第9話 提出命令
「セレナ様! 大聖堂より――“誓文を本日中に提出せよ”との通達が……!」
執事長の声の向こうで、白衣の司祭たちが整然と並んでいた。数は十を超える。大仰な行列。伯爵家の門前を、まるで自分たちの庭のように占領している。
私は馬車から降り、封筒を胸に押し当てた。
封筒の表に自分で刻んだ走り書きが、指先に当たる。
――三日後、誓文を潰す。署名するな。
消えかける手帳の字よりも、今の私にはこの“硬い感触”が頼りだった。
「通して」
私が言うと、司祭たちは一斉に頭を下げた。礼儀の形だけは完璧だ。だからこそ、怖い。
先頭の司祭が進み出る。年嵩で、頬がこけている。口元の笑みは丁寧だが、目が笑っていない。
「アルヴィス伯爵令嬢セレナ様。聖女エレノア様の御名により、悔い改めの誓文を本日中に提出いただきます。これは慈悲であり、救いです」
救い。
その言葉が、胃の底を冷たく撫でた。
私は礼を返し、扉の前で足を止めた。
「提出――“提出”とは、署名済みの文書を渡すことですか。それとも、署名の手続きを行うことですか」
司祭が一瞬、瞬きをする。
「……当然、署名済みの誓文です」
「では誓文の全文と、提出先の正式な窓口、受付記録の方式を提示してください。伯爵家の記録係が控えを取り、会話も記録します」
「令嬢」
司祭の声が少しだけ硬くなった。
「信仰の誓いに、そこまでの形式は――」
「形式が嫌なら、提出命令など出さなければよろしい」
私は微笑みを消さずに言った。
「提出は形式です。形式なら、書面と記録が必要です」
背後で執事長が合図し、伯爵家の書記が紙を広げた。筆が置かれる。私の護衛も二名、扉脇に立つ。
司祭たちの空気が、わずかにざわついた。
(よし。今日の勝負は“言葉”じゃない。“場”だ)
司祭は咳払いをし、袖から巻紙を出した。白い封蝋。大聖堂の紋章。
「こちらが通達です。――本日中に提出せよ、と」
私は受け取らず、目だけで確認する。
「差出人は大聖堂管理局。署名は……代筆ですね。印章も管理局のもの。聖女様の直命なら、聖女様の印章と署名が必要です」
司祭の頬が引きつった。
「令嬢、あなたは……聖女様の慈悲を疑うのですか」
来た。二択。
疑えば異端。信じれば従属。
私は三つ目を置く。
「慈悲を疑っているのではありません。命令書の正当性を確認しています。正当なら、確認されても揺らぎません」
司祭は口を開きかけ、閉じた。揺らいだのは彼のほうだ。
私は続けた。
「それと、もう一つ。誓文の提出を求めるなら、誓文の全文をこちらへ。法務官に確認させます」
司祭の目が鋭くなる。
「……全文は、教会の外に出せません」
「出せないものを、なぜ提出させるのですか」
私が問うと、司祭の背後にいた若い司祭が、堪えきれずに口を挟んだ。
「令嬢! あなたは救いを拒むのですか!? 誓文は形式です、形式だけ――!」
その瞬間、私の背筋がぞわりと粟立った。
形式だけ。
聖女と同じ言い回し。教会の言葉は統一されている。つまりこれは、個々の司祭の善意ではなく、組織の意志だ。
私は若い司祭を見た。
「形式なら、全文がなくて困る理由がない。形式なら、王城の文書保管所に登録して構いませんよね?」
若い司祭の顔が青ざめた。
「……王城に、誓文を……?」
「形式だから」
私はにっこり笑う。
「それとも、形式ではないから出せないのですか?」
司祭たちが沈黙する。沈黙は、証言だ。
私は扉を開け、客間へ促した。
「立ち話は不敬です。中へ。提出の話を“記録が残る形で”進めましょう」
司祭たちが渋々と入ってくる。
私は席に着き、あえて紅茶を出させた。茶を飲む時間が、彼らには無駄だ。無駄は焦りを生む。焦りは言葉を滑らせる。
「さて、誓文を提出せよとのことでしたが」
私は書記に視線を送り、筆の動きを確認する。
「提出先はどこですか。提出した事実は誰が記録し、控えは誰が保管しますか。こちらは控えを持ちます。封蝋と署名付きで」
司祭が言った。
「大聖堂の小礼拝堂にて、聖女様が受理なさいます」
「では、その場で受領証をください。日付、時刻、受理者、立会人の署名を」
「……受領証など」
「出せないなら、受理もできませんね」
私の声は柔らかい。けれど意味は硬い。
司祭の口元が引き攣る。彼らは「今日ここで誓文を奪う」つもりで来た。受領証など、最初から出すつもりはない。
私は息を吸い、決め台詞を置いた。
「提出はします」
司祭たちの目が一斉に光る。
「ただし――王城の法務官、騎士団の立会い、魔術省の封印が揃った場で。誓文が形式なら、その程度の手続きで何も困らないはずです」
「魔術省……?」
司祭の声が掠れた。
私は微笑みを深くする。
「昨夜、保管庫で押さえた黒い液体は、魔術省で鑑定中です。教会が清廉なら、鑑定結果も怖くないでしょう?」
ざわり、と空気が揺れる。
司祭の目の端が、私の胸元――封筒へ向いた。ほんの一瞬。けれど確実に。
(狙ってる)
私は封筒を膝の上で押さえ、姿勢を崩さない。
年嵩の司祭が、低い声で言った。
「令嬢。あなたは教会に喧嘩を売るおつもりか」
「いいえ」
私は静かに返す。
「私は“提出命令”に従うだけです。正当な形で」
司祭の沈黙が続く。
そこへ、扉がノックされた。
執事長が扉を開け、短く告げる。
「王都騎士団副隊長、カイル・グラント様がお見えです」
空気が、さらに一段変わった。
濃紺の外套の青年が入ってくる。灰色の目が司祭の列を一瞥し、私へ礼をした。
「令嬢。呼び出しに応じました」
私は頷く。
「副隊長殿。大聖堂が誓文の提出を要求しています。私は提出します。ただし、騎士団の立会いを求めます」
カイルは迷いなく言った。
「当然です。強制提出は、治安案件です。伯爵家の敷地で脅迫が行われているなら、なおさら」
司祭の顔が歪む。
「脅迫など――!」
「提出命令を携えて十名で押しかけるのは、一般に“圧力”と呼びます」
カイルの声は淡々としていた。淡々としているほど、刺さる。
年嵩の司祭が、すっと立ち上がった。
「令嬢。では、今すぐ大聖堂へお越しください。聖女様がお待ちです」
来た。連れ出し。
私は、ゆっくり首を振った。
「本日中に提出せよ、という命令でした。提出の場は私が選びます。王城の法務官立会いの場で。――時間は、夕刻。王城の文書所前。そこで受理なさい」
司祭が息を呑んだ。
「なぜ、王城――」
「形式だからです」
私は微笑む。
「それとも、形式ではないから、王城に出せないのですか?」
同じ針を、もう一度刺す。
司祭は答えられない。
そして――答えられない沈黙の中で、若い司祭が動いた。
机の上へ、手を伸ばした。
私の膝の上の封筒へではない。机の端に置いた――私の手帳へ。
(取られる)
反射で腕が動く。
私は手帳を引き寄せ、同時にカイルが踏み込んだ。若い司祭の手首を押さえ、冷たい声で言う。
「何をしている」
「私は……っ、令嬢の記録が、信仰を汚す恐れがあると――」
「勝手な判断だ」
カイルが手首を放さない。
年嵩の司祭が慌てて口を挟む。
「副隊長殿、我々はただ、令嬢を救うために――」
「救いの名で盗みを働くのか」
カイルの目が細くなる。
「騎士団は、そういう“救い”を嫌います」
若い司祭は唇を噛み、顔を伏せた。
私は、冷や汗が背中を流れるのを感じながら、手帳を胸に抱えた。
(やっぱり狙ってる。文字を消すだけじゃない。奪うつもりだ)
私は深呼吸し、震えそうな指で封筒を握り直した。
そして、司祭たちへ告げる。
「本日のやり取りは全て記録されました。提出命令の正当性、全文の不提示、受領証の拒否、そして――伯爵家の記録を奪おうとしたこと」
書記の筆が、最後の行を走る。
司祭の顔が、硬く固まる。
年嵩の司祭が、絞り出すように言った。
「……分かりました。夕刻、王城にて」
「ええ」
私は微笑んだ。
「提出します。――あなた方が“形式だけ”と言い張るなら、形式の刃で受けて立ちます」
司祭たちは、礼もそこそこに去っていく。
扉が閉まった瞬間、客間の空気が一気に抜けた。
私は息を吐き、手帳を開こうとして――指が止まった。
(……何を書けばいい?)
いつもなら勝った直後に“次の一手”が浮かぶ。けれど今、頭の中が薄い霧に覆われたみたいに、言葉が出ない。
焦りが喉を締める。
私は封筒の表面を撫でた。自分の走り書きの凸凹が、指先に戻ってくる。
――三日後、誓文を潰す。署名するな。
(そうだ。私は今日、誓文の“提出”を王城へ引きずり出した)
私はようやく呼吸を取り戻し、手帳に書き殴った。
『今日:誓文提出を王城へ移動。教会、手帳を狙う。夕刻、王城文書所前で勝負』
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
カイルが私を見て言う。
「令嬢。……あなたは、教会と何を争っている?」
私は一瞬、答えに迷いかける。
迷いの隙に、また削られる気がした。
だから私は、答えを短く固定する。
「私が私でいるためです」
カイルの目がわずかに揺れ、頷いた。
「……なら、騎士団はあなたの“手続き”を守る」
その言葉が、胸に小さな支えを作った。
そこへ、執事長がもう一通の手紙を持って駆け込んできた。封蝋は白。聖女の印。
私は封を切らずに、表だけを見た。
――《本日、夕刻。王城にて。聖女エレノアが“受理”に立ち会います》
息が止まる。
聖女が、王城へ来る。
教会の庭の外に出る? それとも、王城を庭に変えるつもりか。
私は封筒を胸に押し当て、歯を食いしばった。
夕刻。
王城文書所前。
――誓文は形式だと言ったな、聖女。
なら、その形式で。
「今日ここで、誓文を叩き潰す」
私は立ち上がり、手帳を胸に押さえた。
そのとき、ページの端がふっと薄くなるのが見えた。
まただ。
文字が、消え始める。
私は笑った。怖いのに、笑った。
「消すなら消せ」
声が低くなる。
「私の言葉は、もう紙の中だけじゃない」
そして私は、夕刻の王城へ向けて歩き出した。




