第8話 枢機卿の息子
「アルヴィス伯爵令嬢セレナ様。――枢機卿府より使いでございます」
馬車の揺れが止まり、外の声が静かに響いた。
枢機卿。
大聖堂で私を「異端」と呼び、世界を一色に染めると言い切った――あの赤い法衣の影が、喉の奥に冷たい鉄の味を残す。
(来た……教会内部の権限)
私は膝の上の手帳を押さえ、窓の布を少しだけ持ち上げた。
黒衣の使者が一人。礼儀正しく頭を下げ、封蝋付きの書状を差し出している。封蝋は白ではなく、深紅。枢機卿の色。
「受領は私が。差出人、署名、日時を読み上げてください」
使者は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに従った。
「ヴァレンティス枢機卿府、秘書官代理。――本日、午後。枢機卿府にて面談を」
午後。
今日。逃がさない気だ。
私は唇の内側を噛み、頷いた。
「承りました。ただし、記録係と護衛を同伴します。拒む場合は、書面で理由を」
「……お待ちください」
使者が困惑した顔をした。枢機卿府は“拒まれない”前提で動く。だが、私が作るのはいつだって「拒めない手続き」だ。
数息のあと、使者は低く頭を下げた。
「承知いたしました。記録係、護衛の同伴は可。ただし、面談相手は――枢機卿ではございません」
「……では?」
使者が少しだけ声を落とす。
「枢機卿ご子息、ノア様が」
枢機卿の息子。
四つ目の鍵。
私は胸の奥に、嫌な痛みと、微かな安堵が同時に湧くのを感じた。
枢機卿本人ではない。つまり“内部に割れ目”がある可能性。
(掴める)
馬車が再び動き出す。私はすぐ手帳を開き、太い字で書き込んだ。
『枢機卿の息子:ノア(姓:ヴァレンティス) 目的:誓文の正体/教会内部手続き』
書いた直後、頭が一瞬ふわりと軽くなる。
(……今、使者の顔、覚えてる?)
さっき見たはずなのに、輪郭が薄い。眉の形も、声の高さも、すぐ霧になる。私は手帳の端に小さく追記した。
『使者:黒衣、左頬に小さな傷』
書いて、息を吐く。
(書かなきゃ、消える)
枢機卿府は、教会の中心に近い場所にあった。豪奢というより、威圧的だ。石壁は厚く、窓は狭い。祈りの言葉が刻まれた柱が並び、香ではなく、乾いた紙と蝋の匂いがした。
案内されたのは広間ではなく、書庫だった。
壁一面の書架。禁書もあるのだろう、金属の鎖で留められた棚が奥に見える。中央の机には、分厚い書物が一冊開かれたまま置かれていた。
そこに、黒衣の青年が立っていた。
背は高いが、騎士のような圧ではない。鍛えた体というより、背骨がまっすぐな人間の立ち方。髪は夜のように黒く、目は灰に近い青。視線は鋭いのに、不思議と刺さる感じがない。
「セレナ・アルヴィス令嬢」
青年は名を呼ぶと、礼をした。
「ノア・ヴァレンティスです。父の名であなたを呼びました。……無礼を承知で言います。時間がありません」
最初の一言が、それだった。
私は微笑みを作る余裕すら削られ、逆に真顔で頷く。
「私も同じです。三日後の儀式が迫っています」
ノアの目が僅かに細くなる。
「“祝福の儀”ですね。聖女があなたに誓文を書かせる」
――知ってる。
私は背筋を伸ばした。
「誓文の全文を求めました。ですが、聖女はそれを寄越しません」
「寄越さないでしょう」
ノアは淡々と言い切る。
「誓文は、書面として外に出せない。外に出した瞬間、矛盾が増えるからです」
「矛盾?」
「教義上、あの誓文は不要です」
ノアは机の上の分厚い書物を指で叩いた。
「本来、祝福は祝福で完結する。悔い改めは告解で行う。なのに誓文を公衆の前で書かせるのは――信仰ではなく、支配の形式です」
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
(内部から、同じ結論が出た)
ノアは続けた。
「父は教会の秩序を守る人です。けれど、最近の聖女と“統合派”は、秩序を道具にしています。あなたは、その最初の見世物にされる」
見世物。
私は大聖堂の視線を思い出し、胃が冷えた。
「……なぜ私に教えるのですか」
問いは、当然だった。枢機卿の息子が、教会の敵になり得る情報を私に渡す理由。
ノアは一拍置き、私を見た。
「あなたが今、教会を敵に回しているからです」
「ええ」
「敵に回せる者が、教会の外にいるのは困る。……でも」
ノアの視線が少しだけ柔らかくなる。
「あなたが守ろうとしているのが“国”と“家”だけなら、まだ話は簡単です。問題は――あなたが信仰そのものを否定するつもりがあるかどうか」
私は一瞬、答えに迷いかけた。
正教会は敵。けれど、信仰は、民の支えでもある。全否定すれば、私もまた“火種”になる。
その迷いが、胸の奥で小さく疼いた瞬間。
(……私は、どう答えるつもりだった?)
言葉の順序が一瞬崩れかける。私は手帳を机の下で開き、書いてから口を開いた。
『信仰は否定しない。権力の濫用を否定する。』
「否定しません」
私ははっきり言った。
「信仰を否定したいのではない。信仰を盾に、人を焼く行為を止めたいのです。――教会が“救い”を名乗るなら、手続きも証拠も必要です」
ノアは静かに頷いた。
「……その答えなら、私も動ける」
彼は机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。封は深紅ではなく、無色の封蝋。個人の印だ。
「これは誓文の写しです。正式な手続きで作られたものではない。だからこそ、あなたの手に渡る」
私の指先が冷えた。
(手に入る。これで罠を潰せる)
でも同時に、嫌な予感が膨らむ。
「……読んでも大丈夫ですか」
ノアの目が僅かに鋭くなる。
「いい質問です。読んではいけない」
私は息を呑んだ。
ノアは低い声で言う。
「誓文は“文章”ではなく、“誓約術式”です。全文を声に出して読めば、内容を理解していなくても成立する。署名は最後の楔にすぎない」
私の背筋がぞわりと粟立つ。
聖女が“形式だけ”と言った理由が、やっと形になる。
「なら、どうすれば――」
「要点だけを伝えます」
ノアは封筒を私の前に置き、指で封蝋を押さえたまま言った。
「誓文は、あなたの魂の帰属を“正教会に固定”する。固定された魂は、疑う力を失う。……あなたの“揺らぎ”が何であれ、それを“矯正”する名目で縛る」
私は拳を握った。
矯正。浄め。救い。全部、同じ言葉だ。
「あなたは、署名しないためにこの写しが欲しい。だが、写しは危険でもある。だから――」
ノアは私を見た。
「持ち帰るなら、騎士団か魔術省の封印を借りなさい。あなた一人の管理では、奪われる」
奪われる。
私は思わず、手帳の重みを確かめた。胸の内側にしまってある。けれど、それだって“絶対”じゃない。
ノアが、ほんの少し声を落とす。
「もう一つ。……あなたの記録係。誰ですか」
「伯爵家の書記です。父がつけた者で――」
「その人の筆跡を、確認してください」
胸が冷たくなる。
「なぜ」
「教会は“文字”を祈りにする。祈りは、偽装できる」
ノアは言い切った。
「あなたの手帳が文字であなたを支えているなら、敵は文字を狙う。……書き換えられたら、あなたは自分の罠に落ちる」
書き換え。
私は咄嗟に笑いそうになった。そんなことができるなら、もう何でもありじゃないか、と。
でも――黒い触媒が“聖性を上塗りする”なら。記憶を摩耗させるなら。文字に何かすることだって、あり得る。
私は頷いた。
「……確認します」
ノアは封筒をそっと私の方へ押した。
「この写しは、あなたを助ける刃にも、あなたを切る刃にもなる。使い方を誤るな」
刃。
騎士団長の息子が持つ剣とは違う種類の刃だ。
私は封筒に触れ、すぐ手袋越しに持ち上げた。
「ありがとうございます、ノア様」
彼は小さく首を振る。
「礼はまだ。三日後、あなたが燃えずに立っていたら、受け取ります」
その言い方が、なぜか胸に刺さった。
信仰のためでも、教会のためでもない。――私が“生きている”ことを、条件にしてくれた言葉。
(この人は……味方になれる)
帰りの馬車の中で、私は封筒を膝の上に置き、手帳を開いた。
『誓文:声に出すな。読むな。魂の帰属固定。署名=楔。』
『ノア:文字の偽装を警告。筆跡確認。』
書き終えた瞬間、胸が少しだけ軽くなる。
(よし。これで――)
そこまで考えて、私は手帳のページを見つめた。
そこに、さっき書いたはずの行が――薄い。
インクが滲むのとは違う。色が抜けるみたいに、字が淡くなっていく。
「……え?」
私は指でなぞった。確かに触れるのに、線が頼りない。まるで、紙が文字を拒んでいるみたいに。
(嘘でしょ)
焦ってページをめくる。
『注意:祝福の儀の当日、“署名するな”』
その行が――半分、消えていた。
「……っ」
喉の奥が音にならない。
手帳は私を裏切らない、と信じてきた。記憶より強い錨だと。なのに、文字が消えるなら、私は何を信じればいい?
頭の中で、ノアの声が蘇る。
――教会は“文字”を祈りにする。祈りは、偽装できる。
私は震える手で、消えかけた行の上から、もう一度なぞるように書いた。
『署名するな』
書いた。確かに書いた。
――でも。
インクが乾く前に、また色が薄くなり始めた。
私は息を止めた。
(消されてる)
誰が? どうやって? いつ?
馬車の窓の外は、穏やかな王都。何も起きていない顔。何も起きていないからこそ、背筋が凍る。
私は手帳を胸に抱きしめ、封筒をもう一方の手で握りしめた。
(手帳が消されるなら、次は何?)
(記憶? 私自身?)
その瞬間、ふっと――自分が何を恐れているのか、言葉にできなくなる。
怖い。焦る。なのに、何が怖いのかが掴めない。
私は目を閉じ、歯を食いしばった。
(思い出せ。思い出せ)
(私は……三日後……)
三日後に何をする? 誰と戦う? 何を潰す?
答えが霧の中に沈みかけた瞬間、私は封筒の重みを感じた。
誓文の写し。
私は手帳を開くのをやめ、封筒の上に指で小さく刻むように書いた。
『三日後、誓文を潰す。聖女の嘘を暴く。署名するな。』
紙じゃない。封筒の表面。雑でもいい。残ればいい。
書き終えた瞬間、呼吸が戻った。
私は目を開け、窓の外の大聖堂の尖塔を見た。
三日後。
祝福の儀。
聖女と王太子。
そして――私の文字を消しに来る、見えない手。
私は封筒を握りしめ、低く呟いた。
「……消すなら、消せばいい」
喉の奥が熱い。
「私の言葉は、紙だけじゃない」
馬車が伯爵家の門をくぐる。
そのとき、玄関の前に、白い外套が見えた。
――聖女の使いではない。今度は、白衣の司祭が十名以上。大聖堂の正式な行列だ。
執事長が青い顔で走ってくる。
「セレナ様! 大聖堂より――“誓文を本日中に提出せよ”との通達が……!」
私は馬車を降り、笑った。
乾いた笑いだった。
「……早すぎる」
三日後じゃない。
今日から、私の“署名”を取りに来る。
私は封筒を胸に押し当て、手帳の消えかけた文字を思い出そうとした。
消えていく文字の代わりに、私の中で、別の言葉がはっきり鳴った。
――燃えたくない。
だから。
「通して」
私は行列を見据えた。
「今日ここで、誓文の形を叩き潰す」




