第5話 聖女の手紙
白い封蝋は、触れただけで冷たかった。
伯爵家の客間の机。朝の光。湯気の立つ紅茶。――どれも穏やかなのに、封筒だけが異質だった。指先から体温が吸われていくような、あの大聖堂の空気と同じ冷たさ。
「セレナ様、開けますか?」
侍女マリアが不安そうに見つめてくる。
「……ええ」
私は頷き、封蝋を割った。
紙の匂いは良い。字は美しい。けれど、そこに書かれている内容は、刃物より鋭い。
――《セレナ・アルヴィス様へ》
――《先日、あなたの邸内で騒ぎがあったと聞きました。驚き、そして心を痛めております》
聖女エレノアの名が添えられている。
――《あなたの魂に、わずかな“揺らぎ”を感じました。神は、迷う子を見捨てません》
揺らぎ。
私は紙を持つ手に力を入れた。
(……嗅ぎつけた)
正教会の神ではない“異端の奇跡”が、私を戻した。あれがどういう理屈であれ、教会は「自分たちの外の奇跡」を許さない。だから聖女は私を“救う”という言葉で捕まえに来る。
読み進める。
――《よろしければ、明日の夕刻、大聖堂の小礼拝堂へ。あなたを浄め、誤解を解く機会を差し上げます》
――《お一人でお越しください。余計な耳目は、あなたのためになりません》
来た。
“ひとりで来い”。
断罪の前と同じやり口。私を教会の庭の中に引きずり込み、出られない形にする。浄め? 誤解を解く? 綺麗な言葉の下に、異端の刻印がある。
私は手紙を机に置き、息を吐いた。
「マリア」
「はい」
「この手紙、受領記録を取るわ。届けた使いの名前も」
マリアは驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「かしこまりました。……セレナ様、行かれるのですか?」
私は一拍置いて答える。
「行く。ただし――私の条件で」
教会に「行かない」は、相手の望む展開を遅らせるだけだ。だったら“行く”と言っておいて、こちらの土俵を作る。
私は白紙の手帳を開いた。
『聖女から招待。条件:単独。→拒否。こちらから条件提示(立会い/記録/騎士団同席)』
書き終えた瞬間、頭の奥がちくりとした。
(……受領帳の棚、どこにしまった?)
いつもなら目を閉じても分かるはずの場所が、曖昧に滲む。私は眉を寄せ、深呼吸して、机の左側の引き出しを順に開けた。
三段目。そこにあった。
(……大丈夫。書けば思い出せる)
そう言い聞かせた矢先、扉がノックされる。
「セレナ様。来客です」
執事長の声のあと、続けて告げられた肩書に、私は背筋を正した。
「財務大臣府より――ご子息がお見えです」
来た。
昨夜の報告書の三通目。財務大臣宛に送ったあれが、動いた。
私は立ち上がり、客間へ向かう。
そこにいたのは、落ち着いた顔つきの青年だった。黒髪を後ろに流し、礼服は質素だが寸分の乱れもない。目は深い青で、相手を値踏みするような冷静さがある。
「アルヴィス伯爵令嬢。突然の訪問をお許しください」
彼は丁寧に一礼した。
「私は――」
名を名乗られた瞬間、私は反射で手帳を握りしめた。
(……出る? 出るわよね)
喉の手前まで来た音が、またすり抜ける気配がする。私は笑顔を崩さず、彼の名が完全に消える前に、耳で捕まえた。
「……エリオット・ヴァイス様」
口に出すと同時に、心の中で強く反芻する。エリオット。ヴァイス。
青年――エリオットが、わずかに驚いたように瞬きした。
「私の名をご存じで?」
「財務大臣のご子息ですもの。存じています」
私は嘘を吐いた。半分は本当だ。――未来で、私は彼の名を聞いたことがある。けれど、その“未来”を説明できない。
エリオットは椅子に腰を下ろし、前置きなく本題に入った。
「昨夜の件。騎士団が押さえた物品の写しと、寄進の記録。あなたの手紙は非常に……具体的でした」
「事実だけを書きました」
「ええ。だからこそ、父は動きます」
エリオットの口調は静かなのに、断定的だった。
「教会の金の流れは、曖昧なまま放置されすぎている。寄進は美徳として扱われ、監査の対象から外れがちです。――その“美徳”が、権力になった」
私は胸の内で頷いた。
この青年は、宗教論で動かない。数字と仕組みで動く。味方にするなら、こういう人間が強い。
「あなたが送ってくれた寄進台帳。アルヴィス家だけでも相当な額ですね。……それに、教会側の受領証が一部抜けている」
「抜けているのではなく、“出されていない”のです。こちらが受領を求めると、いつも『信仰に書面は不要』と」
エリオットは唇の端をわずかに上げた。
「不要なら、今から必要にすればいい」
その言葉だけで、私はこの男が頼れると確信した。
「父上――財務大臣は、動かしてくださいますか」
「動きます。ただし正面からは難しい。教会は免税特権も多い。だから……」
エリオットは机に指を一本置いた。
「周辺から締めます。寄進の運搬、保管、護送、印章の管理。そこに“国家の手”を入れる。あなたが昨夜捕まえたのは、教会の外の雇われでしょう?」
「おそらく」
「なら、金が出ている。雇い主は金を動かす。金は痕跡を残す」
私は息を吐いた。
一人目の味方は騎士。二人目は財務。
教会の庭を囲う柵が、少しずつ出来上がっていく。
エリオットが視線を上げる。
「……もう一つ。あなたに忠告です、令嬢」
「何でしょう」
「聖女から招待が来ていませんか」
私は、微笑みを保ったまま心臓だけが跳ねた。
「なぜ、それを」
「来ていますね」
エリオットは淡々と言う。
「昨夜の件が表に出れば、教会は“信仰”で押し返すしかない。あなたを異端として処理できれば、監査の話も全て消せる。だから次はあなたの“魂”を取りに来る」
私は手紙の文言を思い出す。
――揺らぎ。
「……感じる、という言葉がありました」
「揺らぎ、でしょう。最近、あなたの周りで“偶然”が多い。そういう噂は、教会の耳に入る」
噂。
私は背中が冷たくなるのを感じた。未来の知識で先回りしている以上、“当たりすぎる”のは危険だ。奇跡めいて見えるほど、教会は私を異端にしやすい。
けれど同時に、私は決める。
(なら、当て続ける。奇跡じゃなく、準備と記録で)
私はエリオットを見据えた。
「聖女の招待、受けます。ただし“ひとりで”は行きません。騎士団の立会いと、書面の記録を要求します」
エリオットは少しだけ目を細めた。
「賢明です。……そして、可能なら」
彼は声を落とす。
「魔術大臣府にも当たってください。聖女の“奇跡”が本物かどうか。あの黒い液体が何か。魔術省の鑑定が入れば、教会は嘘をつきづらくなる」
魔術大臣の息子。
三人目の鍵。
私は頷いた。
「動きます」
その瞬間、頭の中で、誰かの名がふっと霞んだ。
(……魔術大臣の息子の、名前は……)
分からない。
未来で聞いた。確かに聞いた。なのに、手を伸ばした瞬間に空っぽになるみたいに、そこだけ抜け落ちる。
私は笑顔のまま、喉が鳴りそうになるのを堪えた。
(だから、書く)
手帳を開き、太い字で書く。
『次:魔術大臣の息子。目的:鑑定(聖女の奇跡/黒い液体)』
エリオットが席を立つ前に、最後に言った。
「令嬢。あなたは――教会にとって、都合の悪い存在です」
「ええ」
私は答えた。
「だから、潰します」
エリオットは一瞬だけ口元を緩め、深く礼をして去っていった。
扉が閉まったあと、私は聖女の手紙を取り上げた。
白い紙。美しい文字。慈愛の言葉。――その全部が罠だ。
私は返答の紙を取り出し、ペンを取る。
返事は短く、しかし逃げ道を塞ぐ。
《招待を受領しました。出頭します。ただし、騎士団の立会い、記録官の同席、会話内容の書面化を条件とします。条件を満たせない場合は、別日に改めて正式な手続きを》
これで、相手がどう動くか分かる。
――条件を飲めば、教会は“公の場”で勝負せざるを得ない。
――飲まなければ、聖女の「慈愛」が嘘だった証拠になる。
私は封をして、受領帳に控えを残し、封蝋を押した。
その瞬間、また胸の奥がきゅっと締まる。
(……戻るたび、削られてる)
でも、今はまだ削られたのが“私”だと分かる。分かるうちは、戦える。
窓の外で、昼の鐘が鳴った。
大聖堂から届く音。
――明日の夕刻、私はまた教会の庭へ入る。
ただし今度は、ひとりじゃない。
私は手帳に最後の一行を書いた。
『聖女と初対面。勝負は“言葉”と“記録”。忘れる前に、勝つ』
ペンを置いた瞬間、マリアが青ざめた顔で駆け込んできた。
「セレナ様……! 大聖堂の使いが戻ってきました。返事の条件を見て――“聖女様が、今からこちらへ来る”と……!」
私はゆっくり顔を上げた。
来る。
私の庭に、聖女が。
教会の象徴が、直々に。
(……早い。想定より)
でも、いい。
逃げない。
私は立ち上がり、スカートの皺を整えた。
「通して」
微笑みを作る。
「――私も、聖女様に“条件”を教えて差し上げるわ」




