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イゾルダの護符と、めぐる縁たち

やらかし王女、眼鏡を外す~追放された傲慢王女は本日も外交部(ただし庶務)で淡々と~

作者: 水主町あき
掲載日:2026/02/15

 学園での不祥事の責を負い、ズラタは名を変え、外交部に配属された。

 

 初めて「外交部庶務室」の扉を開けた日、室内にいた三人の職員は一瞬だけ顔を上げ、すぐに書類へ視線を戻した。

 それだけだった。

 

「本日よりお世話になります。タマラ・シェレメトと申します」

 

「あー、新しい子ね」

 

 窓際の席から声がした。四十がらみの女性が煙草を指に挟んだまま、顎でひとつの机を示す。

 

「そこ使って。引き出しにゴミが入ってたら捨てといて」

 

「……はい」

 

 ズラタは頭を下げた。

 

 金髪碧眼を隠す魔道具の眼鏡は、今日も彼女の顔を平凡な茶目の黒髪娘に変えていた。

 重くはない。だが鼻の付け根に、いつも小さな圧力がかかる。

 

 ズラタは手帳を取り出して、『今日やること』と書き、『机周りの清掃』と続けた。

 引き出しを開けると、飴の包み紙と、誰かの愚痴らしき走り書きと、折れたペン先が出てきた。

 彼女はそれらをゴミ箱に捨て、自分の筆記具を並べた。

 

「字、綺麗だな」

 

 斜め前の席から声がした。

 

 見れば、二十代前半くらいの男が頬杖をついて彼女を眺めていた。

 茶髪に蜂蜜酒(シケラ)のような淡い金の瞳。整った顔立ちだが、目の下に薄く隈がある。袖口が少し擦り切れていた。

 

「ありがとうございます」

 

「シェレメトって聞いたことないけど、どこ出身?」

 

「……ここから離れた地方です」

 

「貴族?」

 

 ズラタは一瞬、止まった。

 

「小さな家の出です」

 

 男は特に疑う様子もなく「ふーん」と言って視線を書類に戻した。

 

「俺はセルヒー・メドヴィル。伯爵家の長男だけど庶子。要するに正式な席がない人間。よろしく」

 

 ズラタは人生で初めて、自己紹介に「よろしく」と返した。


 外交部庶務室は、王城の端も端に位置する部署だった。

 

 外交部とは名ばかりで、実際には職員が必要な文房具を発注・補充したり、旅費を精算したりするだけの部署である。

 予算は乏しく、仕事は地味で、構成員はみな何らかの「事情持ち」だった。

 庶子。左遷された元エリート官僚。学生時代に問題を起こした平民出身者。そして、素性の知れない「タマラ」。


 最初の一週間、ズラタは自分が思っていた以上に何もできないことを知った。

 書類の書式が分からない。どの棚に何があるか分からない。お茶の出し方の順番も知らない。

 

「あのっ、これはどこへ――」

 

「棚の左から三番目」

 

 誰も怒らない。ただ淡々と、答えてくる。

 王女付きの侍女たちは、ズラタが何かを尋ねる前に先読みして動いていた。

 だからズラタは「聞く」という行為自体、あまりしたことがなかった。

 

 二週間目、彼女は初めてセルヒーに「教えてください」と頭を下げた。

 

「この集計、どうしても合わないんです」

 

「見せて」

 

 セルヒーは書類を受け取り、数秒で誤りを指摘した。

 

「ここ、繰り上がりを忘れてる。貴族なのに算術習ってないの?」

 

「……習いましたけど、私があまり得意でなくて」

 

「そっか」

 

 それだけだった。責められることも叱られることもなかった。

 ただ赤いインクで正しい数字を書き込んで、返してくれた。

 

 ズラタはその夜、職員寮の自室に戻ってから、自分でもよく分からない気持ちになった。

 部屋には、寝台と小さな机と、自分で買った蝋燭立てがあるだけだった。

 胸の中に何か、小さなものが生まれたような気がした。

 

 一ヶ月が過ぎた頃、ズラタは市場で子どもを見た。

 木苺(マリナ)のような赤い髪の、小さな女の子だった。

 

「その髪、変」

 

 周りの子どもたちが離れていく。女の子は俯いて、石畳を見つめていた。

 

 ズラタの足が、止まった。

 

 ――そこのピンク髪の娘も共犯でしょう!

 

 自分が言ったことを思い出した。

 

 どうすればいいか分からなかった。声をかけようとしたが、何を言えばいいのか分からなくて、結局その場を通り過ぎてしまった。

 

 書類の文字が滲んで見えた。

 セルヒーが横目で見て、何も言わなかった。

 ただ、温かいお茶を一杯、黙って机に置いていった。

 


「飲みに行くぞ」

 

 半年目の終わり、セルヒーが言った。

 

「え?」

 

「今日、俺の仕事を手伝ってくれただろ。おごる」

 

「あ、でも……」

 

「来ないならいい」

 

「行きます」

 

 連れて行かれたのは、城下の安い居酒屋だった。木のテーブルと、油の染みたメニューと、うるさい常連客。

 ズラタは生まれて一度も来たことのない種類の場所だった。

 

「何飲む?」

 

「……えっと、あなたと同じものを」

 

「ビールでいいか」

 

「はい」

 

 注がれた木の杯は縁が少し欠けていた。それでもズラタは両手で持って、一口飲んだ。少し雑な味がした。

 

 前菜とゆで餃子(ヴァレーニキ)が運ばれてきた。

 皿に山盛りの前菜は、真っ赤なビーツ、ニシンのピンク、緑のピクルスが彩りを放っていた。

 どれも彼女は見たことがない料理だった。


 セルヒーは笑ってゆで餃子(ヴァレーニキ)を一切れ取り、ズラタの皿に置いた。

 

「これ、熱いうちに食べろ。馬鈴薯(カルトープリャ)乾酪(スィール)が入っていて旨いぞ」

 

 ズラタはスプーンでゆで餃子(ヴァレーニキ)をすくい、恐る恐る口に運び、目を丸くした。

 

「おいしい……!」

 

 居酒屋に、二人の小さな笑い声が溶けていった。

 

「セルヒーさんは、なんで外交部庶務室に?」

 

 セルヒーは天井を見た。

 

「親父が異母弟(おとうと)じゃなく、俺を跡取りにしようとバカなことを考えてな。それをぶっ潰した余波」

 

「……」

 

「そういうことがあること、知ってた?」

 

 ズラタは黙った。

 

「貴族の世界じゃ常識か」

 

「……知っていました。でも、実感していませんでした」

 

 セルヒーが少し目を細めた。

 

「正直だな、あんた」

 

「最近、嘘をつくのが苦手になってきました」

 

 それは本当のことだった。

 

 この半年で、ズラタは少しずつ、自分がどれほど確認せずに信じていたかを知っていった。

 職場の人々は皆、自分の事情を持っていた。そしてその事情には、必ず背景があった。

 単純な悪人など、一人もいなかった。

 

「……私、以前に他人を傷つけたんです」

 

 酒が少し回ったのかもしれない。ズラタの口が、動いた。

 

「確認もしないで。自分が正しいと思い込んで。その人の背景も、なぜそう見えたかも、何も調べないで――」

 

 視界がぼやける。情けない、と彼女は思った。ここで泣く資格はない。

 

「悪意はなかったんです。本当に。でも、悪意がなければ人を傷つけてもいいわけじゃなくて」

 

 杯を持つ手に力が入った。

 

「誰も、私に本音を言ってくれなかった。私がそういう空気を作っていたから。でも私はそれを知らなくて……知らないまま、ずっと――」

 

 喉が詰まった。

 

「……ずっと、正しいと思っていた」

 

 ズラタの涙は止まらない。

 

 セルヒーは何も言わなかった。しばらく、静かに杯を傾けていた。

 それから、ゆっくりと手を伸ばした。

 ズラタの眼鏡に、触れた。

 

「あ――」

 

 眼鏡を外されてしまった。

 

 ランプの光の中で、金色の髪がこぼれた。青い目が、濡れたまま瞬いた。

 

「……はあ? は?」

 

 セルヒーはズラタの顔を見て、眼鏡を見て、また顔を見た。

 

「……だから字が綺麗だったのか」

 

「そこですか!?」

 

 思わず声が出た。

 

「まあ、なんとなく。品の消し方が雑だったし」

 

 ズラタは眼鏡を奪い返した。

 地味な黒髪に戻る。奥まったテーブルで誰にも見られていないのは幸いだった。

 涙がまだ頬にあるのに、なんだかおかしくなってきた。

 

「……怒らないのですか」

 

「何に?」

 

「隠していたことを」

 

 セルヒーは少し考えてから、言った。

 

「あんたが誰でも、別に良いだろ。同じ人間なのは変わらない」

 

 ズラタの涙が、止まった。

 

「それに」セルヒーは杯を置いた。


「俺たちの職場、やらかし経験者の集まりだぞ。今更、王女ひとりで驚くか」


 翌朝、外交部庶務室に出勤すると、窓際の女性職員が煙草を吹かしながら言った。

 

「あー、あんたって学園でやらかした王女の話、聞いたことある?」

 

 ズラタは一瞬、固まった。

 

「……噂程度には」

 

「なんか魅了がどうとか大騒ぎしたらしいじゃない。若いねえ」

 

 それだけだった。

 

 書類が一枚、ズラタの机に滑ってきた。

 

「今日の集計、頼んでいい?繰り上がり、今度は忘れないで」

 

 セルヒーが言った。いつもと同じ声で。

 

「……はい」

 

 ズラタは眼鏡を直して、ペンを持った。

 

 昼休み。市場で木苺(マリナ)色の髪の子どもが走っていくのが見えた。

 今日こそ、声をかけてみようと思った。


 それからさらに三ヶ月が過ぎた頃、ズラタに辞令が下りた。

 外交部庶務室から、外交部交渉補佐課への異動だった。


 セルヒーは「そうか」と言っただけだった。

 異動までの一ヶ月、彼は休憩中、部屋にいないことが多くなった。見慣れない書類を抱えて、庶務室に戻るのも遅かった。

 定時になると、珍しく机の上をきちんと整えてから帰った。


 ズラタは何度か声をかけようとして、やめた。

 何をしているのかは、聞けなかった。

 

 

 新しい職場でも、ズラタは地道に働いた。

 職員寮の一室を早朝に出て、誰よりも早く席につき、誰よりも遅く資料を閉じた。

 

 交渉補佐課の仕事は、庶務室とは違う種類の難しさがあった。

 数字の誤りは赤インクで直せる。だが言葉の誤りは、そうはいかない。

 

 着任して間もない頃のことだった。

 隣国との交渉記録を確認する会議で、ズラタは資料の矛盾に気づき、何気なく指摘した。

 

「この数字、前回の取り決めと合っていないように思いますが」

 

 向かいの上席官僚が、微笑んだまま黙った。愛想のいい沈黙だった。

 ズラタは自分が何をしたか、一拍遅れて気づいた。

 

 相手は上席の、しかも長年この交渉を担ってきた官僚だった。

 大勢の前で、初対面の新任職員に誤りを指摘された形になっていた。

 正しければいい、というわけではなかった。

 

 その夜、寮に戻ってからズラタはしばらく蝋燭の炎を見つめていた。

 

 庶務室で覚えたことがあった。誰も怒らず、ただ淡々と答えてくれる人々のことを。

 あの静けさは、単なる無関心ではなかったのかもしれない。

 言葉を選んでいたのだ。毎日、ずっと。

 

 翌日、ズラタは会議の前にその官僚を廊下で呼び止め、昨日の件について個別に話す機会をもらえないかと頼んだ。

 官僚は少し驚いた顔をしたが、「構わないよ」と言った。

 

 それ以来、ズラタは何かに気づいたとき、まず口を閉じることにした。

 そして、いつ、誰に、どう伝えるかを少しだけ考えてから口を開くようにした。


 異動から数ヶ月後のある朝、交渉補佐課の扉が開いた。

 

「お、やっぱりここにいた」

 

 顔を上げると、セルヒーが立っていた。前よりも、襟元がきちんとしている。

 

「……セルヒーさん?」

 

「上級試験、受かって。辞令が出た」

 

 ズラタは瞬いた。

 

「こちらへ?」

 

「上級職員の配属先、希望出せたんだよ」

 

 それだけ言って、セルヒーは室内を見回した。席を確認すると、ズラタの斜め前に荷物を置いた。

 庶務室のときと、同じ位置だった。

 

 ズラタは眼鏡の奥で、少し目を逸らした。

 何かを言おうとして、それは止め、ペンを持ち直した。

 

「……おかえりなさい」

 

 セルヒーは少し間を置いてから、口の端をわずかに上げた。

 

「ただいま」

 

 窓から、春の光が差し込んでいた。

 


 数年後、貴族の夫人となったズラタに、新任の侍女が恐る恐る言葉を選びながら報告をした。

 

「その言葉、あなたの本心ですか?」

 

 侍女が、驚いて顔を上げる。

 

「怒っているのではありません」ズラタは続けた。「ただ――私は、あなたの本当の言葉が聞きたいのです」

 

 部屋に、小さな沈黙が落ちた。

 やがて侍女は、ゆっくりと、今度は別の言葉を口にした。

 ズラタはそれを、最後まで聞いた。

 

 影響力は、消えない。

 夫がかつて黙って置いてくれたお茶のように、温かく使えばいい。

 そう思いながら、ズラタは今日も、人の言葉を待った。

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