第6話 慈愛の仮面
玄関の方から、靴音がした。
伯爵家の絨毯を踏むには丁寧すぎる歩幅。揃いすぎた呼吸。――教会の行列だ。
「通して」
私がそう言ったのは、覚悟を固めるためだったと思う。
客間の扉が開き、白が入ってくる。
聖女エレノアは、手紙の文字どおりの人だった。淡い金髪、白い外套、柔らかな微笑み。まるで光だけで形作られたみたいに清らかで――だからこそ、怖い。
彼女の背後には司祭が二人。さらに、護衛らしい黒衣の男が一人。人数は少ない。少ないのは、圧で十分だからだ。
「セレナ様」
聖女は私の名を呼ぶと、胸の前で指を組んだ。
「お会いできて嬉しいです。あなたが心を痛めていると聞き、居ても立ってもいられませんでした」
慈愛。心配。救済。
――全部、武器。
私は礼をして、微笑みだけ返した。
「ご足労いただきありがとうございます、聖女様。ですが、突然のご訪問は驚きました」
「ええ。突然でなければ、あなたは逃げてしまうかもしれないでしょう?」
にこりと笑いながら言われて、背筋がひやりとした。
(逃げない。逃げたように見せない)
私は椅子を勧め、同時に合図を送る。部屋の隅に控えていた執事長が、一歩前へ出た。
「本日の面談は、伯爵家の記録係が同席し、会話内容を記録いたします」
記録係――若い書記が、机の端に紙とペンを置く。
聖女の睫毛が一度だけ揺れた。
「……あなたは、そこまで警戒しているのですね」
「昨夜、我が家の保管庫に侵入がありましたので。私どもは慎重であるべきだと学びました」
聖女は首を傾げる。
「侵入……? まあ。きっと誤解が重なったのでしょう。神の御前では、誰もが迷うことがあります」
迷い。誤解。慈悲。
私はゆっくり息を吸って言った。
「誤解で、短剣は出ません」
微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。
「刃物を持ち込んだ者は、教会の人間ではありません。あなたがそうでないと信じたいからこそ、私は王城へ正式に報告しました」
「王城へ……」
聖女がその言葉を反芻した瞬間、空気がひとつ冷えた。
「あなたは、教会より王城を信じるのですか」
来た。
信仰か、国家か。二択を迫る問い。どちらを選んでも、「異端」の口実になる。
私は迷わず、三つ目を出す。
「私は“手続き”を信じます。教会も王城も、手続きがあるからこそ信頼できる。だから私は、どちらの手続きにも従います」
書記のペンが、さらさらと走る音がする。
聖女の微笑みが戻る。
「立派ですね。……でも、セレナ様」
彼女が身を乗り出し、私の目を覗き込んだ。
「あなたの魂は、揺らいでいます。ここ数日、あなたの周囲で“妙な偶然”が起きている。火がつくはずのものが消え、崩れるはずのものが崩れない」
私は心臓の鼓動を一つ落とした。
(嗅ぎつけるのが早い)
聖女は指先を軽く上げた。そこに、淡い光が灯る。蝋燭の火と違う、白い点。
「神は、揺らいだ魂を放っておきません。浄めましょう。あなたのために」
光は綺麗だ。綺麗すぎる。大聖堂の冷たさを、思い出させる。
私は視線を逸らさず答えた。
「浄めとは、具体的に何をなさるのですか。儀式の名称、手順、立会いの規定、記録の扱い――書面でいただけますか」
光が、ぴくりと揺れた。
「……セレナ様。あなたは、救いを“書面”で量るのですか」
「救いではなく、手続きを確認しているのです」
私は微笑んだまま、言葉を重ねる。
「昨夜の件も、もし“正しい手続き”があれば起きませんでした。だから私は、確認します。聖女様がなさることが正しいなら、書面があって困る理由はありません」
聖女の目が、少しだけ細くなる。
「あなたは……強いのですね」
褒め言葉の形をした、分類。
強い女は扱いづらい。だから「浄め」で従順に戻す。
私は頷いた。
「強くなりました。家を守るために」
そのとき、聖女の視線が机の端に置いた私の手帳へ向いた。
一瞬だけ。けれど確かに。
(見られた)
私は手帳に手を置き、さりげなく閉じた。
聖女は再び微笑んだ。
「では、こうしましょう。あなたの条件を受け入れます。大聖堂の小礼拝堂に、記録官を用意します。騎士団の立会いも、許可しましょう」
優しい声。
――けれど、ここまで譲るのは不自然だ。
(罠の形が変わった)
私は警戒を深める。
「ありがとうございます。日時は?」
「三日後」
聖女は迷いなく言った。
「“祝福の儀”を公に行います。あなたが潔白であれば、皆の前で名誉が回復する。あなたの婚約についても……王太子殿下のお心は、まだ――」
婚約。
その単語で、胃の底が冷たくなる。
断罪の日、あの人は私を見なかった。
それなのに今ここで、婚約を餌にする。
聖女は続ける。
「ただし、条件があります」
来た。
「祝福の儀の前に、あなたは“悔い改めの誓文”に署名するのです。形式です。形式だけ。――あなたの心が、正教会と共にあるという証明」
形式だけ。
形式は、首輪だ。
署名した瞬間に「異端の可能性を認めた」と言える。署名しなければ「悔い改める気がない=異端」と言える。
どちらに転んでも、教会が勝つ形。
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
(……誓文の文言、どこかで見た)
一瞬、頭の中に紙の感触が浮かぶ。けれど肝心の文言が、掴めない。霧の向こうにある。
記憶が、また削れた。
私は笑顔を崩さずに、机の下で指を握りしめた。
(大丈夫。ここで負けない)
私は静かに言った。
「誓文の全文をください。弁護士――いえ、法務官に確認します」
聖女が眉をわずかに寄せる。
「あなたは本当に、信仰を……」
「信仰を利用した文言なら、なおさら確認が必要です」
私は遮る。
「“形式”なら、なおさらです。形式は、後で人を殺す」
書記のペンが止まり、再び動いた。
聖女は少しだけ沈黙し、それから――微笑みを深くした。
「……いいでしょう。あなたが望むなら」
あまりにも素直で、逆に怖い。
彼女は椅子から立ち上がり、外套の裾を整えた。
「セレナ様。あなたは賢い。だからこそ、危うい」
そして、最後に囁くように言った。
「あなたは、同じ夢を何度も見ていませんか?」
心臓が、どくんと跳ねた。
(……何を、どこまで知っている)
聖女は私の反応を楽しむでもなく、ただ慈愛の顔で言葉を落とす。
「神は、繰り返す者を嫌います。……繰り返すほど、あなたはあなたでなくなる」
私は瞬きひとつしなかった。
彼女はそれ以上言わず、礼をして去っていく。白い背中が扉の向こうへ消えた瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
けれど、軽くなった分だけ、恐怖がはっきり見えた。
(見抜かれてる)
いや、見抜いたというより――嗅ぎ当てた。私の“揺らぎ”を。
私は手帳を開き、震える手で書く。
『三日後:公開の祝福の儀。誓文署名を要求=罠。聖女、ループを“夢”として示唆。危険度上昇』
書き終えた瞬間、私はふと、自分の指輪を見た。
(……これ、いつから付けてた?)
当たり前のはずの記憶が、抜け落ちている。指輪の意味も、贈り主も、曖昧だ。
私は息を吸い、机の引き出しを開けた。
そこに、私が書いたメモがあった。
――『忘れたら見る:大切なものほど、書け。』
胸がきゅっと痛む。
(大切なものほど、消える)
だからこそ、急がなければならない。
そのとき、廊下で慌ただしい足音がした。執事長が駆け込んでくる。
「セレナ様! 王城より使者が――“大聖堂での祝福の儀に、王太子殿下が臨席される”とのことです!」
王太子。
婚約解消を宣言した、あの人が。
私は唇の内側を噛んだ。
三日後。大聖堂。公衆の前。聖女と王太子が揃う舞台。
――断罪の再現だ。
ただし今回は、私が裁かれるとは限らない。
私は手帳を閉じ、立ち上がった。
「準備するわ」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「誓文を潰す。祝福の儀を、私の“ざまぁ”の舞台に変える」
窓の外で鐘が鳴った。
祈りの音ではない。
三日後へ向けて、時間が動き出した合図だった。




