第7話 黒い液体の正体
王太子殿下が臨席する。
その報せは、ただの噂としては流れなかった。伯爵家の執事長が手にしていたのは、王城の印章が押された正式な通達だったからだ。
「……逃げ道を塞いできたわね」
私は紙を指先でなぞり、息を吐いた。
三日後。大聖堂。公開の“祝福の儀”。聖女と王太子が並ぶ舞台。
そこは、私が焼かれた場所と同じ――いや、同じ形をした別の檻だ。
「セレナ、無理をするな」
父が低い声で言った。書斎の空気が重い。昨夜の侵入事件の報告書、王城宛の控え、財務大臣府への写し。机の上には紙が山になっている。
「無理じゃないわ、父上。……これは、やるべきことよ」
私は微笑んだ。微笑まなければ、怖さが表に出る。
「誓文の署名を求められるのよね?」
父が眉を寄せる。
「ええ。“形式だけ”って」
「形式は人を縛る。……お前の言うとおりだ」
父は短く頷いた。私の変化に戸惑っているはずなのに、今は支えてくれている。
私は机の端に置いていた手帳を開き、箇条書きにした。
『三日後:公開儀式』
『罠:悔い改めの誓文』
『対策:誓文を“署名できない形”にする/署名しても効かない形にする/相手に署名させる』
そして最後に、太く線を引いて書く。
『鍵:魔術省の鑑定』
昨夜押さえた小瓶の黒い液体。短剣。鍵の型取りの粘土。あれが“何”なのかを、こちらの言葉で説明できなければ、教会はまた「信仰」で押し返してくる。
信仰に、物証をぶつける。
その役割は――魔術省。
「父上。魔術大臣府へ、面会を申し込みます」
「今からか?」
「今から。……時間がない」
父が渋い顔をする前に、執事長が一歩出た。
「すでに使者を走らせております。セレナ様が命じられた通り、“鑑定の緊急性”を強調して」
私は小さく頷いた。よし。
――けれど。
書斎を出ようとしたとき、ふと足が止まる。
(……魔術大臣の姓、何だっけ)
当たり前のはずの情報が、暗い水に沈んでいるみたいに出てこない。焦るな、と自分に言い聞かせても、喉が冷える。
私は手帳を開き、ページをめくった。昨日の自分が、太い字で書いてある。
『魔術大臣:セルウィン公』
セルウィン。そうだ。――参照できる。
私は手帳を閉じ、呼吸を整えた。
(記憶は頼りにならない。紙だけが味方)
馬車で王都へ向かう道中、私は窓の外を見ないようにした。景色は穏やかすぎて、心が揺らぐ。揺らいだ瞬間、また何かが削られる気がした。
魔術省の門は、王城と同じくらい堅い。衛兵が通行証を確認し、私の名を聞いた瞬間に顔色を変えた。
「……アルヴィス伯爵家、令嬢。こちらへ」
案内された応接室は、香ではなく金属と薬草の匂いがした。机の上に並ぶのは水晶球、刻印板、封蝋の代わりに“術式印”を押すための器具。
そして、扉が開く。
入ってきた青年は、まず私の手元――黒い小瓶の封印――を見るなり眉を寄せた。
背が高い。髪は濃い銀。目は薄い青で、感情より計算が先に来る顔。
「……それを持ち込むとは、いい度胸ですね」
声は落ち着いている。けれど、距離感は冷たい。
「魔術大臣府ご子息、リュカ・セルウィンです」
その名が耳に入った瞬間、私は心の中で何度も繰り返した。
リュカ。セルウィン。
消えるな。消えるな。
私は即座に手帳を開き、机の下で書く。
『リュカ・セルウィン』
ペン先が紙を擦る音が、やけに大きい。
リュカはそれを見て、一瞬だけ目を細めた。
「……あなた、何をしている?」
「忘れないためです」
私は正直に答えた。嘘を混ぜると、言葉が綻ぶ。
「私は最近、“人名を落とす”ことがある。だから書きます」
リュカは微妙な顔をしたが、追及はしなかった。追及するより先に、興味が勝ったのだろう。
「で、黒い液体は?」
私は封印袋から小瓶を取り出し、机の上に置いた。もちろん封は解かない。封蝋と騎士団の署名がある。
「昨夜、伯爵家の寄進品保管庫に侵入者が入りました。聖遺布を汚し、罪を作るために。騎士団が押さえたものです」
「聖遺布を汚す?」
リュカの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「教会絡みか」
「ええ。三日後、大聖堂で公開の儀式が行われます。聖女が私に誓文の署名を求める。――私はそれを潰したい」
リュカが椅子に座り、指を組んだ。
「あなたは貴族令嬢だ。教会に喧嘩を売るのは得策じゃない」
「得策です」
私は即答した。
「教会が王政と統合して世界を一色にする。その第一歩が“異端狩り”です。私は最初の火種にされる。――なら、最初で止める」
リュカの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……世界を一色に、ね。ずいぶん大きく出る」
「大きいから、早い。大きいから、隙もある」
私は言葉を切り、机の上にもう一つ置く。
短剣。鍵型取りの粘土の欠片。どれも封印袋に入れ、騎士団の署名がある。
「鑑定してください。黒い液体と、刃に付いた痕跡と、粘土。……聖女の“奇跡”に繋がるなら、尚更」
リュカはしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「いいだろう。――ただし条件がある」
「条件?」
「鑑定結果を、あなたがどう使うか。あなたの“目的”が私の父の不利益にならないと、保証してもらう」
政治だ。魔術省は中立じゃない。
私は頷いた。
「私の目的は“正教会の暴走を止める”こと。魔術省を傷つける気はない。むしろ、魔術省の権限が必要です」
リュカは指先で机を叩き、立ち上がった。
「……分かった。ついてこい。鑑定室でやる」
案内された鑑定室は、壁一面が術式で覆われていた。床の円環に水晶が埋め込まれ、空気が微かに震える。ここなら、教会の“奇跡”も、嘘なら剥げる。
リュカは封印袋を慎重に開け、黒い小瓶を“鑑魔結晶”の上に置いた。結晶が淡く光り、次の瞬間――嫌な音がした。
きし、と。
結晶の表面に、細い亀裂が走ったのだ。
「……は?」
私の声が漏れる。
リュカの顔色が一段落ちる。
「これは……“聖性”に反応する汚染じゃない。逆だ」
彼は結晶の反応を読み取り、舌打ちした。
「“聖性を装う”ための触媒だ。簡単に言えば、神の気配を“上塗り”する」
「……聖女の奇跡を偽装できる?」
「可能だ。少なくとも“それっぽく見せる”ことは」
リュカの声が冷えた。
「しかも、これは正教会の系統じゃない。――古い系統だ。正教会が“異端”と呼ぶもの」
異端。
その言葉が、胸の奥に刺さる。
(ループも、異端の奇跡)
リュカがこちらを見る。
「令嬢。あなた、さっき“人名を落とす”と言ったな」
私は息を止めた。
「……はい」
「この触媒には副作用がある。長く晒されると、記憶の定着が弱くなる」
背筋が凍った。
「記憶が……?」
「正教会がこんなものを使うのはおかしい。だが、もし聖女が“奇跡”を演出するために使っているなら……」
リュカは言葉を切り、結晶の亀裂を指でなぞった。
「あなたの周囲で“揺らぎ”が増えている理由になる。……あなたは既に、触れている」
触れている。
私は思わず自分の手を見た。火傷も染みもない。ただの指。
けれど、私は確かに――戻った。織り直された。そのたび、何かが削れた。
(私の奇跡とは別に、教会が“削ってくる”手段を持ってる?)
リュカが続ける。
「三日後の儀式。誓文に署名させるのは、形式じゃない。署名と同時に“触媒”を使えば、あなたの記憶と意思を鈍らせることができる」
私は唇の内側を噛んだ。
聖女が言った言葉が蘇る。
――繰り返すほど、あなたはあなたでなくなる。
あれは脅しじゃない。手段があるから言えたのだ。
「……リュカ様」
私は顔を上げた。
「三日後、大聖堂に来てください。鑑定官として。公的に」
リュカは一瞬迷い、それから短く頷いた。
「父に進言する。……ここまで来たら、見過ごせない」
私は息を吐いた。三人目の味方。魔術の権限。
柵が、また一つ閉じる。
そのとき、ふっと頭の中が空白になった。
(……今、私は何のために大聖堂へ行くって言った?)
目的が、輪郭を失いかける。焦る。怖い。
私は即座に手帳を開き、太い字で書いた。
『目的:誓文を潰す。公開で聖女の嘘を暴く。私が裁かれる舞台を、私が裁く舞台に変える』
書いた瞬間、呼吸が戻った。
(書けば、戻れる)
リュカが、その手帳を見て、ぽつりと言った。
「……あなた、本当に危ういな」
「ええ」
私は笑った。
「だから、急ぐの」
帰りの馬車の中で、私は膝の上の手帳を抱えたまま窓の外を見た。
王都の大聖堂の尖塔が、遠くに見える。
三日後、あそこに立つのは私だ。聖女と王太子の前で。
でも、今度は――魔術省の鑑定がある。騎士団の立会いがある。財務が金を締める。
勝てる盤面は作れる。
作れるはずなのに。
手帳の端に、いつ書いたのか分からない走り書きがあった。
『注意:祝福の儀の当日、“署名するな”。自分でも分からなくなる』
私は息を呑んだ。
(……いつ、私が書いた?)
そして、さらにその下に。
『もし手帳を失ったら、あなたは負ける』
指先が冷えた。
胸の奥が、きゅっと締まる。
無限に戻れると思っていた。
けれど、戻るほど――“私の武器”が、私自身から剥がれていく。
私は手帳を強く抱きしめ、心の中で誓った。
(手帳は、渡さない)
(誰にも、奪わせない)
その瞬間、馬車が少しだけ揺れ、外から声がした。
「アルヴィス伯爵令嬢セレナ様。――枢機卿府より使いでございます」
枢機卿。
教会内部の権限。
私は、ゆっくり顔を上げた。
四人目の鍵が――ついに、動く。




