下げた。
金髪碧眼を隠す魔道具の眼鏡は、今日も彼女の顔を平凡な茶目の黒髪娘に変えていた。
重くはない。だが鼻の付け根に、いつも小さな圧力がかかる。
ズラタは手帳を取り出して、『今日やること』と書き、『机周りの清掃』と続けた。
引き出しを開けると、飴の包み紙と、誰かの愚痴らしき走り書きと、折れたペン先が出てきた。
彼女はそれらをゴミ箱に捨て、自分の筆記具を並べた。
「字、綺麗だな」
斜め前の席から声がした。
見れば、二十代前半くらいの男が頬杖をついて彼女を眺めていた。
茶髪に蜂蜜酒のような淡い金の瞳。整った顔立ちだが、目の下に薄く隈がある。袖口が少し擦り切れていた。
「ありがとうございます」
「シェレメトって聞いたことないけど、どこ出身?」
「……ここから離れた地方です」
「貴族?」
ズラタは一瞬、止まった。
「小さな家の出です」
男は特に疑う様子もなく「ふーん」と言って視線を書類に戻した。
「俺はセルヒー・メドヴィル。伯爵家の長男だけど庶子。要するに正式な席がない人間。よろしく」
ズラタは人生で初めて、自己紹介に「よろしく」と返した。
外交部庶務室は、王城の端も端に位置する部署だった。
外交部とは名ばかりで、実際には職員が必要な文房具を発注・補充したり、旅費を精算したりするだけの部署である。
予算は乏しく、仕事は地味で、構成員はみな何らかの「事情持ち」だった。
庶子。左遷された元エリート官僚。学生時代に問題を起こした平民出身者。そして、素性の知れない「タマラ」。
最初の一週間、ズラタは自分が思っていた以上に何もできないことを知った。
書類の書式が分からない。どの棚に何があるか分からない。お茶の出し方の順番も知らない。
「あのっ、これはどこへ――」
「棚の左から三番目」
誰も怒らない。ただ淡々と、答えてくる。
王女付きの侍女たちは、ズラタが何かを尋ねる前に先読みして動いていた。
だからズラタは「聞く」という行為自体、あまりしたことがなかった。
二週間目、彼女は初めてセルヒーに「教えてください」と頭を下げた。
「この集計、どうしても合わないんです」
「見せて」
セルヒーは書類を受け取り、数秒で誤りを指摘した。
「ここ、繰り上がりを忘れてる。貴族なのに算術習ってないの?」
「……習いましたけど、私があまり得意でなくて」
「そっか」
それだけだった。責められることも叱られることもなかった。
ただ赤いインクで正しい数字を書き込んで、返してくれた。
ズラタはその夜、職員寮の自室に戻ってから、自分でもよく分からない気持ちになった。
部屋には、寝台と小さな机と、自分で買った蝋燭立てがあるだけだった。
胸の中に何か、小さなものが生まれたような気がした。
一ヶ月が過ぎた頃、ズラタは市場で子どもを見た。
木苺のような赤い髪の、小さな女の子だった。
「その髪、変」
周りの子どもたちが離れていく。女の子は俯いて、石畳を見つめていた。
ズラタの足が、止まった。
――そこのピンク髪の娘も共犯でしょう!
自分が言ったことを思い出した。
どうすればいいか分からなかった。声をかけようとしたが、何を言えばいいのか分からなくて、結局その場を通り過ぎてしまった。
書類の文字が滲んで見えた。
セルヒーが横目で見て、何も言わなかった。
ただ、温かいお茶を一杯、黙って机に置いていった。
*
「飲みに行くぞ」
半年目の終わり、セルヒーが言った。
「え?」
「今日、俺の仕事を手伝ってくれただろ。おごる」
「あ、でも……」
「来ないならいい」
「行きます」
連れて行かれたのは、城下の安い居酒屋だった。木のテーブルと、油の染みたメニューと、うるさい常連客。
ズラタは生まれて一度も来たことのない種類の場所だった。
「何飲む?」
「……えっと、あなたと同じものを」
「ビールでいいか」
「はい」
注がれた木の杯は縁が少し欠けていた。それでもズラタは両手で持って、一口飲んだ。少し雑な味がした。
前菜とゆで餃子が運ばれてきた。
皿に山盛りの前菜は、真っ赤なビーツ、ニシンのピンク、緑のピクルスが彩りを放っていた。
どれも彼女は見たことがない料理だった。
セルヒーは笑ってゆで餃子を一切れ取り、ズラタの皿に置いた。
「これ、熱いうちに食べろ。馬鈴薯と乾酪が入っていて旨いぞ」
ズラタはスプーンでゆで餃子をすくい、恐る恐る口に運び、目を丸くした。
「おいしい……!」
居酒屋に、二人の小さな笑い声が溶けていった。
「セルヒーさんは、なんで外交部庶務室に?」
セルヒーは天井を見た。
「親父が異母弟じゃなく、俺を跡取りにしようとバカなことを考えてな。それをぶっ潰した余波」
「……」
「そういうことがあること、知ってた?」
ズラタは黙った。
「貴族の世界じゃ常識か」
「……知っていました。でも、実感していませんでした」
セルヒーが少し目を細めた。
「正直だな、あんた」
「最近、嘘をつくのが苦手になってきました」
それは本当のことだった。
この半年で、ズラタは少しずつ、自分がどれほど確認せずに信じていたかを知っていった。
職場の人々は皆、自分の事情を持っていた。そしてその事情には、必ず背景があった。
単純な悪人など、一人もいなかった。
「……私、以前に他人を傷つけたんです」
酒が少し回ったのかもしれない。ズラタの口が、動いた。
「確認もしないで。自分が正しいと思い込んで。その人の背景も、なぜそう見えたかも、何も調べないで――」
視界がぼやける。情けない、と彼女は思った。ここで泣く資格はない。
「悪意はなかったんです。本当に。でも、悪意がなければ人を傷つけてもいいわけじゃなくて」
杯を持つ手に力が入った。
「誰も、私に本音を言ってくれなかった。私がそういう空気を作っていたから。でも私はそれを知らなくて……知らないまま、ずっと――」
喉が詰まった。
「……ずっと、正しいと思っていた」
ズラタの涙は止まらない。
セルヒーは何も言わなかった。しばらく、静かに杯を傾けていた。
それから、ゆっくりと手を伸ばした。
ズラタの眼鏡に、触れた。
「あ――」
眼鏡を外されてしまった。
ランプの光の中で、金色の髪がこぼれた。青い目が、濡れたまま瞬いた。
「……はあ? は?」
セルヒーはズラタの顔を見て、眼鏡を見て、また顔を見た。
「……だから字が綺麗だったのか」
「そこですか!?」
思わず声が出た。
「まあ、なんとなく。品の消し方が雑だったし」
ズラタは眼鏡を奪い返した。
地味な黒髪に戻る。奥まったテーブルで誰にも見られていないのは幸いだった。
涙がまだ頬にあるのに、なんだかおかしくなってきた。
「……怒らないのですか」
「何に?」
「隠していたことを」
セルヒーは少し考えてから、言った。
「あんたが誰でも、別に良いだろ。同じ人間なのは変わらない」
ズラタの涙が、止まった。
「それに」セルヒーは杯を置いた。
「俺たちの職場、やらかし経験者の集まりだぞ。今更、王女ひとりで驚くか」
翌朝、外交部庶務室に出勤すると、窓際の女性職員が煙草を吹かしながら言った。
「あー、あんたって学園でやらかした王女の話、聞いたことある?」
ズラタは一瞬、固まった。
「……噂程度には」
「なんか魅了がどうとか大騒ぎしたらしいじゃない。若いねえ」
それだけだった。
書類が一枚、ズラタの机に滑ってきた。
「今日の集計、頼んでいい?繰り上がり、今度は忘れないで」
セルヒーが言った。いつもと同じ声で。
「……はい」
ズラタは眼鏡を直して、ペンを持った。
昼休み。市場で木苺色の髪の子どもが走っていくのが見えた。
今日こそ、声をかけてみようと思った。
それからさらに三ヶ月が過ぎた頃、ズラタに辞令が下りた。
外交部庶務室から、外交部交渉補佐課への異動だった。
セルヒーは「そうか」と言っただけだった。
異動までの一ヶ月、彼は休憩中、部屋にいないことが多くなった。見慣れない書類を抱えて、庶務室に戻るのも遅かった。
定時になると、珍しく机の上をきちんと整えてから帰った。
ズラタは何度か声をかけようとして、やめた。
何をしているのかは、聞けなかった。
*
新しい職場でも、ズラタは地道に働いた。
職員寮の一室を早朝に出て、誰よりも早く席につき、誰よりも遅く資料を閉じた。
交渉補佐課の仕事は、庶務室とは違う種類の難しさがあった。
数字の誤りは赤インクで直せる。だが言葉の誤りは、そうはいかない。
着任して間もない頃のことだった。
隣国との交渉記録を確認する会議で、ズラタは資料の矛盾に気づき、何気なく指摘した。
「この数字、前回の取り決めと合っていないように思いますが」
向かいの上席官僚が、微笑んだまま黙った。愛想のいい沈黙だった。
ズラタは自分が何をしたか、一拍遅れて気づいた。
相手は上席の、しかも長年この交渉を担ってきた官僚だった。
大勢の前で、初対面の新任職員に誤りを指摘された形になっていた。
正しければいい、というわけではなかった。
その夜、寮に戻ってからズラタはしばらく蝋燭の炎を見つめていた。
庶務室で覚えたことがあった。誰も怒らず、ただ淡々と答えてくれる人々のことを。
あの静けさは、単なる無関心ではなかったのかもしれない。
言葉を選んでいたのだ。毎日、ずっと。
翌日、ズラタは会議の前にその官僚を廊下で呼び止め、昨日の件について個別に話す機会をもらえないかと頼んだ。
官僚は少し驚いた顔をしたが、「構わないよ」と言った。
それ以来、ズラタは何かに気づいたとき、まず口を閉じることにした。
そして、いつ、誰に、どう伝えるかを少しだけ考えてから口を開くようにした。
異動から数ヶ月後のある朝、交渉補佐課の扉が開いた。
「お、やっぱりここにいた」
顔を上げると、セルヒーが立っていた。前よりも、襟元がきちんとしている。
「……セルヒーさん?」
「上級試験、受かって。辞令が出た」
ズラタは瞬いた。
「こちらへ?」
「上級職員の配属先、希望出せたんだよ」
それだけ言って、セルヒーは室内を見回した。席を確認すると、ズラタの斜め前に荷物を置いた。
庶務室のときと、同じ位置だった。
ズラタは眼鏡の奥で、少し目を逸らした。
何かを言おうとして、それは止め、ペンを持ち直した。
「……おかえりなさい」
セルヒーは少し間を置いてから、口の端をわずかに上げた。
「ただいま」
窓から、春の光が差し込んでいた。
*
数年後、貴族の夫人となったズラタに、新任の侍女が恐る恐る言葉を選びながら報告をした。
「その言葉、あなたの本心ですか?」
侍女が、驚いて顔を上げる。
「怒っているのではありません」ズラタは続けた。「ただ――私は、あなたの本当の言葉が聞きたいのです」
部屋に、小さな沈黙が落ちた。
やがて侍女は、ゆっくりと、今度は別の言葉を口にした。
ズラタはそれを、最後まで聞いた。
影響力は、消えない。
夫がかつて黙って置いてくれたお茶のように、温かく使えばいい。
そう思いながら、ズラタは今日も、人の言葉を待った。




